歴史。伝承。神話。人類の歩んできた足跡上に存在するエニグマ(謎)

 
 

クリスマスと『黙示録』。その不気味極まりない相関関係:後半部

 まずもって、本頁の内容に入るまえに直下、前頁内容の一言要約をなしておく。

(前頁の内容の要約として)

海外を含め世間でそのようなことを論拠を密に問題視しようとの人間は絶無だが、クリスマスと『黙示録』の間にははきとさ指し示せる形で不快なる関係が成立している。
 その関係につき語る上での結び目となる存在がA[サトゥルナス]・[時の翁]、B[クリスマスの来訪の老人](世界的基準で見れば、サンタクロースは一呼称にすぎないため右のように書いている)、C[サタン]、D[オーディン]の各者である。
 それらAからDの存在 ―神話的アイコン(記号)とも表されよう存在― からして"すべて"結びついており、[AとBの関係][BとCの関係][CとDの関係][BとDの関係][AとCの関係]については充分とも述べられよう形での指し示しをここに至るまででなした

 以上のように一言要約できる前頁の内容を細かいレベルで理解していないと本ページの内容は「出だしから」意味不明なものとなってしまうだろう(⇒当記事前頁へのリンクもここに設けておく:[クリスマスと『黙示録』。その不気味極まりない相関関係について] ―文字色改変部をクリックすることで移動― )。 

 最初に断っておくべきことにつき上をもって申し述べたとして、それでは、以下、本題に入ることとする。


[オーディン][サトゥルヌス]の関係について

  さて、(頁を改めたうえでなお前頁の多くをそれに割いてきた[神話・伝承上の事物らの関係性にまつわる解説]を継続させるとし)、D[オーディン]A[サトゥルヌス]/[時の翁]の関係についてである。両者の間には次のような関係が成立している。

これだけ述べれば十分、といった極めて重要なこととして、オーディン[サンタことクリスマス来訪の老人]と伝承上のニアリー・イコールの関係が成立していること、既述の存在もサトゥルヌスも共に[冬至の祭り]を介して現在の冬至の折のキリスト降誕祭、クリスマスと結びつく存在である(:オーディンの場合、同神が中空の巻狩りを催すとされる[ユールの祭り]が問題となる。サトゥルヌスの場合、ローマ期、同神に捧げられるとの名目で催されたとの[サトゥルナリア祭]が問題となる。それらについては前頁で詳述した通りである)。

オーディンには[戦争と死の神]という特質上、死神としての側面もあるが、サトゥルヌスと同一視される時の翁に至ってはまさに[死神そのもの]と言える(:ただし、両者の性質はかなり異なる。オーディンには勇士の魂を戦場で狩らせる軍神としての側面や知恵を求める神としての側面などもある。他面、サトゥルヌスと同一視される時の翁に至っては鎌と砂時計を持った姿から[ Grim Reaper、無慈悲な刈取り手としての髑髏の死神・純然たる死神]と相通じる存在である)。

サトゥルナスことクロノスは前頁既述のとおり自身の産みの親に抗った神だが、オーディンも一面でそういう神である(オーディンは母方の祖にあたる霜の巨人ユミルを打倒し、その死体を世界を造り上げる材料とした)。

小さいことながら、オーディンもサトゥルヌス・時の翁も[豊かに髭をたくわえた老人]として描かれることが多い。


 どうだろうか。非常に長くなってしまったが、ここに至るまでの内容にて次のような関係性が成立することを指し示してきたことになる(関係性表記の中の[⇔]記号は極めて密接なる関係が成立していることを示すものと解釈いただきたい)。

A[サトゥルヌス]/[時の翁]⇔B[クリスマス来訪の老人]
B[クリスマス来訪の老人]⇔C[サタン]
・※B[クリスマス来訪の老人]≒D[オーディン] 
C[サタン]⇔D[オーディン]
・※A[サトゥルヌス]/[時の翁]⇔C[サタン]
D[オーディン]⇔A[サトゥルヌス]/[時の翁]

 上の関係にて頭にを付した部分を除いてしまっても、だ。[A⇔B][B⇔C][C⇔D][D⇔A]の計4つの関係が成立している時点で(多く、循環論法にならぬ形で各個、独自の論拠で相関関係が成立している時点で)、ABCD["完全に"環状に結びつけて語ることが出来る存在]であるともとれる。そして、それらすべてがクリスマスと結びつくようになっている。言わば、[AからDの各点を頂点とした四角形]が描けもするようになっており、[(その)四角形の中の二本の対角線、エックス・マークを形成する対角線][接点]がクリスマスである、と言うに等しき話として、である(XmasことクリスマスがA-Dの関係性の中枢にあるとも言える。凝った説明の仕方をしてしまったが)。

 この時点でも信じがたいほどに奇怪極まりないのだが、話は、だがしかし、それにとどまらない。AからDにかけてのすべての結節点はクリスマスではなく、Apocalypse『黙示録』に置き換えることもできるからこそ"おおごと"なのだ。どういうことか。下のような関係が成立しているということである(以下、その関係性につき〔1〕から〔4〕で解説していく)。

〔1〕『黙示録』とA[サトゥルヌス]/[時の翁]の関係 

 ローマの[サトゥルヌス]はギリシャのクロノスの質的同等物として知られるが、クロノスはティタノマキアという神々の戦いの敗者である。それは、サトゥルヌスとつづり及び発音が近しいサタン ―サトゥルヌスの象徴としての惑星、サターンとなると発音がそのまま、サタンとなる― が『黙示録』の戦いの敗者であることと通底する。
 だけではなく、サトゥルヌスの祭り、サトゥルナリア祭の期間が一週間であること(7日)も『黙示録』が7と異様なまでに結びつくことと接合する。『黙示録』では7つの教会に手紙が出されたとされ、7つの封印がとかれて大惨事が現出し、7人の天使がラッパを吹きならし、7つの頭をもった獣や赤い竜が暴れ、神(のフリをした存在)の7つの災いがもたらされるとの"設定"になっているからだ。
 何?『黙示録』が7と異様に結びつこうが、それを[祭りのサトゥルナリアの期間]と結びつけるのは暴論だと?いや、ちがう。サタンとサトゥルヌスの類似性の話を抜きにしても、である。
[『黙示録』の7という数字の頻出]は「キリスト教と敵対していた古代ローマ帝国の7人の皇帝の隠喩である」などローマ帝国絡みの数とされることが重きをなしてくるからだ。サトゥルナリア祭は古代ローマの[主たる祭り]であり、サトゥルヌス神殿に至っては以前のローマの国庫だったと言えば、専門の馬鹿共に永年、さえずらさせてきた常識的見解というやつからでもここでの問題の取りあげ方は決して暴論の類にはならないと述べられもしよう(:古代ローマ期の7つの丘に『黙示録』の7の頻出は関係あるとも考えられたりもする。サトゥルヌス神殿はそのうちの最も高き場、カピトリーノの丘に至る道の起点に位置していたなどとされることも関係があるかもしれない)。

〔2〕『黙示録』とB[クリスマス来訪の老人]の関係

 既述のようにクリスマス来訪の老人は[サンタ]としてスペルが[サタン]の完全なアナグラム ―文字言い換え言葉― になっている(santaとsatan)。さらに、サタンは『黙示録』で誅されるということになっている"赤い"竜でもある(サンタの格好は"赤い"コスチュームである)。それがまずもって、出来すぎている(もっと言えば、上述のサトゥルナス、[クリスマスの由来になったとされる祭りたるサトゥルナリアで讃えられる神]が土星としてのサターンと結びつき、そのサターンの綴りと発音がサタンを想起させることも加味して出来すぎている。サタンという言葉がアラム語の[敵対者]との意の語に由来するという起源論に反して、だ)。
 だけではない。
 聖書を紐解けば、その中に[ニコラス派]という言葉が出てくる。どこにか?聖書末尾にあっての『黙示録』の冒頭に、である。そして、その場、『黙示録』冒頭にしか聖書中では[ニコラス派]という言葉 ―英語ではNicolaismNicolaitans― などと表記される言葉は出てこない(私は聖書が残酷で嗜虐的な表現と行為に満ちている関係上、同書物が嫌いなのだが、敢えて、分析した上で言っておく)。具体的には、『ヨハネの黙示録』を遺したとの設定となっているヨハネという男 ―普通に考えれば、[麻薬、その他の理由で別の世界に言ってしまっている人間にしか見えない話柄で碌でもない選民主義文書を遺した男]ととれる― が二つの教会への手紙の中で次のようなことを言っているのが[ニコライ派]に対する唯一の言及だ。

悔い改めない貴方にも良いところはあり、それはニコラス派を憎んでいることである。私もそれを憎んでいるわけであるが、(に関し)聞く耳を持つ者は霊が諸教会に告げることを聞けばいい。(ニコライ派に代表されるような者達に)勝利を得る者には神の楽園にある命の木の実を食べることが約束されるだろう (以上、『黙示録』第2章6節、エフェソの教会に対する手紙の該当部内容の要約
あなた達のところにもニコライ派の教えを信奉する者達がいるので悔い改めなさい。そうせねば、そちらに行き、その者達(ニコライ派信奉者)への批判、口を剣にしての批判を開始する。耳ある者は霊が諸教会に告げることを聞くがいい。(ニコラス派に代表されるような者達に)勝利する者には隠れた"マナ"を与えよう (以上、『黙示録』第2章15節から17節、ペルガモンの教会に対する手紙の該当部内容の要約

 『黙示録』では冒頭から言及されているニコライ派こそがまさに同『黙示録』で裁かれる者達の象徴のように書かれているのだが、きわめて性質が悪いのは、である。ニコライがサンタクロースなどと呼ばれるクリスマス来訪の老人の起源になっていると常識上でされる聖ニコラウスと同一系統の名であることである)。

※:聖ニコラスこと Saint Nicolasのオランダ語表記のもじり、そう、シンテルクラスことSinterklaasのもじりがサンタクロースの言い回しの元となっているというのが通説だとは前頁にも言及したことである本頁枠外に目立つように絵を挙げたのはそこにいう[聖ニコラウス]である。彼、聖ニコラウスは枠外抜粋画に見られるように冤罪の者の処刑を止めさせるだけではなく、死者を復活させるなど、正教会では人間離れした存在と存在と目されている
 そのように聖人の紹介をなした上で[多少なりとも歴史に詳しき方][これから歴史を学ぶ意欲がある方]には以下のような話も押さえておいていただけたら、と思う。

直近、言及した本頁枠外抜粋画はイリヤ・レーピンというロシアの著名な画家が[聖ニコラオス]を1888年に描いたものだが(要するに革命の機運だに生じていなかった帝政ロシア期にあっての[サンタクロースの元となった聖人を描いた絵画]だが)、同画、その当時、まだ、青年だったロシア皇族、後の皇帝ニコライ二世を30年も後の赤色革命で生贄として殺すことの[前言作品]としての臭いを伴う作品と見えると述べられてしまう(奇矯な話とも思われるだろう?)。何故か。それにつきまずもって述べるが、絵画左に聖ニコライに救われる冤罪の処刑対象として描かれる男、そう、半身裸体の気弱そうな"なり"でお公家的儚さを漂わした男が後に皇太子ニコライから帝政ロシア皇帝となった絵画作成時のNicholai(後のニコライ2世)の寓意的象徴物とも解されもするとのことがある。そのような解釈が的を射ているのならば、「[画に見るように罪人を救ったと聖人説話が語る聖人ニコライ](サンタクロ-スの元となった聖人)が ―当記事で指し示さんとしているサンタクロースとサタンが接合するとの不快なる流れから― [サタンの反対話法的寓意象徴物]ともなる」とのことと多く辻褄が合うことになるのだ。 画とは反対に革命後、罪人扱いをした皇族ら (画の左の部に[罪人にしてはお公家的儚さを漂わせて立っている男]として描かれている節がある聖人ニコライと同様の名を持つ皇太子から皇帝になった男など) を現実には助けず容赦なく処刑させ、また、プロパガンダ的無神論を暴力で民衆に押し付けてロシア正教を弾圧した(少なからずのロシア正教聖職者を処刑した)との赤のソ連。そのソ連が[赤い悪魔(サタン)の酷薄無情なる反キリスト国家]と西側聖職者らに呼ばれる国家として立ち現われてきたとの歴史的流れと ―悪魔的反対話法の成就との観点で― 当記事の話の流れが噛み合うことになるのである
 実際には容赦もなく革命で処刑された後の皇帝たる皇太子ニコライ殺害の[先覚的寓意](思惑の介在を受けての先覚的寓意でもいい)の可能性につき云々せんとのそうした申しように対しては ―当然のこととして― 疑義を差し挟む向きが過半だろうが、
絵画で守護聖人ニコライ(サタンとの不快なる相関関係について当記事で指し示さんとしているサンタクロースの同等物)に救われた罪人に仮託されているともとれる皇帝"ニコライ"を殺したことで成就したロシア革命は文字通り、赤い悪魔、『黙示録』の赤い竜サタンをこの世界に呼び出したが如きの[フリーメーソンら駒人間を用いての一大イベント]だった
との見立てがなせることについては異論の余地があまりないと受け取れる(ようになっている)。
 などと述べると、当然に[根拠なき陰謀論の押し付け]に聞こえるだろうも、ソ連とその衛星国のシンボリズム解析をなしている当方著作を読んでいただければ、共産主義勃興とフリーメーソン(一部でサタンを崇めている連中だなどと揶揄される組織)のシンボリズムにあっての露骨なる関係について「視覚的に」よくお分かりいただけること、請け合う。
 残念ながら、共産主義台頭のプロモートまでが一種の儀式実現指向あるいはプログラム遵守指向のなせる業と解釈すると多くのことが辻褄があうようにこの世の中は出来ているともとれるのである
)。

 長くもなった括弧内補足部を挟んで述べるが、ニコライ、『黙示録』のニコライとサンタクロースの母体となった聖ニコラウスは別の存在であると「普通には」解釈できもする。[『黙示録』に見る罪悪の体現者たる反対派派閥に名を冠するニコラス]は"設定上"、サンタクロースの元となったされる聖ニコラウスより[数100年も前の存在]であるとされているからだ。 そう、純粋に『黙示録』がものされたと"される"時期と聖ニコラスの活動時期の相違からである()。

※:余談として述べる。「今日、我々が見る『黙示録』が執筆された本当のところの年代は15世紀である」との驚くべき説も[それなりの根拠]を伴って存在しているのだが、「我々が教えられている人間の歴史は根本的に"すべて大嘘"である」との話はここで述べるべきことの域を超えているので述べない ―『黙示録』作製年代根本偽造説が正しいか否かは分からない。ただし、そういう説とて説得力をもって成り立つこの世界の奇怪な側面を人間レベルの関与でもって示そうとしている書籍、『黙示録』記載の天文学データに着目しつつその偽造性を主張するロシア人学者達の書籍、History:Fiction or Science?『歴史。それはフィクションか、科学的なるものか』の該当部内容は私の自著にても紹介している― )。

 だが、そうであっても、『黙示録』のニコライ(聖書中に登場する唯一のニコライ)とサンタクロースの起源とされる聖ニコライ(聖書には出てこないニコライ)が[全く同系統の名前の持ち主でありながら時系列を異にする別存在]であったとしても、である。サンタクロースが『黙示録』の敵対者、サタンとなるべく調整されているようで奇怪であることに加え、(サンタクロースの元となった)[聖ニコライ]のその名前 ―[同一性を抜きにしての名前]― までもが『黙示録』本文にて敵対者となるべく調整されているようで"より"奇怪である、ということに変わりはない ――[聖ニコラウスに淵源があると表向きの説明がなされるサンタクロース]が[サタン]と結びついていることを指摘しているとの当記事であるから述べることとして、英語圏ではDevil悪魔のことを Old Nickオールド・ニックとも「何故なのか」呼称するそこに言うニックもまた、ニコラウスの略称である―― 。

〔3〕『黙示録』とC[サタン]の関係

 無論、『黙示録』とサタンの関係は密接不可分である。『黙示録』で誅される対象がサタンであるからだ。そして、そのことは上の〔1〕で述べたこと ―サトゥルナスと『黙示録』が結びつくとの話― と不気味に接合しもする。土星ことサターンの象徴神格としてとらえれれば、[発音のレベルでサタンとかぶるローマのサトゥルヌス]に捧げる祭りの期間が1週間 ―7日間― であることが『黙示録』の中での赤い竜ことサタンの頭の数(7つ)を想起させもし、上の〔1〕の説得力を高めることを繰り返し述べるまでもなく。

〔4〕『黙示録』とD[オーディン]の関係

 前頁既述の話を繰り返す。

 オーディンが北欧神話上の最終戦争ラグナロクでの決定論的敗者としての立ち位置を与えられている一方、サタンもまた『黙示録』上での最終戦争ハルマゲドンでの決定論的敗者の立ち位置を与えられている

 オーディンとサタンは『黙示録』的なる決定論の世界の敗者との立ち位置を共有しているわけだが、だけではなく、オーディンと赤い竜ことサタンは「より」深いところでも結びつく。
 オーディンがサタンの完全なるアナグラム ―文字入れ替え言葉― になっているサンタクロースとほぼ同じ存在であることもある(:オーディンとクリスマスに来訪する老人の一致性の問題については先の頁にて詳述した)。 フリーメーソンの悪魔主義的なる映画作品『パルナサスの鏡』がオーディンを象徴的に描いていること ―前頁でも委細を他に譲る形にて既述― に[悪魔主義的色彩の共有]ということでサタンとオーディンの結節点を見出せなくもない(:右は前頁既述のようにそれ単体で述べることではなく、媒介となる他事情が存在するがゆえに、述べることである。クリスマスの悪魔主義的なる"他の側面"、クリスマスツリーの頂点に[獣の刻印]とも言うべき五芒星 ―五芒星が獣の刻印だと考えられる理由は本Webサイト上の[二匹の獅子と操作の比喩]という題の記事や私の自著を参照するのが良かろう― を飾ったりクリスマスに来訪する老人の原初的パートナーが生贄にして悪魔主義の象徴ともされる"ヤギ" ―オーディンも絡む、ゲルマンの祝祭、ユールにちなむ[ユール・ゴート]がそうだ― であったりするのがそこにいう他事情だ)。

 以上から、オーディンはサタンを介して『黙示録』と結びつくと考えることが出来る()。

:オーディンとサタンが結びつくことに関して若干の付言をなしておくが、
「 [オーディンと関わる冬至の祭りであるゲルマンのユール祭り、サトゥルヌスに捧げる祭り、クリスマスという三つの祭りの際立った共通性]/[オーディン≒サンタクロースであること]/[サンタクロースも祭りの類似性を介してサンタクロースと結びつくサトゥルヌスも共にサタンとつながる名前の持ち主であること]/[サトゥルヌスと結び付けられる惑星、土星がサターンそのものであること] といった事情を総合勘案してもオーディンはサタンと同等物になるよう調整されている存在だとの推論は自然に出てくる
)。

 ここまで述べてきた〔1〕から〔4〕をまじめにお読みになられれば、だ。

「A[サトゥルヌス]/[時の翁]、B[クリスマス来訪の老人]、C[サタン]、D[オーディン]のすべてがクリスマスとだけではなく、『黙示録』とも無理なく結びつく」

ことがお分かりになられるだろう。

(話を戻して)
[上関係図に見る留め金としてのクリスマス]は『黙示録』に現実に置き換えられるようになっている」
のである。

 以上、述べきったうえで、さらに信じがたいこと(と常識の虜囚には受け取られかねないこと)につき言及しておこう。

クリスマスと『黙示録』は相関関係(当記事で明示しているように客観的に指し示せるところの相関関係)上、"置き換えられる"だけではない。そうなるべく昔から[はきとした意図]をもって"調整"されていた節がある。非常に巧妙なやり方で"調整"されていた節が露骨にある

 上のことにつき私に気付かせた絵画群を直下、挙げることとする。心ある向きには裏取りのために原典の参照を願いつつもそれら絵画群についての当記事分析の適否検討を請いたき次第である(:絵への補助線の付け方がフリーメーソン的になっているが、メーソンの後ろにいる邪悪な存在を想定して"わざとそうしている"のである。フリーメーソンやメーソンとおトモダチ関係にあるカルトの外側にあって、そのあり様を見た人間として、そして、それがためにそうした手合いを心底、忌んでいる人間として、である)。

 上掲の左はルネサンス期の画家、フィリッポ・リッピの作品、15世紀に描かれたNativity「神の子降誕」がらみの絵画である。とした上で押さえておいて欲しいのは[クリスマスとはイエス・キリストの降誕を祝う祭りであること]である。要するに、上掲左の絵は[クリスマスの日の伝説上の出来事]を描いたものととれる。
 に対し、上掲の右は15世紀末から16世紀初頭にかけて活躍したアルブレヒト・デューラー、有名なその芸術家の版画で『黙示録』の一幕、[女と赤い竜](『黙示録』第12章)の一幕を図像化したものである。

 さて、補助線に着目しながら図をご覧になられれば、お分かりいただけるだろうが、

「クリスマスの出来事とされる降誕を描いたフィリッポ・リッピの絵と『黙示録』(の第十二章)一幕を描いたデューラーの版画、相似形を呈している。先にクリスマスと『黙示録』は(関連事象の多くをそのままに)置き換えることが出来るものであるとしたが、図はそのことを視覚的に体現したもの、今から500年も前にそのことを体現したものである

とも述べられるわけである(:片方の絵にあっての[クリスマスの折、聖母マリアが嬰児としてのイエスに相対する構図]が視覚的相似形を呈するもう片方の絵にあっての[多頭の赤い竜(サタン)が救世主を孕んだ翼を与えられた女に滲みよる黙示録(の第十二章)の一場面の構図]が対応付けられるようになっているでもよい)。

 500年前。その時代には今日認められる縁起物としての似姿の[クリスマス来訪の赤い服の老人]など存在してはいなかったと当然に解されるのだが(前頁にて既述のようにサンタの赤い衣装の起源論としてコカ・コーラ宣伝起源論といった過てる説が存在しているぐらいで赤い服のサンタの登場時期はそう昔には遡れないと解される)、500年前との同時期、すでに[赤い竜](黙示録の七面構造をとるサタン)と[クリスマス](キリスト降誕時のイベント)を視覚的に結びつける画らがあったのを[偶然]であると言えるだろうか。
 はっきり言ってしまおう。「偶然ではないだろう」と。
「上掲画はキリスト降誕こそ(あるいはデタラメの救世主を客寄せパンダにして広められた選民主義体現宗教のキリスト教こそ)、『黙示録』の赤い竜が彼のパートナー、"獣"と一緒に囚われの魂を持った会衆達に死への道筋をつける"ネタ"であることを隠喩的に示している」
と無宗教の人間ながらもキリスト教徒からすれば不信心極まりないと映るだろうことを述べつつ、「偶然ではない」と言ってしまおう。

 について、上のような見解には合理的かつ常識的な反論、"一見"、説得力ある反論を述べることも出来はする(そのような反論はすぐに間違いであると証してしまうが)。 例えば、以下のような観点での反論が成立しうるようにも"見える"。

⇒『黙示録』の版画(上掲右)を遺したアルブレヒト・デューラーは15世紀末からイタリア旅行をなしている。その時分に彼が芸術家としては先達にあたるフィリッポ・リッピの絵(上掲左のキリスト降誕の絵)なり、そのレプリカなりを目にし、デッサンの上、その構図を自身の後の版画に反映させることになった ―私は美術史家ではないのでこの反論の拠って立つ前提が正しいか否かは保証しない(イタリア旅行をなしたとされる巨匠デューラーがリッピのそれに遡る絵画を見てそれを参考にする機会があったのか保証しない)― 。それと表裏をなすこととして『黙示録』の[女と赤い竜]の一幕をキリスト降誕と結びつけるアルブレヒト・デューラーの意図があったともとれる。すなわち、『黙示録』記載の馬鹿げた一幕(とは言いつつも、実際にその一幕に見られる邪悪なことを企んででいる連中がいるのかもしれないが)、[鉄の杖で世を治めることになるという子供を身ごもったという女、赤い竜(サタン)に付け回された女が誕生した子供を育む場に(神に翼を与えられて)飛び立つ一幕(黙示録第十二章の一幕)]と[マリアがキリストを産んだ場面]とをデューラーが対応づけさせた、ととることもできる。デューラーがリッピにないしキリスト教に反感を抱いていたために、である。

 だが、残念ではならないが、上は[正統派という名前が与えられているが、その実、阿呆でしかない連中]([悪魔に魂を売ったとされるファウスト博士達]や[腑抜け]でもいいが)お得意の大嘘に毛の生えた程度のものにしかならない、と揚言できるだけの事情がある。 そのことを指し示し、本記事の中心テーマ(『黙示録』とクリスマスはつながるとの話)がルネサンス期の絵画とさえも結びつくことを指し示すために挙げたのが、下の図である。

 図の左側は ―言うまでもないことか、と思うが― 直近にて挙げたフィリッポ・リッピの作品の再掲である。
 図の右側はローマ時代のレリーフとされるものでキリスト教との対立に敗北し潰えたとされる古代の異教、ミトラ教のレリーフである(:英文ウィキペディアの Mithraic Mysteries (ミトラ密儀)項目などにてもその図像が挙げられているとの[ミトラ教信仰体系にあって構図が典型化したレリーフ]となる)。
 さて、一目にしてお分かりのことと思われるが、「明らかに」ルネサンス期のリッピの絵とローマ期のものとされるミトラ教のレリーフには相似性が存在している (換言すれば、リッピの画と相似形を呈するデューラーの版画とミトラ教のレリーフにも対応関係が成立している、でもいいだろう。に関しては上掲図でデューラー版画の[赤い竜]の部分だけを抽出、ミトラ教レリーフとの対応箇所を示している) 。
 ここでは、そのような相似性が存在していることを前提に上のミトラ教レリーフに関する次のiからvのようなことを押さえておいていただきたい。

i.学者の世界で受け入れらているレベルの話でも次のようなことがある。
「ミトラ教とはキリスト教との対立に敗れた宗教とされるが、キリスト教に多大な影響を与えた宗教である。キリスト教の冬至の祭りとはミトラ教の冬至の祭りを受け継いだものであるとされることなどがそうである(:キリスト降誕祭ことクリスマスは古代ローマの上述したサトゥルヌスに捧げる祭り、冬至におけるサトゥルヌリア祭の祭りを受け継いだものであると同時に古代におけるミトラ教の祝祭を踏襲したものであるともされる)」。
 この時点でフィリッポ・リッピの絵とミトラ教は視覚的側面だけではなく意味論的にも接合する。冬至の祝祭=キリスト降誕祭=クリスマスを通じて、である。

ii.上のように述べはしたが、おそらくというより、ほぼ確実にフィリッポ・リッピは
「キリスト教がミトラ教の冬至の祭りを踏襲している」
との説を知らなかったととれる。
 何故か。
 ミトラ教は近年、その実態が発掘・再発見された宗教であるとされており、それが潰えてから1000年以上を経ていたとされるリッピの時代に、そう、ルネサンス期とはいえキリスト教が支配的だった時代に、
[キリスト降誕祭=ミトラ教祝祭]
の"不信心"の批判を免れえない踏襲論が"大々的に取り沙汰されていた"とは思えないからである。
 また、そういったことを述べる以前にである。そも、フィリッポ・リッピがミトラ教の上レリーフの存在を知っており、かつ、その姿を観察していたという話は成り立ちがたい(繰り返すが、ミトラ教は近代以降、発掘され、世に再現された宗教であるのだから。同じことはデューラーにも当てはまる)。また、リッピが仮にそうしたことを出来る立ち位置にいたとしても常識的には聖母マリア礼賛の降誕画にミトラ教レリーフの構図を重ねるようなことをする理由が存在しない。
 以上のことらから見て、リッピがミトラ教のレリーフの相似形をキリスト降誕(クリスマス関連事象)の絵であらわしているのは奇怪であると言える。

iii.直近にて顧慮した点からいえば、次のような合理的な推論を立てることもできる。

「ミトラ教のレリーフはリッピの絵より後世に偽造されたものである(フリーメーソンのような者達がそれをやりかねないことは他所にて言及している)」。

 であるが、直下、言及するルネサンス期の別絵画に伴う奇怪なる側面のことにつき把握していただければ、、
「リッピの絵"を元に"古代ローマ時代のレリーフと"される"ものがリッピより後世、偽造されていた」
というより、
「リッピが人形よろしく操られて上掲の如き画を遺した」
ということの方が大いにありうると分かっていただけることか、と思う。

→([馬鹿馬鹿しく信じがたいと見られるようなこと]ながら[現物の呈示をもってしてはきと指し示せること]として
リッピのような画家を輩出したルネサンス期イタリア半島。その時代、その場では何百年も後に発見されるDNAの構造と精子の構造を同時に描いたような絵が「現実に」存在していたそれも上掲のミトラ教のレリーフで『黙示録』の獣と対応づけさせた[蛇がまきつく杖]と同様のモチーフを用いてだ)。 それはフィリッポ・リッピとほぼ同時代人の画家、15世紀に活躍したドメニコ・ギルランディオの手になるルネサンス期絵画、 Meeting of Augustus and the Sibyl『アウグストゥスとシビュラの出会い』という作品に絡む話であり、本Webサイト上の[蛇の紋様にまつわる謎(二重螺旋構造篇)](文字色改変部をクリックすることで遷移)と題した他記事にて詳説しての話となっている」。

 上は無論、信じがたい話だろう。
 だが、
「諸事情からDNAおよび精子卵子の結合過程を蛇の象徴を用いつつ描いているようにしかとれないとの画家の絵(現在、フローレンスことフィレンチェに存在)を[歴史的に真正なもの]として何の疑問も呈せずに美術館が公開している」
などという[馬鹿げたこと]がある(そしてそのことを問題視しようとするとの人間が何故なのか目立っていない)のがこの世界だ(:当然に疑義が呈されようところであるから、申し述べるところの真偽につき上にて表記の他記事と絵画現物にオンライン上で当たっていただき確認していただきたいものである)。
 とした上で、私はフリーメーソンがローマ期のミトラ教のレリーフのようなものらを根本偽造した可能性も否定はしないが(フリーメーソンに代表される操り人形集団が今日に至るまでの人類の歴史を根本的に偽造し続けてきた可能性もあるととらえている)、 その他にも見るべき不審事があるとして次の点に移る。

iv.実のことを言うと、である。キリスト教がミトラ教を踏襲したというより、
[キリスト=ミトラ]
となるよう歴史的に"調整"されている節が如実にある。キリストとミトラの接合問題である。キリスト教がミトラ教の冬至の祝祭を踏襲したとされること以外に、宗祖キリストが次のような点で潰えたとされるミトラと属性を共有している、とのことがあるのだ(そのことを述べるための次の「」内では一見、関係ないように見えることから始めるが、我慢してほしい)。

民俗学 ―私は民俗学"など"には何の権威も見出してはいないが、そこから教訓を得ることはできるととらえている―  を学んだ者にはその名を知らぬ者なき著名な書、『金枝篇』。同大著を19世紀末から20世紀初頭にかけてものした碩学中の碩学といった具合の評されようのジェームズ・フレイザー( James Frazer )はこう主張していた。
『イエスは異教神[アドニス]と近しい。キリストの故地、ベツレヘムがアドニス崇拝の地と重なり、かつ、キリストの復活祭(イースター)が死と再生の神、[アドニス]の復活祭と時期的に近しいといったことがあるためにである』
 私の見立てでは(多くの欧州の知識人達の見立てと同様に)右アドニスとキリストの相似性にまつわるフレイザーの説は正鵠を射ている。キリストが生まれた折、東方からやってきたという三賢人に贈られたものに没薬(ミルラ。死体の防腐剤にも用いた中近東由来の植物から採集した樹脂)が入っていたのはおそらく、神話にてアドニスの母が没薬の樹に変えられて、そこから[アドニス]が生まれたとされることに由来しているといったことがあるためにである ―※[操作をなす存在]が「没薬で死体に防腐処理をして共産主義という毒を広めたレーニンを神格化するが如きのことをやってやった、キリスト教という妄信体系を死んで復活したという設定の人間の権威で長らく人間たちに押し付けてやった」と主張すべく、[東方の三博士]の下らぬ話をでっちあげさせたとも見ているのだが、それは行きすぎの憶測であるとしてもだ― 。
 そして、(他所でも述べていることとして)上の[アドニス]を媒介にキリストとミトラは完全に結びつく。それについてはキリストと水際立った類似性を有する異教神、上アドニスが別の神、[アッティス]と密接な関係にあったことを指摘することから始める必要がある。同アッティス、アドニスが類型論上に見る[死と再生の神]の一形態として崇められていたという古代オリエント世界に存在していた他の[死と再生]の神となる。さて、そのアッティスとアドニスの間には
[アドニスもアッティスも神話にて死後、植物と結びつけられた存在である]/[アドニスもアッティスも季節季節の変わり目に復活が祝われる存在である]/[アドニスとアッティスが似たような語感の神である(AdonisAttis)]
といった共通性が存在する。そのため、両者はほぼ同一の起源を有する存在だと見えるが、アッティスは言うならば、[ミトラそっくりの格好をした神]である。アッティスとミトラの彫像を並べてみると、全く同じ神であると誤解してしまうほど、外見的にそっくりな神である(疑わしきはAttisMithraと検索エンジンに別々に入力して出てくる古代の遺物ら、フリギア帽と呼ばれる特徴的な帽子をかぶった神々の彫像らの似姿を比較されてみるとよいだろう)。
 そこから次のような関係が成立していると言うことが出来る。
[イエス・キリスト⇔アドニス⇔アッティス⇔ミトラ]
 キリストはアドニスとアッティスという中間項を挟んで「も」またミトラと結びついてしまうのだ(それによってキリスト教がミトラ教から冬至の祝祭を受け継いだ、などとの指摘が成立してしまうような背景にはどす黒い"何か"を感じることもできもする)

 上の「」内で言及したことをまじめにお読みいただければ、キリストとミトラが"中間項"(アドニス・アッティスなど)を介しても確と結びついていることをお分かりいただけるか、と思う。
 そこにいう"中間項"のアッティス。その神は[去勢された神]として有名である。そして、その[去勢された]という特性、上掲のミトラ教レリーフ(Oxこと[去勢牛]の象徴を描いたレリーフとワンセットのものとして存在するとのもの)に彫られているテーマと相通じるものがある。そのテーマとは何かだが、
[(肉体的な去勢ではなく)霊的な去勢、すなわち、心魂に対する服従化措置(今日に至るまで不合理無比な宗教に嵌る者達の多くに施されている措置とも言える) ]
である。
 何を根拠にそのようなことが言えるのか。上掲のミトラ教レリーフおよびそれとワンセットのものには[人ないし供物としての"去勢牛"の魂の処分をなす行為]を描いた場面とされており、それが[(ミトラ教特有の)"牛"の睾丸をサソリが挟み込むとぼけた描写]とワンセットになっているからである。
[去勢された神 ―狂乱させられて"自己去勢"した神とも言い換えられるが― であるアッティス]
と外見を一つにするミトラのレリーフに右の如きテーマの場面が多く彫られていることは[霊的去勢の意]と解釈して差し障りあるまい、というわけである。
 そして、本記事全体の内容に関わることとして性質が悪いのは、である。ミトラ教の上レリーフに[蛇の杖]が[魂の送り手あるいは魂の処理者の象徴]として彫られていることである(上掲図で多頭の竜に向けて線を引いた箇所を参照されたい。 そのことは[蛇の杖]というもの ―二匹の蛇が絡みあうその杖は今日、商業や一部、曲解の上か医学に転用されているカドゥケウスと呼ばれるものである― がギリシャ神話の神、ヘルメスの所有物であることに起因すると学者らには説明されていもする(:ミトラ教レリーフでのヘルメスの杖のの登場の由来をヘルメスあるいはそのローマ版のマーキュリーのPsychopomps[魂の送り手]としての側面に求める説が正統派からも提唱されている)。 それにつき、メインストリート学究ら申しようが説明しきってくれていない感あることとして、ヘルメスはそのローマ版の神、Mercuriusことメリクリウス(あるいはマーキュリー)を通じてオーディンとも密接に結びつく、とのことが当記事内容との兼ね合いで問題視されて然るべきこととしてある。 水曜日ことウェンズデーの起源はボータンズ・デーと呼ばれ、オーディンを起源にするとは一部で有名なことだが(Odinのドイツ語表記はWotanことボータンで、それが水曜日の語源となっている)、ラテン語に起源をもつ地域では同水曜日は[メリクリウスの日]であるといった具合に、あるいは、ヘルメスことマーキュリーが権謀術数の神であることをオーディンと共有している、ヘルメスには冥界への魂の導き手としての側面がありそれが勇士の魂を集めさせているというオーディンとの共通要素になっている、などとの具合にて表層的説明をいくらでもなすことができることとして両者 ―([蛇の杖を持つミトラ]と地続きであると解される)[蛇の杖を持つギリシャ・ローマのヘルメス・マーキュリー]と[北欧神話のオーディン]の両者― は接合する(とされている)。
 さて、ここまで書けば、勘の良い方は気付かれたかもしれない。
「あまりにも出来すぎている」
と。
 上掲のミトラ教レリーフ ―要するにキリスト教と多重的に結びつくローマ期の潰えた宗教体系に見るレリーフ― における[蛇の杖]の箇所は、だ。アルブレヒト・デューラーの版画の中の[赤い竜ことサタン]が描かれている場と対応しているのである(上では図を一目見ただけでその対応関係が分かるようにしている)。 その対応関係にあって姿を現している赤い竜、サタンとはサンタクロースといくつかの要素を共有したりしながら、(クリスマスに関してはサンタとほぼ等しき存在となっている)オーディンと対応している存在である(当記事前頁を参照されたい)。 いいだろうか。 蛇の杖も所有者ヘルメスあらためそのローマ版のマーキュリー(メリクリウス)を通じてオーディンとはっきりと結びつくなら、その蛇の杖の箇所に書かれている『黙示録』の赤い竜もオーディンと結びつくと指し示せるようになっているのである蛇の杖自体も[年を経た蛇]ともされる赤い竜を想起させもするものの、オーディンまでひっくるめて語れてしまうよう調整されていることが全くもって人間業ではない)。
 ここで繰り返しておくが、『黙示録』の獣の版画を遺したアルブレヒト・デューラーが上掲のミトラ教のレリーフを見たとはおよそ考えられない(そして、同じくも繰り返しておくが、ミトラ教とは近代になって再発見された宗教である)。
 と同時に、アルブレヒト・デューラーがキリスト教から見た異教神オーディンを『黙示録』の赤い竜にかこつけて描いていたともまた思えない(:異端審問が猛威を奮っていた時代にキリスト教聖書に見る物語と異教の信仰体系とを結び付けて分析するとの営為がまかり通っていたとは思えないし、アルブレヒト・デューラーがそうした営為をこととした向きであったとも思えない。また、そも、オーディンが[ユールの祭り]を介してクリスマスやサトゥルナリア祭やサタンに対する近接的要素を目立たせてきたことには近代以降の文化事象が影響しており、デューラー活躍の時代(15世紀末から16世紀前半)にはそうしたことなど問題にすらならなかったと解される ―当記事の先のページの[オーディンを介しての結びつきの解説部]を参照のこと― )。 
 従って、上掲のアルブレヒト・デューラーの版画 ―([蛇の杖を持ったマーキュリー類似のミトラを登場させるミトラ教のレリーフ]との視覚的接合性をもって[マーキュリー類似系のオーディン]とも結びつく[サタンを描いた版画])― も作家自身の着眼によるところではなく、[やらされ人]が独特の構図を描か"された"と解釈できる(でなければ、ディーラーが関知せざるものであったろう、その他の事情からのみ指し示しがなせる[オーディンとサタンの結びつき]を示しもしている画を遺していることの説明がつかない。といったことはデューラーの版画と結びつくことを当記事で問題視しているフィリッポ・リッピの絵にもあてはまることだが)。
 オカルト論 ―その担い手は多く専門の犬たちだととらえている― の世界に言うところの[自動筆記・お筆先](英語でいうところのAutomatism。オートマティズム)のようなものを観念される方も多いかもしれない。
 については、今日、欧米ではお筆先との手の挙動だけではなく、フリーメーソン員の多くの挙動が小から大までそのようなメカニズムによって決まっている、そうした者たちがチェス盤状の床の上に乗っからされているのは[チェス・マシーンに操られるが如きの存在]になっているからだとの説が物議を醸していると言及した上で、オートマティズム的メカニズム使用の可能性も否定はしないと言っておこう(その話を突き詰めていくとこの世界それ自体が恣意的に構築された偽物であるか、の話にもつながってしまうわけだが)。

v.上のiv(にての多少ややこしき話の中)にてミトラ教の抜粋レリーフが(肉体的な去勢ではなく)霊的な去勢、すなわち、[心魂に対する服従化措置]を描いたものであると一言、触れた。
 とした上で実に不快なのは次のように考えられもすることである。

「[ミトラ教にキリスト教を悪魔的に模倣する習慣が伝わっている]とのことはキリスト教が今日まで語り継いでいることであり、そうした申しように見る模倣行為の中には額に印を刻む行為が含まれているとの行為も含まれている(とされる。和文ウィキペディア[ミトラ教]項目程度のものにも「現行」記されていることとして初期のキリスト教神学者、教父の呼称が与えられている2世紀のテルトゥルアヌスTertulianusなどが[散逸する前のキリスト教のライバルであった往時のミトラス信仰に対する仄聞]としてそういうことを伝えていると記載されている)。 それは不快なることである。 2世紀から3世紀に原型が出来上がったというのが正統的なる歴史的理解となっている『黙示録』(来たる最終戦争顛末と天国に行くものと地獄に行くものの選別について描く聖書の末尾を飾る選民主義文書)には獣の刻印、最終的に諸共、抹殺されてしまう者達の刻印(六六六との数値)が額に、腕にと押される ―それなくして末世にあっては売り買いが出来なくなるとされる刻印が額に、腕に押される― と記されているからである。
 まさしく、キリスト教などというマゾヒズム体系を広めて人間に押しつけた存在の悪魔的ブラック・ジョークの極致がそこにあると見える。額に刻印(一部異説では十字紋様そのもの)を刻むとのミトラ教とは実はキリスト教のことであり(宗祖キリストはミトラの性質悪き類似物と言えてしまう理由については[堅いところ;ジェイムズ・フレーザーのアドニス媒介の話など]に依拠してのみ上にて論じた)、 その象徴物には(直前にも述べたように)[霊的な去勢、すなわち、心魂に対する服従化措置]の比喩がキリスト教『黙示録』絡みの作品と接合するように現れているからである」

 いかがであろうか。長くなり恐縮だが、上のiからvの各点を真剣にお読みいただければ、次の結論が導き出せることが分かる筈だ。

「フィリッポ・リッピの絵とアルブレヒト・デューラーの絵の相似性の背後にあるのは決してデューラーによる、イタリア旅行を契機としたリッピ作品の剽窃(猿真似)程度の事情ではない。そこには数百年単位、あるいは数千年単位でものを見る存在がまぶした、薬籠中の操り人形らを用いてまぶさせた[悪魔的なる隠喩](ブラックジョークと見てもいいような隠喩)が込められている。遙か昔に潰えたとされる異教の象徴物をも加味した上での深い意味が込められていると言える」

 とした上で本記事の本題に戻って述べるが、

「クリスマスと『黙示録』は遙か昔から][意図をもって][巧妙に調整されていた節がある」 (遙か昔から][意図をもって][巧妙に調整というのがポイントである;クリスマスが『黙示録』と置き換えられること自体はすでに十全に指し示したつもりである)。

 往古、潰えたとされる異教のレリーフを介して"でさえ"、次に挙げるIからIIのような形での論証がなせるがために、遙か昔から][意図をもって][巧妙に調整されていた節があると述べたいのである (直下、I.-II.ではおさらいとしての含みを持たせつつ、純粋に客観的に指し示せる ―いかに奇矯なれど純粋に客観的に指し示せる― ものとしての対応関係を挙げることとしている)。

下線を振った各事物らの関係性を重点的に押さえてほしきところとして)

I[アルブレヒト・デューラーの手によるルネサンス期版画の中の『黙示録』の赤い竜を描いた部位に着目] ⇒ [デューラー版画がローマ時代のものとされる異教ミトラ教レリーフ蛇の杖によって魂の処置がなされる場面を描いたレリーフ)に事実の問題として"視覚的に"結びつくことに着目。より具体的には蛇の杖赤い竜と構造上、結びつくように視覚的に対応していることに着目] ⇒ [デューラー画と視覚的に結び付くミトラ教レリーフの中ではオーディンと類似の存在であるメリクリウスあるいはマーキュリーの蛇の杖を用いてのミトラによる魂の処置(供物に対する魂の処置)の模様が描かれているとされることに着目] ⇒ [以上文脈よりルネサンス期のデューラー版画とローマ時代の遺物を併せて見て「も」(見て「も」が重要)オーディン赤い竜蛇の杖](オーディンと接合のマーキュリー所有物)を介して置換することが可能]重み付けの材料として「蛇の杖が"蛇"つながりで"年を経た蛇"と『黙示録』にて呼称される赤い竜サタンに結びつくこと」もある) ⇒ [オーディンはクリスマス来訪の老人と同様の要素を[ユールの祭り]の絡みなどで有する存在である(記事前頁にて既述)から、クリスマスというものは[黙示録及び同文書中に登場の赤い竜]とその式「でも」ローマ時代の遺物(ミトラ教レリーフ)を介して(奇怪無比ながら)結び付けることが可能]

II[フィリッポ・リッピの手によるルネサンス期絵画の中のキリスト降誕の構図に着目] ⇒ [リッピ絵画がローマ時代のものとされる異教ミトラ教レリーフ蛇の杖によって魂の処置がなされる場面を描いた異教レリーフと(上のデューラー版画同様)「視覚的に対応している」ことに着目] ⇒ [蛇の杖による魂の処置がなされる場面が描かれているレリーフが(当記事の上の段にて既述のようにその他異教神らを介在させもし)キリストの類似物となっていると述べられるミトラ神由来のものであること、及び、ミトラを崇めるミトラ教にはキリスト教に批判されていたという額に刻印を刻むという風習が存在し、同風習が「キリスト教と問題とするレリーフを遺したミトラ教の諸々の類似性から」黙示録』にて獣の刻印がなされるという場と対応しているように映ることに着目] ⇒ [ミトラ教レリーフ蛇の杖による[供物の魂の処置の場面]に対する視覚的類似物たる宗教画 (リッピ画デューラー画、通説に則ればミトラ教レリーフ、英文ウィキペディア[ Mithraic Mysteries ]項目にも写真掲載されているローマ期作成の同レリーフより1000以上後に作成された宗教画ら) が描きもしていた構図はそれら宗教画に見る形態、たとえば、デューラー画では 「ミトラ教レリーフにあっての蛇の杖=マーキュリー所有物を介してオーディンとも接合する霊的操作の場面を描くところに対応する箇所にて」 赤い竜サタンが配置されているといった形態から 「数々の類似性をキリスト教に対して持つミトラ教の霊的去勢の寓意がキリスト教にも適用されていることを示したものである」 との判断がより深い理由から可能 (宗教画に赤い竜登場の『黙示録』に見る[額に獣の印を刻む行為]の寓意が嗜虐的隠喩でもって介在しているとも言い換え可能) ] ⇒ [キリスト降誕祭とはクリスマスのことである。それにつき、「リッピ画に描かれたキリスト降誕=クリスマス」との構図がここに至るまでの流れ上、リッピ画類似型のデューラー画に見る赤い竜サタンを介しての寓意のみならずミトラ教寓意をも介して「より多重的に」黙示録とも結びついていると述べることが可能]

 多少、まわりくどくもなったが、以上、当記事にて指し示してきたことに依拠しての論証の流れから
[クリスマスとは『黙示録』と遙か昔から][意図をもって]結びつくように[巧妙に調整]されていたものである]
と述べられる所以がまじめな読み手の方にはお分かりいただけたことか、と思う。

 と、ここで人は思うかもしれない。
「ミトラ教象徴物がキリスト教象徴物と多重的に接合し、それが人間の本質に対する去勢の比喩を指し示しているというのならば、そちらの方がクリスマス云々などより遙かに重要な話なのではないか」
と。
 そうとも見えはするが、最も重要なることは別にある(ととらえている)。ミトラ教、[契約の神]/[無数の目を持つ存在]/[万人を監視する存在]などといった側面を持つ異教神ミトラを崇めるとの不快なるその往古潰えたとされる宗教の象徴体系が
「キリスト教が信徒の救済を唱道し、その実、魂という人間の本質に対する去勢を行っていた」
とのことを示しているのは[これまでの話の問題]と述べられるが、クリスマスが『黙示録』と結びつくように調整されていることは[我々人類のこれからの話の問題]に関わることであると述べられるからである(誤解を避けるために言っておけば、[これまでの話]もすさまじく重要である。だが、[遙か昔から][意図をもって][巧妙に調整]の中の意図をもっての部分に関わる話、我々、人類の今後に関わる話はそれ以上に重要であるととらえられる)。
 何?「預言者ぶるつもりか、こいつ」だと?いや、そうではない。私は予言・預言などといったことをやらかす輩が大嫌いである:昔から預言者の類は蛇の類と結びついていた。ギリシャのデルフォイの神託所は蛇ピュトーンと結びついたものであり、その大蛇ピュトーンの霊が新約聖書でキリスト教褒め殺し ―実際には褒め殺しではないだろうが― の厄介な占いの霊として登場してくることを述べれば十二分だろう)。
 総体的に人間の心魂が抜け落ちていっているようなこの時代、見えざる閉塞感が鬱積しているデービッド・アイクという男が登場し、虚偽情報の束の中にまぶして真実の一端をばらしてしまったのはその原因であり、結果であると見ているようなこの時代にあって、予言・預言などといった操り人形仕様のものとは一線を画す[合理的な推察]から、クリスマスに関する比喩が我々の将来に関わると危惧しているのである。次に挙げる各点をご覧の上、よく考えていただきたい。

・2012年の[冬至]の折に人類が救済される、次のステージにあがる、アセンション ―アセンションとは妄言体系宗教、キリスト教に言う、昇天の意でもある。容易に死ぬという言葉と結びつく、である― が起こる、などと持ち上げる非科学的な連中の挙動が目立ち始めた。そういった連中はフォトン・ベルトといった言葉やマヤの預言を持ち出し、人類の画期の到来を説いているが何ら説得力ある話をせず、ひたすら憑かれた操られ人のように動いている(:私はここ数年でそういった者達がマイク片手に操られたように街頭で大声をあげている場に何回も際会している。布教目的でもなさそうだったがゆえに資金の出所や動機、その他で奇異さだけを感じたが)。 さて、[冬至](2012年の冬至)と言えば、である。クリスマスとなる。同クリスマス、サトゥルナリア祭 ―今まで論じてきたことからサトゥルナスことサターンがサタンとして崇めたてまつられている祭ともいえる― が往古、催されたという時期の祭儀であり、現時、[(サタンと結びつくと長々と証した)赤い服の老人]が空から良い子にプレゼントを持ってくるという時期である。そして、『黙示録』と「遙か昔から」結びつくよう調整されていた時期でもある。これらすべてを偶然だと思うだろうか?

2012年の冬至についてマヤの預言などにかこつけて云々する説と言えば、だ。マヤと同じく中米に存在していたアステカ文明がどう滅んだかを考えてみるべきである。アステカ文明は ―本Webサイト上の他所でも述べていることだが― [偉大なるケツァルコアトル]が再来する時であると昔から"預言"されていた年、1519年に"出来すぎた"タイミングでやってきたスペイン人征服者達を救世主と誤認、それが元で滅んだ文明となる。より具体的には、蛇の神でもあるケツァルコアトル、救済者とされるケツァルコアトルとスペイン人征服者コルテスを間違えた後、続く疫病(スペイン人が欧州より持ち込んだ天然痘)と略奪により原住民が数十分の一の数になったとも1000万人以上が死んだともされる形で滅ぼされた文明となる。そのアステカ文明やその他の南米での大量死を伴った滅亡を『黙示録』に"ダイレクトに"結びつけるようなことをするつもりはない。するつもりはないも、
[『黙示録』がケツァルコアトルと蛇でつながる[年を経た蛇(サタン)]や偽預言者とワンセットとなった[絶滅戦争展開の妄言録]であることやその『黙示録』が15世紀の天文学データを反映しているがために[実際の同文書作成年代はコロンブスがアメリカに旅立つ数年前ではないか、という説(自著紹介の異説)]が出されていること]
も頭をよぎりもする。
 ともあれ、この世界の多くは人間の時間間隔とは全く異なったそれを有している存在に調整されている節があり、2012年の話の裏には何らかの邪な意図があると合理的に推論できることを知っておくべきである(:2012年はありうべき可能性論の一つであるともとれるが。1999年について云々されていたことと同様に、である)。

当記事で書いてきたようなことが2001年の9月11日に発生した事件とダイレクトに関わっていかねない。それがきわめて重要なこととしてある(:[問題意識の所在]と題した本Webサイト上のカテゴリ、その中の[問題意識の所在―15―]といった記事の内容を併せて参照されたい)。2001年9月11日になされた行為は「11という数」(及び「12と13という数」)にこだわった[フリーメーソン製の儀式](正確には[フリーメーソンの操り人形の類をウルトラC的連結操作で用いて実現させしめた操作者らの祭儀])だったと揚言できもするようになっているのだが、それに絡みである。「冬至と『黙示録』の関係が[アトラス・プログラム]と筆者が命名したその儀式行為に部分的に影響していかねない」のである。多く、極めて危険な比喩を伴ってである(危険な比喩の中身についてはこの場に書ききれるものではないので書かない。気になる向きは膨大な文字数を割いてものしているとの[問題意識の所在]のパートを読まれるか、すでに読んだというのなら、その内容を思い出してほしい)。

・出典の真偽の程は測りかねるが、欧米のフリーメーソン分析家のWebサイト上にて、である。[時の翁]の比喩と911の事件の比喩をメーソンが併せて使っていたことを問題視する記述を目にした(無論、比喩の使用は911の事件の前に遡るとされる。だから問題になる)。
 さて、その第三者Webサイト上にあっては本記事執筆時、言及されていないが、[時の翁]と接合するローマのサトゥルナス(土星神格化存在サターン)はサタンと秘教的に同一視可能な存在である(については本Webサイト上で証している)。
 そのことは次のようなこととあわせて考えて、より一層、重要となることである。
フリーメーソンの人形の手合いらが[911の事前予告](としか受け取りようもないもの)をメーソンの象徴体系を用いて諸所で、多々なしていたのは"事実"である(代表例としての映画『ファイト・クラブ』の話は本Webサイト上の他所でなしている)。 そのフリーメーソンの背景力学が(時の翁と同一視される存在である)[サトゥルナスと結びつく土星]の占星術的位置づけを念頭に置きながら911の事件を予定していたのでは、との説得力ある推論もまた存在している (その推論上に[赤き竜、サタン]の話は出てこなかったようにも思う)。 占星術。その占星術をオカルト理論で見ないで、記号論的に分析、土星ことサターンの黄道上での位置が911の事件と結びつくよう調整されていたと主張する推論がそれで、について扱った英語動画が複数、インターネット上で公開されていたりもするのである(世界中のマスコミはそのようなショッキングかつ高度で普通人の理解の範疇を超えるような話は絶対に取り上げないが)

 上の各点らにつき精査いただければ、何故、クリスマスに関する比喩が我々人類の[将来]に関わると危惧しているのか、分かっていただけるものかと思う。

 もう十二分に話したし、証しただろう。
 『黙示録』とクリスマスが不快極まりない形で結びついているとの本記事はここまでとしておこう。

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後の日にあっての追記として

 当記事初稿をものしてから早いもので数年を経た。その間、当記事本文で問題視していた、
[2012年の冬至の折]
を大過なくも我々人類は過ごしたとの状況を見た(:無論、常識人から見れば「当然」なるべくしてなったとのこととなろう)。

 それにつき、幾点か(後付けながら)補足しておくべきと見たことがあるのでここに追記をなしておく(続く〔1〕と〔2〕と冒頭部に振っての各項を参照されたい。尚、当記事冒頭部(前頁)にても申し述べさせていただいたことだが、内容がややこしいとのものとなるため、出来れば、印刷などされた上で筆者申しようが正しきものなのか、じっくりとご確認いただければ光栄、と考えてもいる)。

〔1〕 2012年の冬至の折は大過なく過ごしたと[過去形]のこととして述べているが、記事執筆時より問題視していた通り(原文を2010年にしたためていた上にて本文掲載の当記事初稿にて問題視していた通り)ここ当記事では2012年冬至をありうべき危難の時の一候補しか見ていなかった。
 などと述べると、
「この輩、マヤの預言なぞを本気で信じて隕石でも落ちてくると考えている(いた)ような類なのか」
と誤解されるかもしれないが、筆者とてそのような頭の具合のよろしくない(失敬)ことは露も考えてはいない(迷妄、それは[合理的根拠なくも何かを信じる状況]と述べられようが、筆者は迷妄の徒輩に堕さないように心掛けている)。

 筆者が記事執筆当時、危惧・懸念していたのは
ありうべき粒子加速器による半ば人災としての災厄
のことである。

 その点、粒子加速器実験については「安全な」ブラックホール生成が現実的可能性の問題として取り上げられているとの背景がある(:加速器については当初より当サイトのようなものでも問題視していたが、詳しくはここ追記部と同様、後の日にあって同じくもの当サイト上にアップロードした他記事、[LHCによるブラックホール発生リスクが問題となりだした始原期について(下線を付した文字色改変部をクリックすることで遷移)の内容を参照いただきたい。数万余字を割いての解説に注力しているとのそこだけからして[加速器の人為ブラックホール生成問題]につき少なからずのことにつき、ご理解いただけることか、と思う)。

 そのようなブラックホール生成のターニング・ポイントが
[粒子加速器研究機関表明の初期の予定]
では2012年末頃に位置づけられ「も」するとのことがありもした過去形の話として、である)。
 2012年末頃、問題となる加速器(LHC)が[問題となる出力域](より具体的には最大出力による重心系衝突エネルギー14TeVの実現)に突入するとの[予定]の問題が当初あり、それによってブラックホールが一層、生成されやすくなるとの見立てが専門家の中にもあったのである ――専門家らは無論、生成されるブラックホールは安全であると太鼓判を押していた(につき、権威ある学者らは諸共、「ブラックホールが生成されてもすぐに蒸発するか、蒸発せずと滞留したとしてもそれは成長に天文学的時間を要するものであるから何の問題もない」と今現時でも太鼓判を押している)―― 。

 それにつき、筆者は専門家らが安全性に太鼓判を押し、未然形のことながら、国内外マス・メディアが[終わったこと]と報じることを「止めた」同件につき、手持ちの情報から実は安全性は何ら担保されていない(換言すれば、2012年末の初期予定の折に殺される可能性があった)と危惧・懸念視していたのである。

 などと門外漢としての立ち位置を弁えておらぬととらえられるように述べると(本来からして誤解を招きやすきサイトの構成上)さらにもの誤解を招くか、とも思うのだが、[加速器によって生まれいづることになる重力の怪物ら]により我々が殺されることになるとの危惧・懸念を抱いていた理由は筆者が海外で実験の差し止め訴訟を起こした向きらの主張 ―実に行儀が良い常識的なる主張であるも主流の科学者らに軽侮されているとの主張― に全面的共感を覚えていた、とのことに存するわけでは「ない」。
 粒子加速器については当記事で細かくも問題視したことと同様の色合いが付いた、
(「化け物じみたとしか言いようがない」との)
常識人が決して問題視したがらない奇怪なる側面
[局外者でも指摘可能でありながらも誰も指摘しようとしないこと]として多々伴っているとの判断をなさざるをえないと見るに至ったからこそ、そういうことがある状況で安全性につき保証をなすなどナンセンス、ととらえもしているのである(:そこにいう奇怪なる側面について部分的なる指し示しをなしている記事として挙げたのが上にて表記の[LHCによるブラックホール発生リスクが問題となりだした始原期について(下線を付した文字色改変部をクリックすることで遷移)との記事ともなる)。

 だが、結局、 ―ここからが重要となるのだが― [問題となる粒子加速器](LHC)の[問題となる最大出力]へのバージョンアップは
「2012年末」
には予定通りには実現しなかった。 代わりに同2012年より人類史上最大規模の偉業などと関連分野科学者らに称揚される技術の粋を結集しての実験(で用いられる加速器LHC)は長き休眠期間に突入、加速器実験が最大出力にバージョン・アップしつつ再開されるとの予定は現況にあってまだ実現を見ていないことである(おそらく2014年下半期に加速器の試運転が開始され2015年に本格的に最大出力での再稼働がなされることになる

 その間、人によってはエキセントリックと受け取られよう当サイトのようなものを充実化させる以外に筆者も常識的な範疇で問題となるところを訴求すべくいろいろなことをやったつもりなのだが、然るべき場で粒子加速器の異常性につき唯・常識的に吠え、いろいろな人間にアプローチする中で無力感・徒労感・絶望感にひたすらに苛まれることとなった(人に迷惑をかけたくはないのでその委細についてはここでは記さない)。

長くなるも、の追記部内補足として

 上にて唯・常識的に加速器にまつわる問題について問題視していたとしている。それにつき述べておくが、筆者は
「フリーメーソンのような操り人形の団体が911の事件を起こさせられる方向で頤使(いし)された」
常識人には受け入れ難くもとられるような非常識的なることを述べもする人間である一方で[常識的なところ]では常識的な語り口上のみに勤めるといったぐらいの最低限の節度は有している人間でもある(当サイトの書きようからではその推し量りを求めることは難しいか、とも思うが)。

⇒ 
 上につき、さらに述べておけば、「911が儀式であった」と当サイト上で述べていることについても ―宗教などでは元よりないので― その同意を他に押しつけるようなことをしようとしたことは一度たりともない(やんわりと「検討すべきことであると思います」とその真偽についての検討を願ったことは度々にしてあるが)。

 尚、そうしたやりようをとっているところながら、筆者が「911の事件がロボット人間らをチェスの駒として動かしたがために実現した儀式そのものである」と訴求することとしたそもそもの契機についてもほんの少し、この場にて申し述べておくこととする

 筆者が911の儀式性を問題視するように至った経緯はおよそ次のようなところにある。

フリーメーソン色濃厚な国「内」「外」サブカルチャー作品群にて911の露骨なる前言がなされていることを事実の問題として指摘できるようになっていることがある、とのことに気付かされ、そのようなことがある理由について煮詰めるに煮詰めて見る必要を感じたとのことがある(:読み手諸氏も試みにhollywood,911といったキーワードで関連動画を海外情報に強き動画サイトから探されてみるとよいと思う。によって911の奇怪なる事前言及作品について扱った動画群 ―複数人が公開しており、再頒布版も含めてバージョンが複数あるようにとれもする― も同定・捕捉できるところか、と思う)。 結果、そのように前言が恣意的・多重的になされている背景に[重大な意図の問題]が存在すると判断せざるをえぬと結論するに至り、その分析結果 ―委細は当サイト上の背骨をなす部に超長文でもってしたためているとのものとなる― を世に問う必要を感じたとのことがある(異常なものに敏感な人間でも「奇怪な前言があるとはね。びっくりだね」で話が終わってしまうような風潮が世の中にある中、その異常なるやりように対してwhyの問題を筆者はともかくも重大視して、その背景について煮詰めに煮詰めた人間となる)。

・直近述べたことについて[ツインタワーとフリーメーソンの秘教主義との間には結びつきがある]と一部の海外の情報発信者らが訴えているとのこともあり、そうした論調にある程度の説得力が伴っている、さらには、その指摘に[補って述べるべきこと]が「あまりにも多くある」とのことにつき検討してみて気づいた、とのことがある(たとえば、当記事との兼ね合いでもそれに通じる動画の紹介、911の事件の儀式的側面を占星術シンボルを用いた儀式とする動画についてのほんの少しの言及をなしている astrology、911などと検索して見れば、該当する[動画]も(削除されていなければ)何篇かに分かたれて出てこようか、とも思う。見る向きによってはfar-fetched(こじつけがましい)との側面を多少有するものとしてながらもである― )。

・(さらにほんの少し委細に分け入って述べれば)911の儀式性の問題に関しては(それをこの世界で完全立証しようとの向きは絶無という中ながらも当サイトで立証を試みているように)粒子加速器の問題ともつながるところ、[巨人アトラスとの結びつき]が多重的に観念されるとのことがあるとのことに気付き、それを世に問うこととしたとのことも[極めて重きところ]としてある

・証券会社ソロモン・ブラザーズ ―ソロモン王とは伝わるところのフリーメーソンのヒーローであり、ツインタワーはソロモン神殿の柱に仮託されていたとのことまではそれなりの数の欧米圏の人間が指摘することである― の入居していたWTC第七ビル(7WTC)の事件後8時間を経ての倒壊のあり方が常軌を逸しているとのことが一般によく指摘される。すなわち、ビルの爆発物による発破倒壊 ―ビル解体に用いられるコントロールド・デモリッションとして知られるそれ― と同様の特質を呈していたこと、順次爆破でなければ実現しないような塵芥の落下、すなわち、自由落下(フリー・フォール)の法則に反しての塵芥落下の仕方を呈していたといった指摘もなされている。 それにつきNIST(アメリカ国立標準技術研究所)の[自由落下の法則との矛盾に関する報告]も出されているのだが、それからして納得が行くものではないとオンライン上にて意見を発している建築・土建分野の専門家らの真相究明団体、アーキテクツ・アンド・エンジニアズ・フォー・ナイン・ワン・ワン・トゥルース  ―ただしフリーメーソンのフの字すらも911の関係で問題視しなかった者たちと受け取れもしてしまう(アーキテクト建築士との職掌にフリーメーソンとの接合性を感じなくもないが)― の標榜意見(ナノ・サーマイト(ナノ・テルミット)のようなものによる発破倒壊説/「これは」との同団体由来の動画も作成・公開されている見解)が[かなり説得力あるもの]と ―異論もある中で― 見たことも「問題がただの真実隠蔽にとどまらず背面で動いていた儀式、人類の行く末に係る儀式的挙動である」と考えるに至ったとの内面の作用に影響を与えもしている。表記の団体(アーキテクツ・アンド・エンジニアズ・フォー・ナイン・ワン・ワン・トゥルース)の専門家見立てに全幅の信を置くとのことをなした、首肯せざるをえぬと見た、とのことにその理由があるわけでは「ない」のだが、そうした専門家らの意見 ―ビルの一棟が発破倒壊の特徴を露骨に指し示していたとの意見(ナノサーマイト使用説に同意を示す専門家ら意見をまとめた動画も流布を見ている)― が[ビル「爆破」倒壊前言映画が存在していること]や[右のような馬鹿げたこと(WTCの爆破倒壊にまつわる前言作品がはきと存在していること)と表裏をなすと受け取れる儀式主義の問題]と辻褄が合いすぎるほどに合うと把握情報に基づき考えるに至った、とのことがあるからである(⇒当サイト上の他所で問題視している『ファイトクラブ』という作品(WTCのスフィアというオブジェを登場させつつビルの連続爆破倒壊に話が進んでいく作品)のことは言うに及ばず、[預言の自己成就]を描いた1995年の荒唐無稽なルパン三世もの系の国内アニメ映画の如きものまでが[現実のツインタワーがそうであったように間に黄金の球体スフィアを配するツインタワー状のビル]が[白黒サッカーボール型(メーソン・チェス版の床を想起)の爆弾]によって自主性なき操り人形によって爆破させられるとの物語を展開させたりもしている、そういうことで溢れているのが[心魂が抜けきったような者たち]で溢れかえっている碌でもない世界である)。

 以上のことらから、どういう作用機序でか現われてきたその[前言事象]に見るその色合いの通り、
[メーソンの人形(その気色悪さについては国内の大規模カルトと同様のものがあるとの団体)の手合いらを動員しての儀式的行為](敢えて誤解を恐れずに述べれば[人の思惑を超えての行為]でもいい)
が911の事件に関しては介在しているとのことを当サイトで専ら訴求することとしたのである ―述べておくが、(映画監督のマイケル・ムーアもがその監督作品で指摘するように)[ブッシュ一門のビジネス・パートナーであるとのラディン一門に所属のアメリカ仕込みのテロリスト]がその儀式的挙動に係るように[チェスの差し手]に動かされていたかどうかはこの際、問題ではない。問題は[チェスの駒と化した人間たち]を定められた流れのとおり動かす力学が存在すること、そして、その力学が意図して911を儀式的挙動として起こしたということである― 。

長くもなった[「追記」部内にあっての補足]はここまでとする

 委細を検討せねば、問題視することについての全面的理解を望むべくもないと思うのだが(繰り返すも加速器によるブラックホール生成からして主流の物理学者に太鼓判を押されている)、 当方が加速器の問題につき何をどう懸念しているのか、911の事件と何故、どうして加速器の問題さえもが密接に結び付くと判断できるというのか、当サイトの中心的訴求事項 ―アトラス・プログラムと表してのことにまつわる訴求事項― につきまとめて訴えているとの数十万字よりなる[改訂PDF論考]も(取り急ぎ)作成・公開しているので、そちらへのリンクを下に貼っておく。
 心ある向きには同PDF論稿の真偽検討を強くも願わせていただきたき次第である。


公開著作ダウンロードページへ(下線付きテキストをクリックすることで遷移)

(後の日にあっての追記部を続け)

〔2〕 当記事をご覧になられて、

「欧州宗教に見る妄言文書の最たるもの(『黙示録』)程度のものに過度の重みづけをなしている」

と思われた方もあられるかもしれない。

 だが、述べておけば、『黙示録』とは
キリスト教徒に分類される多数の人間の思考を根本から規定している文書
であると述べることができるようものである(抽象的な法華経が日蓮宗系の宗教団体の精神気風を規定している以上にある種、具体的な聖書の黙示録というものはキリスト教徒の内面に強き作用を及ぼしていると解される。聖書の中で選民性と終末思考が凝集した部が黙示録となるということも加味して、である)。
 キリスト教とは
黙示録に規定されている他方での[地獄行き]とワンセットになった[敬虔な信者の神の国での復活]を本気で信じている人間を多数包含している宗教]
でもあるのである (形式上、伝統系仏教徒に分類される者ながら無神論者・無宗教の徒である筆者のような人間でさえ、はきと明言できもしようところとしてそうもなっている ―続く内容を顧慮いただきたい― )。

 そうしたキリスト教の信奉者であるからこそ、『黙示録』の内容を極めて重要視、その中に出てくる、
[六六六の獣の数字]
といったものを忌むに忌むとのことがあったりもする。
 黙示録に規定されているそれなくしては売りも買いもできなくなるとのことであるその獣の数字をキリスト者はとかく邪悪なものと位置づけ、自分たちの生活を規定する望ましくはなき諸事象にその寓意を穿って見出そうとのこともよく行われている。

(:普通一般の「非」キリスト教信者にはそういうことが理解できないか、とも思えもする。その点、当方が手前の設立した会社の用に供すべく意図もあって借り受けていた物件に「ここ最近になって」後付けで東芝系列のエレベーター管理会社が目立つように666を中番号とするエレベーター監視コールセンターの電話番号を貼り付けだしたとのことをやった(当方主観では「迷惑千万なことに」色を付けるように貼り付けやがった、でもいいのだが)といったことに際会させられもし、そういったことからして[異文化に理解を示さぬ魯鈍さに通じる問題]として身近に感じさせられた、とのこともある。 それにつき、欧米人で誤解を避けたいとの向きならば、六六六のステッカーがエレベーターに貼ってある物件などまずもって借り受けないと述べられもする。 自己の精神的苦痛と社交上の問題を顧慮して、である (呆れさせられたのは筆者が用に供すべくも借り受けた物件に不快にも後になってから[六六六番を中番として含んだエレベーター監視のコールセンター電話番号を付したステッカー]を目立つところに貼ることに一役買った者たち(東芝系エレベーター会社の者たち等か)に[集合住宅物件家人の中にいるかもしれないキリスト教徒に対する配慮]がなかったのか、ということもあるにはある。 その点、カルトがその見本市であろうといった人種、[言われれば疑義をはさまずに言われたことをやるだけの人種]であることが次善の特質(適宜適切に要請されるところを汲んでやりきるとの「最善」に次ぐ次善)の特質でありもしようサラリーマン、多く自主的判断意欲乏しき者たちにそんなことを期待しても無理であろうとも思うのでもあるが、しかし、エレベーター会社が欧米では支配的なキリスト教的価値観から13を忌み数として ―由来諸説あれキリスト教的観点から13を忌み数として説明する傾向が強くある中― 十三階を置かないビルディングとてもが多数あることを知らなかったということ並みに[六六六]が中番とのコールセンターナンバーを(集合住宅物件家人の心情も顧慮せずに)エレベーター周辺にペタペタ貼り出したことは不思議であるとも思う)

 そういった欧米人の精神気風を根本規定するようなものとして社会に通用しているものであるから、そこに仮に
[伝承上、はきと指し示せるような奇怪性]
が伴っていれば、その特質につき ―宗教の狂質とは無縁な― 無宗教的観点から述べることとて重要なことであると当記事筆者はとらえている(そして、現実に当記事のようなものをものし、その内容を世に問わんとしている)。

 また、述べておけば、欧米人(の中の多数を占めるキリスト教徒)の思考を根本規定する黙示録のような文書だが、アジア圏にあってもその、
[不気味なる相似形]
を見ることができるようになっている
とのことさえある(であるから、より一層、重要となるととらえている)。
 当記事でも述べたような
何故、そういうことがあるのか」
「その背後でどういうことが問題になるのか」

との問題にも接合することになるが、多くの人間の尊厳と平穏な生活を破壊してきた創価学会に[宗教的選民主義に根差した狂質]を接受した日蓮宗からして黙示録の赤い竜の物語と「奇怪無比に」関わっているとのことがあるのである。
 心ある向きにはここ追記部で取り上げることとした以下のa.からd.が正しきこと ―唯・文献的事実に依拠しての正しきところ― について述べているものか、お調べのうえ、その真偽につき確認いただきたき次第である

a.日蓮宗には七つの面と結びつく赤い竜との崇拝対象が存在している。
 具体的には
似姿そのものは七面ではないが、[七つの面](七面sichimen(sichi-masks)⇒seven-headed)との呼称と結びつく七面大明神 ―[紅き竜]に変じた妙齢の婦人の法華経礼賛者― が日蓮宗の守護神にして御本尊として身延山の久遠寺(日蓮宗総本山)に祭られている
とのことがある。
 他面、キリスト教『黙示録』にも七つの頭と結びつく赤い竜が登場する。
 具体的には
七つの頭の赤い竜たるサタンが無信心な者らを地獄に引きづり込む最終戦争の敗北者として登場する
とのことがある(一言で述べれば、日蓮宗は七つの面と結びつく赤い竜を崇拝し、キリスト教徒らは同じくものものを忌む)。

b.日蓮宗の[七つの面と結びつく赤い竜](七面大明神)が登場する文書『身延鏡』
数字の七に対する尋常一様ならざるこだわりを見せている文書
である(:お調べれいただければ、すぐに裏をお取りいただけることだろうこととして『身延鏡』にあっては七面天女こと七面大明神が(文言原文引用するところとして)「我は霊山会上にて仏の摩頂の授記を得、末法法華経受持の者には七難を払ひ、七福を与え給う。誹謗の輩には七厄九難を受け、九万八千の夜叉神は我が眷属なり。身延山に於て水火兵革等の七難を払ひ、七堂を守るべしと固く誓約ありてまたこの池に帰り棲み給ふ」と述べたと記載されている→数字の七だらけである)。
 他面、キリスト教の[七つの面を持つ赤い竜(サタン)]を登場させている文書『黙示録』 ―いいだろうか、当記事でもその問題性を詳説した『黙示録』である―  もまた
数字の七に対して尋常一様ならざるこだわりを見せている文書
として有名である(:同様にお調べいただければ、すぐに裏とりなしていただけるだろうこととして『黙示録』とは七つの教会][七つの金の燭台][七つの星][神の七つの霊][災厄をもたらす七つの封印][裁きの実行者としての七人の使い][七つのラッパ][七つの災害][七つの雷][七つの金の鉢][七つの頭をもつ獣][七つの頭を持つ赤い竜][七つの山](聖書『黙示録』ではバビロン大淫婦の座っているとされる寓意物として七つの山が登場する)[七人の王]との記述を含む文書である→数字の七だらけである)。

c.(直近、a.からb.のようなことがはきと指し示せる一方で)常識としての歴史理解に基づけば、日本は黄金の国ジパングとしてマルコ・ポーロの『東方見聞録』(1298年以降、獄中で著されたとされる書物)を介して欧州にその名が伝わった存在ともなり、そうもした日本に欧州よりキリスト教[教義]が ―戦国時代より前に― 伝来したことを示す記録・文物はない。一切ない(:フランシスコ・ザビエル、[初のキリスト教伝道者]として知られる同男が日本に入来したのは16世紀前半、1549年のことであるとされている)。
 従って、日蓮宗の本尊たる七面大明神とキリスト教『黙示録』(2世紀から3世紀に成立)に登場の七つの頭を持つ赤い竜が通常の文化伝播のレベルで似通っていると述べられる理由はないわけであるそして、そのようなことを伝播させようとしたとの人間レベルの思惑の介在も普通に考えれば観念できるところではない)。
 にも関わらず、
[実に特徴的であるキングギドラの比喩的象徴物のような類](「七つの頭」と結びつく「赤い竜」)
が同じくも[数字の七だらけであることを際立った文書]を介して日本と欧州で登場している。
 そうしたことにつき ―純粋に確率論的に見ての― 偶然「も」また普通では観念できないところである

d.田中智學。[国柱会]という名の戦前の愛国主義的日蓮宗系団体(創価学会のような日蓮宗系新興宗教に受け継がれる在家主義は元来、同・国柱会に端を発するとされる)の主催者にして[八紘一宇]との標語の生みの親でもある同田中智學の門下には石原莞爾という男がいた。その石原莞爾、日本の膨張政策に多大なる影響を与えた関東軍参謀として極めて有名である(高校レベルの日本史の科目でも味気ない暗記知識として把握することが推奨されていることである)。
 といった石原莞爾の唱導した理論は[洋の東西の最終戦争]を想定してのもの、最終戦争論として一部の知識人に知られているものである。
 その石原莞爾の最終戦争論が
[[サタンを崇めるバビロンの堕地獄の民]と[正しきキリスト教徒]の最終戦争と黙示録が描いているようなもの]
と ―国内宗教選民主義カルトの特質と黙示録の連続性に係るところとして― 記号論的に置換可能であった、とのことがあるその詳説をなそうという人間も ―知ってか知らずか― 絶無となることなのだが)。
 説明をなす。
 その点、まず前提となることとして、述べるが、
[国柱会成員であった石原莞爾は[日蓮の預言](なるもの)に基づき洋の東西の代表的勢力の間で最終戦争が発生するなどとその論稿(書籍化されもした『世界最終戦争論』)で唱道していた]
とのことがある。
 同『世界最終戦争論』の中で
「平和こそが望ましいもその平和の実現に向けての[最後の決戦]がなされる」
などとしつつも石原莞爾は ―(ウィキペディアの[石原莞爾]項目[世界最終戦論]項目や同男の『最終戦争論』流布版(青空文庫のような和製プロジェクト・グーテンブルクとでも言うべき媒体で著作権の縛りなきものがダウンロード可能)に対する確認から容易に裏を取れることか、とも思うが)― その最終戦争を[日蓮の正法と最終的に日蓮宗に帰依するだろう存在としての天皇に対する崇拝をあまねくも広めるとの過程][日蓮宗に帰依した天皇の世界統一の霊力をあまねくも広めるための過程]ととらえ、[東洋の盟主たる日本の王道]と[西洋世界の覇道]の一大決戦が近々生ずる、そのために(今日から見ての核兵器のような)大量破壊兵器が必要であろうと述べていた向きともなる
 そうしたありし日の石原莞爾の主張動向は今日の創価学会の機関誌(筆者は外部の人間ながら人権侵害団体の内面の問題も研究対象としている)に認められる「彼ら」のプロパガンダ ―[王道と覇道の対立]/[日蓮宗の信仰による教祖を主軸とした内面の「世界」革命]等々― と「甚だしくも符号」するところがあるにはありもするものだが、それは置いておいて話を進めるとし、石原莞爾の申し分、
[日蓮宗に帰依した天皇の世界統一の霊力をあまねくも広めるための過程としての最終戦争が実演されるとの申し分](普通に考えれば典型的宗教的狂人の申し分)

[聖書の黙示録が語るサタンの会衆と正しきキリスト者の衝突]
とまさしくも一致するものである。
 言い換えれば、熱狂的(ファナティックかつファンダメンタル)なキリスト教信者がありうべきこととする[偽キリストの勢力とキリスト者の最終戦争]との発想法と完全に重複するものともなる
 疑わしき向きには米国で大ヒットを見たキリスト教小説レフトビハインド・シリーズ ―キリスト教徒の終末観が如実に現れた宗教小説― の内容などともあわせてご検討いただきたいと思うことなのだが、
石原莞爾が
[(七面大明神(七つの頭との語と結びつく赤い竜)を御本尊とする日蓮宗の狂質を往時の天皇教の狂質と一体化させ、西欧との物心両面での最終戦争を唱導などしていた輩
である
がため、[純粋なる記号論的一致性の問題]としてそうも述べられるのである
(いいだろうか。聖書の黙示録は[七つの面と結びつく赤い竜]の会衆とキリスト教の決戦を描いているとのものである
 表層的に見れば確かに奇矯な話だが、そういう解釈が[純粋なる記号論]に依拠して数学的証明のように異論なぞなしようがない形にてなせることが問題となる。

 17世紀活躍のドイツ神秘家ヤコブ・ベーメの言行録に付された18世紀作成の挿絵。
 同挿絵画、『黙示録』に登場の[七つの頭を持つ赤い竜]のビジュアライズが現代的感性でなされていもするように受け取られるものだが、
同じくもの形態のものへの想起が久遠寺に祀られる日蓮宗御本尊、[七面との字句と結び付けられる赤い竜:七面大名神]に対してもなせる(宗教にやられた徒輩から見れば「なせてしまう」か)ことには[相応の背景]があろう
と示さんとしているのがここでの話である(:上の石原莞爾に話に至るまでの段をよく読まれ、その真偽につき検討いただければ、そうした筆者申しように偽りなどないこと、事実と事実に依拠しての最もな解釈論の話をなしていること、ご理解いただけることか、と思う)。

 さて、日本の見るに堪えない低レベルなインターネット上の動向としては創価学会をして[悪魔教]と指弾する向きも目立っている。手前自身、無神論者・無宗教の人間ながらも唯、[正邪の問題]としては同意できるところがある申しようととらえるが、そうしたことを鼓吹する向きらは多く何らその具体的根拠を述べないとの手合い、印象論・感情論 ―要するに軽侮を買うだけの愚者の論法― に終始しているきらいがある。であるから、[シグナル](判断を誤らせない正しき[情報])を台無しにする[ノイズ](判断を曇らせる雑音の如く不適切な[印象論・感情論])の意図的撒布の問題がそこにあろうともとらえられるのだが、しかし、上のような観点(a.-d.)を付け加えて見ると、
[キリスト教信者から見ての国内日蓮宗系カルト組織というものは([水面下で数多の人権侵害事例を引き起こし偽善と心魂を奪うがごとくの作用機序とワンセットになった大規模カルト]のみならず)諸共、その伝でのもの ―悪魔に仕える宗教― と看做されうる特質と共にある]
と指摘できもしようものになっているのである(:誤解なきように。筆者は人権、人間の尊厳を下らぬ便法で侵害しようとの相応の人間の巣たるカルトにとどまらず宗教などというものは皆、同じく悪魔的な嗜虐的特性で形作られたもの、[本来的には真っ当な存在になりうる人間]を[愚かで醜い手合い](遠慮会釈もなく述べれば、トールキン小説『指輪物語』に出てくるオークのように内面が醜悪なもの)に変じさせるプロモーターのようなものにしか過ぎぬと見ている。であるから、特定の宗教体系から見て他の宗教体系を悪しざまに論じるというのはその実の悪魔の如き存在の手先の手管であろうと強調するところである。そういうことを訴え、加えて人間の解放の理念でもってそうしたことをさらに周知させるべくも会社を設立しもした後にて東芝系のエレベーター会社に[黙示録の六六六]絡みで無思慮で腹立たしきことをされた(上にて既述)といったことがあるのだが ―今後、さらにそういう事例に煩わされることになるかもしれないと考えている― 、とにかくものこととして、である)。

 容易に裏取り可能な[文献的事実]及び[歴史的事実]、そして、そこから導き出せる自然なる解釈に基づいての話を無視するのは狂人だけだが(上の赤い竜にまつわるa.からd.は「まさしくも」そうした[正常人と狂人の分水嶺]たりうる性質の話であると筆者はとらえている)、にも関わらず、(知っている人間は少なからずといると思えるのに)、『黙示録』の七つの頭の赤い竜と日蓮宗御本尊の七つの頭の赤い竜が奇怪無比に結び付いているとのその一事、それについて「根拠主導方式で」訴求しようとの人間とて筆者を除けば「現況」絶無である ――※「現況」絶無である、としているが、ただし、である。筆者が忌む[当媒体にも従前、色を付けようとした相応の人間らの情報発信日付偽装ブログなどのようなもの]が用いられて[見る人間に失笑と軽蔑をもたらさんとの模倣的なるゴミ/劣化剽窃物]が(「似非学会批判者らの体裁をとることにもやぶさかではないその実のそちら系の者たちである」と筆者が不快に思いつつも経年観察してきたところの)[水準低き宗教系の者たち][有象無象の陰謀論者たち]によって問題の悪質性から目を逸らさせるようにこれより散布されだす可能性もあると見ているが。―― (:繰り返すも、日本では自身で思索などできようはずがない人間ばかりを集めてこさえさせた国家寄生カルト、知性・良識と両立するはずがない教義・主義を行動規範とする国家規制カルトの類が大手を振って言論統制装置となっているような[相応の社会的状況]の問題もあってか、オンライン上では[人から軽侮を招くような格好の低レベルな感情論・陰謀論]を展開するような相応の水準の者ら(工作員と形容されるような手合い)の言いようばかりが「際立って」目立ち、[証拠となること]が軽んじられている節がある。如実にある)。

 といった中ながら申し述べるが、では何故、そのような
[奇異奇矯で実に邪悪であると受け取れるようなこと]
が現実に存するのか。

 そのような作用機序の介在が至るところの問題も含めて考えなければならないはずである。

 それにつき、筆者が取り立てて強くも重んじているのは
[伝承の人間業とは思えぬ操作の背景にて最終目標への寓意があるように受け取らざるをえぬとのこと]
である。

『馬鹿げている』と受け取るのは勝手であるが、
[馬鹿げていると言える程の伝承間の奇怪な相関関係]
につき現実に指し示しをなしている人間の言を無視することと等しくも(検証することもなしに)上の言を正しくなきところと看做すのを主義とするのは悲劇的なことであろうと述べておきたい。[運命を残酷極まりない者たちに進んで委ねるとの挙に出ること]並みに、[自身の末路も考えずに屠殺場に歩んでいく家畜のように割り切ったとのこと]並みに、賢明ではない悲劇的なることであると明言しておきたい。

 そのように(くどくも)明言しもする根拠、すなわち、
[伝承の常軌を逸した相似形の背後に[最終目標への寓意]が控えているらしいとの指し示しがなせ、その指し示しを無視するのは賢明ではないと明言しもする根拠]
についてはさらに当ウェブサイトにあっての直下、指し示す記事の内容を ―批判的視座にてでも― ご検討いただきたき次第でもある(上にてリンクを貼ったPDF論稿の検証をなすことだけで多くの向きにはご自身の足元がどうなっているかの問題につき、ご理解いただけるだろうとも考えているのだが)。

⇒(当記事との併読を請いたき記事として)
死と再生の神らと子殺しの女神たちの関係。そこから言えることについて](下線部をクリックすることで遷移)

(これにて後の日にあっての追記部を終える)

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