考えられる操作の手法について

 
 

三種の神器をはじめとした権威象徴物(リゲイリア)に込められた隠喩-2-

 頁を改めたところで前頁の内容を一言で要約、確認しておこう。

「古代ギリシャ神話で最高権力の座にあった三兄弟、ゼウス(主神)、ポセイドン、ハデス。彼らが一つ目巨人より与えられたワンセット三つ揃えの神器、[雷霆(らいてい)][三つ叉の矛][隠れ兜]は日本の皇室の権威の象徴たる三種の神器と結びつきながら、[魂といわれる"本質"に対する操作の象徴物]となっている。そのように解されることとなっている」

 [信じがたい話]、いや、というより、[意味不明瞭かつ馬鹿げた話]と聞こえもするだろう(当然であろう)。
 が、前頁では、上記のようなこと、[ギリシャ神話の象徴物とも結びつく三種の神器が操作の象徴物になっているということ]が「客観的に述べられる」とのことを指し示すべくもの論証を ―洋の東西にあっての伝承上の事物らを引き合いに出しながら― 着実に進めてきた。
 本頁はその論証、未だ不完全なる論証を完成させるためにあるとしつつ、言っておく。

「前頁の内容 ―[王権象徴物(リゲイリア)に伴う奇怪な寓意性について](文字色改変部をクリックすることで前頁に遷移)― をきちんと押さえた上でないと続く内容は理解しがたいものとなっている」。

 それでは、前置きはここまでとし、本題に入ることにする。

 さて、前頁後半部では
「三種の神器と操作の隠喩が結びつく」
ということを傍証する
ために
[ギリシャのゼウスや北欧神話上の雷神トールら[雷神]が世界中で[蛇の象徴的存在]と対峙あるいは接合の関係を呈していること]

["雷"と結びつくギリシャ神話の一つ目巨人サイクロプスと蛇の杖の関係性]

[日本の記紀神話に認められる["雷"神絡みの神器]と旧約聖書に見る[蛇の杖]の間に成立する奇怪極まりないパラレリズム]
らのことを引き合いに出しての話、そう、一見、「奇矯な」とでも形容されそうな組み合わせ(ここで[奇矯な組み合わせ]というのは、正統派文化人類学者といった類から見ての[奇矯な組み合わせ]ということである)に着目しての神話的象徴物らの分析をなしもしてきた。

 以下は、のような話からより包括的なる話の方向に舵を切り、次のような観点から三種の神器と操作の関係について論じる

 「多くの宗教が三種の神器と接合する象徴体系を有している」

 極めてややこしい話になるが(ただし、「この手のことはとてもではないが、簡潔に説明できるものではない」と自己弁護したい気持ちもある)、端緒とすべく下に挙げた図をご覧いただきたい。

 上掲図像群の解説を一言だけでなす。[左上][左下]に挙げたのは潰えた異教、ローマ時代のミトラ教のレリーフ(石材浮彫)である(:ローマ期制作のものが再発掘されたとのことで英文ウィキペディア[ Mithraic Mysteries ]項目などにも掲載されているものとなる)。

 対して、[右上]はアナトリア(現トルコ領)の古代の女神、キュベレ神を彫った古代の装飾物である(:英文ウィキペディア[Cybele]項目にても掲載されているものとなる)。

 [左下]はよく知られたフリーメーソンのシンボル画である。

 以上、紹介したところで言うが、
上にて図像挙げた象徴物の間には極めて深い関係が成立している
とのことを訴求したい(その関係成立の話が後の話の布石となる)。
 

 図中、[青色の円で囲った箇所]を結び目として考え、導き出せることとして、である

 では、具体的にどのような関係が成立しているのか。

 下に各別に解説しているような関係が成立している。

[ミトラ教のレリーフ]と[フリーメーソンのメーソンのシンボル画]の関係について

 上掲図[左上][左下]のレリーフは[ミトラ教の供物としての去勢牛Ox(あるいは、によって、仮託される人間とも)の魂の処置の場面を彫ったものである]との解釈がなされている(英文ウィキペディア「にすら」載せられていることとして「ミトラにPsychopompos[魂の送り手]としての側面が現れている」ゆえ、そのように解釈されているともとれる)。 
 それについては、(この段階では何を述べんとしているのか首をかしげたくなるような話柄ととらえる方もいるやもしれぬも)、[レリーフ上の魂の処置の描写]が[フリーメーソンとは魂というべきもののレベルで"処置を施された存在"である]との見方 ―(前頁にて部分的にその内容につき言及した爬虫類人人類支配説との兼ね合いで昨今、取り沙汰されてきている見方)― と接合していると述べられそうなこともある(:については本記事冒頭で事前参照推奨箇所として挙げた[赤き帽子に秘められた操作の比喩]という題の本Webサイト上他記事で[ミトラ教寓意物から語れもしようこと]を詳述している)。
 そのようなこと、当サイト上の他所で扱っている[爬虫類人類支配説のような異説と接合していると述べられそうな側面]も
[ミトラ教レリーフとメーソン象徴主義の寓意]
にはあるのだが、本記事でも後に再度、触れることになるそうしたことに関わる[意味論上の対応関係]を抜きにした上でもミトラ教レリーフとフリーメーソンのシンボル画の間には[視覚的対応関係]が[青色の円で囲った箇所]絡みで成立している(ことを[三種の神器]に連なる問題と定置し、差し当たり訴求したい)。

 どういうことか。

 については、まずもって、

ミトラ教レリーフの青色の円で囲った箇所は[太陽の神格(ローマのSolソル神)]、[月の神格(ローマのLunaルナ神)]、[フリギア帽をかぶったミトラ(の頭部)]を指しての部位であると定置されている

とのことに触れておく必要がある(レリーフの中、貝のような形で彫られた後光を背景にしているのが[太陽の神格ソル]となる。とんがり帽子(フリギア帽)を被っているとの描写がなされているのが[ミトラ(の頭部)]である。図からは分かりづらいだろうが、三日月を背景にしている残りの人物が[月の神格ルナ]である ―以上は英文ウィキペディアの[ Mithraic Mysteries ]項目記載内容からも自然に導き出せるところである― )。

 そこにいうミトラ教レリーフの中の[太陽神格]、[月神格]、[フリギア帽をかぶったミトラ]が上掲[右下]のフリーメーソンシンボル画上部に太陽(ミトラ教レリーフと同様、貝のような形で描かれる)、月、亜空間から覗くような目が描かれていることと視覚的に「完全に」対応しているとのことがあるのである。

 何?
「太陽と月が視覚的に接合していそうなことは図を見てみて分かったが、亜空間から覗くような目はどこにも対応していないように見える」?
 いや、そうではない。[フリーメーソンの象徴としての亜空間から覗くような一つ目]は[ミトラが被るフリギア帽]と深い対応関係があると指し示せるものなのである ―実はそこからして各国象徴体系の兼ね合いからして非常に意味深い話なのだが、「どういうわけなのか」、同点について指摘しようとの人間さえ絶無に近しい、といった塩梅となっている― 。
 その点については、すなわち、ミトラが被るフリギア帽がメーソンの一つ目印章と対応しているとのことについては
下に挙げる図解部
の検討を通じてご納得いただけることか、と思う(:下の図から納得いただけないとのことであれば、本記事「前頁」記載部冒頭にて推奨事前参照記事として挙げた[赤き帽子に秘められた操作の比喩]及び[二匹の獅子と操作の比喩]という題の本Webサイト上の他記事の内容を読んでいただくことで納得いただけるものと思う)。

 とにかくも、

「[太陽]、[月]、[フリギア帽](ミトラが上にて挙げたローマ期レリーフにて被っている帽子)と[亜空間から覗く目]の上部配置構図の共有という観点からミトラ教のレリーフとフリーメーソンシンボル画は(意味論上の話のみならず)視覚的にも結びついている」

と言えるだけのことが根拠を伴った確としたこととしてある。

 上掲図[左上][右上]にあってはフリーメーソンのシンボル画らを挙げている。
 上掲[左下]にあってはミトラ教の遺物を挙げている。
 問題なのはミトラ教遺物に認められる典型的な[月]と[太陽]と[フリギア帽]の結びつきが ―([フリギア帽]が[亜空間から覗く目]が変換可能となっていもするため)― [[月]と[太陽]と[亜空間から覗く目]をワンセットとしたフリーメーソン象徴体系]と完全に対応するようになっていることである。主観などさしはさむ余地もなく客観的に、である(:上掲図らを直近にて挙げた合衆国国璽のデザインの変遷過程 ―フリギア帽と三角形の中の一つ目が結び付けられる形となっていることを示す合衆国国璽のデザインの変遷過程― と比べて見てみればよい)。
 では何故、そのようなことになっているのか。
 フリーメーソンが往古のミトラ教 ―20世紀初頭まで精力的に活動していたフランツ・キュモンのような考古学者によって19世紀以降、目立って「再」発見されていったとされるもの― の象徴体系を早くから転用、自分たちの象徴体系に組み込んだとでもいうのか(実はそうした見解を否定できるようなところがある。フリーメーソンの月と太陽の象徴主義は近代になってから再発見されていったミトラ教遺物より踏襲したというよりもメーソンの表立っての活動開始時期よりさらに前より存在していた(欧州の人間は諸共、キリスト教以外の信仰体系のありように細かくも目を向けることなどできはしなかったとされる折の)錬金術象徴体系を踏襲していると述べられることがあるゆえに、である ―当サイト上の他所で論じていることである― )。
 あるいはフリーメーソンらが自分たちの象徴体系を反映させて[往古に潰えたとされるミトラ教の遺物]なるものを[そのようなものは本来的には存在していなかったところ]から組織的にゼロから贋造してきたのか(合理性の面でおよそ考えがたいことだが、その可能性は否定できないととらえている)。
 なんにせよ当記事の兼ね合いでこれより問題としたきは、である。[ミトラ教と去勢の隠喩絡みとしてどういったことがさらに呈示できるか]である(続く段を参照されたい)。

[ミトラ教のレリーフ]と冒頭抜粋四図右上の[キュベレを彫った遺物]の関係について

 ミトラ信仰と古代アナトリアの女神キュベレにまつわる信仰は視覚的かつ本質的に結びついている(主流の考古学者はそのようなことを進んで摘示するようなことはしないのだが)。
 そこにはキュベレ ―当記事本頁の上にて挙げた図らの[左上]にその似姿を描いた遺物を挙げている往古アナトリアの女神― の付き人としての神アッティスが
[ミトラとそっくりな姿]
で描かれることが大きく関わっている。

 上掲左はミトラ教由来のローマ期のものとされる石彫遺物(英文ウィキペディアに掲載されているものでもある)。
 対して、上掲右は発掘されたパリアンマーブル(白理大理石)製のアッティス神の像の頭部となる。
 キュベレの息子アッティスを崇拝するとの古代トルコ界隈にあってのアッティス崇拝とローマ帝国内で信仰されたミトラ神信仰は双方ともにフリギア帽を被る視覚的にそっくりな存在を崇めるとのものとなっている。

 さて、大地母神的なる側面を有した女神たるキュベレの付き人たるアッティスという神、「去勢された」存在なのだが(キュベレが息子アッティスの婚礼を嫉視しアッティスをして自己去勢に至る狂乱状況に陥れたなどと神話は語っている)、同アッティス、視覚的類似性ある存在を崇めるミトラ教にあっての
[ミトラのレリーフ(供物としての牛、あるいは、人間の"魂"の処置を描いているとされる上掲レリーフ。魂の処置と去勢をかけているととれる)で牛の睾丸をサソリがはさむ、おどけた描写がなされていることと関係がある存在]
ととらえてよいだろうとの神でもある。
 ミトラ教の遺物には上掲レリーフに限らず、牛 ―魂の犠牲の儀に供される去勢牛― がサソリに睾丸をはさまれる描写が頻出するため(異常とも言える形で、定形化された形態で諸々の発掘されたレリーフがそうもなっている)、そこにはあからさまに[去勢]への意識誘導があり、それがミトラと全くそっくりな似姿をとる[アッティスの神話上有名な去勢]と結びつくととれるのである。
 以上は ―ウェブ上の前頁に遡る当記事の冒頭部にて参照を請うているとの― 当サイト上にあっての他記事、
赤き帽子に秘められた操作の比喩(フリギア帽に込められた意味)] ―文字色改変部をクリックすることで記事に移動―
二匹の獅子と操作の比喩(秘密結社のマーキングに至るまで)] ―文字色改変部をクリックすることで記事に移動―

にても述べている、
[人間の魂に対する処置の話]
にもつながることであるのだが(:アッティス崇拝は[キュベレ崇拝]とワンセットであり、その女神キュベレは[二匹の獅子に戦車を牽かせる存在]と古来描写されている/のようなキュベレ類似の存在 ―[二匹の獅子に戦車を牽かせる存在]― が[アッティスが被ったフリギア帽を解放奴隷の象徴などと謳っていたフランス革命]にあっての自由の体現物[女神マリアンヌ]にされていたとのことがある、[精神に対する去勢の比喩の介在]との式でそのようなことがあるとサイト上の他記事で解説しているのでもあるが)、 そういった他記事に委細を譲っての話についても考えれば、である。
 被去勢者アッティスを付き人としている女神キュベレ ―その姿がメーソンが多数関与してのフランス革命の体現存在たる女神マリアンヌに転用されているとの女神― 絡みの遺物に[月]と[太陽]が彫られていることが

[アッティスそっくりの似姿をとり[フリギア帽]をかぶるミトラを崇めるとのミトラ教の[月]と[太陽]の神格を配してのレリーフが多数存在している」

とのことと意味深くも結節することがよく分かるようになっているのである(のような話は当記事単体だけでは理解が及ぶべくもないことだろうから、前頁に遡る当記事の冒頭部より[赤き帽子に秘められた操作の比喩(フリギア帽に込められた意味)][二匹の獅子と操作の比喩]と題した他記事、二匹の獅子に戦車を牽かせるキュベレがフランス革命の女神マリアンヌと悪魔的に結び付けられていることを論じた他記事の内容の事前参照を請うてもいる)。

 上掲図上段では[フリギア帽を被ったアッティス神を去勢させて殺した往古アナトリアの女神キュベレ]の[近代にあっての再現画]および同女神に関わる[遺物]を挙げている(遺物の方は[月と太陽のアイコンと結びついているものとして先に挙げたもの]でもある)。
 下段は[アッティス神](去勢された神)および[ミトラ神](去勢牛の魂を処置するさまが頻繁に遺物に彫られている、アッティスそっくりの似姿の神)と結びつく[フリギア帽]を[解放奴隷の象徴]などとしてあいなったフランス革命の象徴化存在たる[女神マリアンヌ]の姿を穿った銀製メダルとなる。
 ここにて問題としたきはフランス革命の象徴化存在マリアンヌ、フリギア帽を被った姿でも描かれるとの存在でもある彼女がフランス革命の後の政権にてアッティスを去勢して殺した女神キュベレ類似の似姿 ―二頭のライオンにチャリオットを曳かせているとの似姿― でモニュメント化されてきたとの沿革があることである。
([事実]の問題としてそういうことがあることについては[当サイトにあっての参照を上にて請うている他記事]にて解説している)

[キュベレを彫った遺物]と[フリーメーソンシンボル画]の関係について

 キュベレは二匹のライオンに自身の古代式戦車をひかせた姿でよく図像化される。そこにいう[二匹のライオン]、古今東西の権門の象徴だったわけだが、フリーメーソン絡みの象徴物(というよりメーソンの手によるオブジェなど/東京都内(新宿)の公衆の目に振れやすき場にもメーソンの下部団体とも定置されるライオンズクラブがライオンを用いたオブジェを極めて目立つように配置している場所がある)に認めることが出来る存在でもある。
 そこからもキュベレとフリーメーソンの間に相関関係がありそうなことを見てとれる。
 が、より重要なのは
[キュベレの付き人のアッティス]=[ミトラと結びつく去勢の比喩の体現存在]
という関係が成立していることである。
 同じくもの文脈から[フリギア帽を被ったアッティスを去勢させたキュベレ神を彫ったものとして(先に紹介した)遺物]と[フリーメーソンシンボル画]の[太陽と月を介しての接合性]が深い意味を持ってくるとの文脈で、である(魂の問題につながることとして、である)。

 上につきポイントは

[魂(と呼ばれるような内面の実質)に対する何らかの処置が施されていること]が示唆されているとのことであり、それに関しては蛇の杖](当記事にあっての前頁でもそれについて(委細を他に譲りつつも)取り上げた象徴物)の類でそのような行為 ―魂(と呼ばれるような内面の実質)に対する何らかの処置が施されていること― が象徴されていると受け取れるようになっている」

とのことである(:そも、魂につき云々しているとのレベルで神秘家的なる側面に辟易している向きもいるかもしれないが、であれば、次のようにとらえてもらってもよい⇒古今東西の象徴体系には今日のフリーメーソンの象徴体系に通じる共通要素が存在し ―たとえば、月と太陽と一つ目の象徴物(に転用されたフリギア帽)を同時に用いている(上にて既述)といった共通要素が存在し― 、といったことが、人間の内面に関する変容・変革、すなわち、魂と呼ばれもしようものに関する領域にあっての宗教・信仰の介在を([蛇の杖]などの象徴物を介しながら)示唆している象徴体系となっているとのことがある)。

当記事にあっての前頁にあって述べたことの再述として

 上は19世紀後半ドイツ絵画、
Die Seelen des Acheron(:[アケロン川 ―ギリシャ神話における冥府の境界線上の川たる― に集う魂達]とでも訳すべきだろう画題の絵画)
を引き合いに出しての(当記事前頁にあって取り上げた)関係図の再掲となる。 
 図にて持ち出した絵画画題にドイツ語複数形で付された付されたSeeleゼーレというのはカルト的な日本のアニメにあってフリーメーソンのような不気味な秘密結社の名へと転用されている名詞だが、その原意たる[魂]との言葉が重要となる。そのように前頁の内容を繰り返した上で次のことにつき再言及しておきたい。

「魂との言葉を画題に冠するドイツ絵画にて中心に据えられているヘルメス(あるいはマーキュリー)が手に持っている蛇の杖 ―カドゥケウスないしケリュケイオンとして知られるもの― の象徴物が人間の歴史にあって長い間、
鳥類(鳩)に仮託されての魂の寓意的象徴物
と結びつけられてきたとの事情があることが問題となる」(尚、前頁でも述べたことだが、[蛇の杖]が[人間の魂の象徴物]と歴年、結び付けられてきたことについては当サイト上の[問題意識の所在]と題しての他カテゴリにあっての一連の論稿の中途の部にて具体例を挙げつつもの詳述をなしている)。

 それにつき、[魂の寓意的象徴物]と結びつく[蛇の杖]というものが[ゼウスの雷霆][スサノオに斃された八岐大蛇より出てきた草薙の剣]らを結びつける留め金となることは前頁でもページの切り替え部に至るまでに密に論じてきたことだが、同じくもの蛇の杖がミトラ教のここにて問題としている石彫遺物 ―月と太陽とフリギア帽(転じてフリーメーソンの亜空間から覗く一つ目の領域の象徴物)をワンセットにしている石彫遺物― の中でも意味深に彫りこまれている、とのことも着目に値することである(同点については通俗的な説明ではこういったことが述べられている;「ミトラ教のミトラも蛇の杖をもったローマのマーキュリー神(メリクリウス)も双方共に魂の導き手(Psychopompos)との役割を共有しているからミトラ教の相応のレリーフに蛇の杖が彫りこまれているのであろう」。そのような常識的な見立ての背面に[三種の神器]との兼ね合いでいかに性質の悪い寓意が込められているか、論じているというのが当記事の主題であると強調するところながらもの「とにかくも、」のこととして、である)。

 前頁に遡るところとして密になしてきた解説がここに至るまでの流れと接続していることにつきご理解いただければ、
[多くの宗教が三種の神器と接合する象徴体系を有していること]、それも、[魂に対する処置の比喩として用いていること]
を把握いただけることか、と思う(といった把握の前提条件としての理解をなすためには印刷をされるなどして複雑な当記事内容を最初から細かくも検討していく必要があるだろうとも述べておきたい)。

 以上、述べたうえで
[アレゴリー(寓意性)分析のための図解]
を直下なすこととし、その図解をもってして、多くの宗教体系が[前頁に遡るところから密に問題視してきた三種の神器と接合する象徴体系]を有しているとのこと、さらに訴求することとしたい。

 非常に雑然とした印象を覚えさせる図になってしまったが、上掲図に見ることが出来るABCについては

「それらアルファベットを振った箇所の間に対応関係がある(Aを振った箇所は共通の属性を有している、といった形での対応関係がある)ことを指し示している」

 そのように示したきことにつき断ったうえで上で図の解説をなす。

 上の段からだが、先にその図を抜粋したミトラ教のレリーフの再掲であるのは言うまでもないことか、と思う。

 中段については当記事前頁に挙げた[三種の神器](すなわち、[草薙の剣](クサナギノケン)]、[八咫鏡(ヤタノカガミ)]、[八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)])の模式図、及び、[蛇の杖]を意図をもって並べたものである。

 下段についてであるが、インドはヒンドゥー教の[ヴィシュヌ神を崇める教派の世界誕生神話]を図示化したもので
「ヴィシュヌ神が多頭の蛇アナンタを枕に横臥している最中、ヴィシュヌのヘソから蓮が生え、そこから宇宙神ブラフマンが生まれてきた」
などとされる様を描いたものである。

 さて、以上、簡潔な解説をなした上中下段の図らには先に前言したように相関関係がある。
 ABCと振っての次に挙げる要素を「全て、その中に取り込んでいる」、しかも、[相互に関係するような形で取り込んでいる]という意味での相関関係がある、と強調したいのである。

A.[異界の領域の比喩となっている要素]

B.[上のAに言うところの異界から伸びた[蛇のケーブル]、人間の本質、魂とも言うべき本質を縛る[蛇のケーブル]という要素]

C.[人間の魂という要素](この"魂"という言葉、私が嫌いな人種、宗教家が好みそうなフレーズとなってはいる。が、それを踏まえた上で、なお、そのフレーズを頻用せざるをえない事情がある。すなわち、「量子力学的本質と呼びたいところだが、分かりやすくすべく魂と呼んでいる」という事情がある)

 上のABCの各要素が上中下段に挙げた各図と具体的にどう関係しているというのか。次のような形で関係している。 

[上段のミトラ教のレリーフとA、B、Cの要素がどう関係しているかについて]

 Aは異界の領域の比喩となっている要素だとしたが、表層的には
「ミトラ教レリーフのAと付して青い円で囲った領域もまた、神の住む異界を表したものだ」
と言える。何故か。レリーフ上部に配された存在(先に太陽神を彫ったものだと解説した)が宗教的な意味での神の象徴だとは直覚的にも感じられもし、その文脈でも神と表される存在の住まう領域の話もできなくもないからである。
 であるが、もっと根深いレベルの根拠がある話として、そうも述べている。
 ここで先に挙げた
[フリーメーソンシンボル画とミトラ教のレリーフの相関関係]
が大きな意味を持ってくる

 本頁冒頭四図にて挙げたフリーメーソンシンボル画とミトラ教レリーフの対応関係成立箇所をご覧いただきたい。
[ミトラ教レリーフのアルファベットのAを振った箇所に対応するフリーメーソンシンボル画の箇所]
に[亜空間から覗く目]が描かれていることがよく分かるはずだ(フリーメーソンのシンボル画にはより露骨に目が亜空間から覗いているさまを描いているものもあるのだが、ここではそれを挙げずに図示したものの程度で[亜空間から覗く目]と明言している)。
 ために、亜空間から覗いてくる存在の領域がミトラ教レリーフのAを振った箇所だと述べているわけである。

 次いで、Bについてである。Bは人間の本質、魂とも言うべき本質を縛る[蛇のケーブル]を指すものとして前頁にて解説してきたことと関わる部だが、ミトラ教レリーフに見る蛇の杖はまさしくそれに該当する。蛇の杖が魂の象徴物と関わることについては前頁からして(当サイト上の他所に委細を譲りつつも)問題視してきたわけだが、については
「ミトラ教の上掲レリーフは供物としての牛あるいは人間の魂の処置をなしている場を描いたものと解釈できる」
と先に述べたこと「をも」振り返っていただきたいと考えている。
 そのような解釈が出来る、あるいは、なされている理由にも関わるところとして、―[去勢するがごとくの内面の処置]の話は置いておいても― ミトラ教レリーフの中に描かれている蛇の杖が既述のヘルメスあるいはマーキュリーの杖と同形をとり、それゆえ、神話におけるヘルメスあるいはマーキュリーの冥界への魂の導き手の側面と結びついた魂の行き先決定(すなわち処置)の比喩が(レリーフに)込められていると"される"ことに求めることが出来ることからして相応の理由ありと考えられる、とするのである(蛇の杖は全く別の文脈で[魂の象徴たる鳥たち]と歴史上、隠喩的・明示的に結び付けられてきたものでもある)。とにかくもレリーフでアルファベットのBを振った箇所に魂とつながる蛇のケーブルの寓意を見出すことができることが重きをなしてくる。

 Cについてだが、それが[人間の魂を指す要素]だと再確認したうえで、である。ミトラ教レリーフで喉をミトラに切られ、睾丸をサソリに挟まれる牛は魂を処置される存在としてまさしくCに絡むものだ、と強調しておきたい(それにつき「よく分らないな」と思われた方は[蛇の杖]に関する直近言及の解説部、及び、[女神キュベレの息子のアッティス]に関する先の解説部の内容をもう一度、読みなおしてほしい)。ここで、「よし、去勢牛のことは分かった。だが、牛以外にもレリーフにCと振っている箇所があるじゃないか。それは何だ」という方もおられるかもしれない。そういった疑問への返答は次のようなものだ。「レリーフでBの蛇の杖が向けられた先にCと付したのはその場が牛の血を吸った祭壇(蛇の巻きついた祭壇)を現したものであるとされているからである」。
 これにてミトラ教のレリーフとABCの対応関係について(委細を他に譲りながらも)多くのことを論じ終えた。

[中段の三種の神器(及びヘルメスの杖)とA、B、Cの要素がどう関係しているかについて]

 ABCと三種の神器の対応関係については本記事冒頭から触れ始めた
[ギリシャ三主要神と三種の神器の関係論]
の中ですでに多くの指し示しをなしている(前頁の内容は専らそれ絡みのものとなっている)。

 とした上で、その結論部、[ギリシャ三主要神と三種の神器の関係論]の結論を再度、述べておこう。

三種の神器のうち、[八咫鏡](ヤタノカガミ)は人間の世界を操作する存在が住まう異界の象徴であると複合的・多重的に解せられるようになっている(すなわち、ヤタノカガミ自体がAと同義のものである。この話は[ハデスの隠れ兜]との絡みでなした)。[草薙の剣]はその異界と人間の魂とも言うべき本質をつなぐ蛇のケーブルであると複合的・多重的に解せられるようになっている(ヤマタノオロチの尾より生じた草薙の剣自体がBと同義のものとなっている。この話はスサノオよろしく蛇の怪物と戦ったゼウスの[ゼウスの雷]との絡みでなした)。[八尺瓊勾玉](ヤサカニノマガタマ)は蛇のケーブルを通されてしまうような穴が開いてしまっている人間の魂の象徴物であると複合的・多重的に解せられるようになっている(すなわち、ヤサカニノマガタマ自体がCと同義のものである。この話は[ポセイドンの三つ叉の矛]との絡みでなした

 何故、上のような頓狂なこと ―何も知らぬ人間が見れば神秘家由来の戯言にしか見えぬこと― が指し示せるのかは前頁の内容を振り返って、なおかつ、そこから当ページのここに至るまでの内容を参照した上でよくよくも検証いただきたいとして、ここでの話に区切りをつける。 

[下段のヴィシュヌ神崇拝主義者の世界誕生神話図示化作品とA、B、Cの要素がどう関係しているかについて]

A(異界の領域)と図の対応関係については
「ヴィシュヌ神がインドにおける最高神である、しかも図にあっては神を産み、世界を造ったとされる存在であることが意味をなす」
とだけ述べれば十分だろう(ヴィシュヌで象徴されるのは神と表される存在の領域、異界の領域であると言える。それについてはヴィシュヌ神がミトラ教のレリーフのAに対応する箇所に描かれる[太陽神]と同様の側面を持っていたとされることも注意しておくべきこととしてある)。

Bと下段図の対応関係については同Bを付したヴィシュヌ神が横臥する多頭の竜王アナンタが[ヤマタノオロチと同様の形態をとる存在]であることがまずもって大きなこととしてある(多頭の蛇から蛇のケーブルが生じているという観点上。実のことを言ってしまうと、アナンタがそうであるインドのナーガ・ラジャ ―蛇人の王の意― は日本の九頭龍信仰、ひいては、ヤマタノオロチと「視覚的類似性だけではなく、中身でも」接合していることがあるのだが)。
 また、インドの主要な神が背中に"多頭の蛇"を配した構図で図像化されることが多いことも無視してはならないこととしてある(本件との絡みで重要なこととして三つ叉の矛 ―プサイことΨ形状より魂の比喩になっているとした― を手にした姿で描かれることも多いシヴァ神も八岐大蛇よろしくの多頭の蛇を後ろに配した姿でよく彫像化される。私がインドをほっつき歩いてた時分、現地の古物取扱い店で手に取ってみたシヴァ神の構図にもそれが強くも現れていた)。
 ゆえに、上掲の中段の画に見るところのアナンタは蛇のケーブル(Bの要素)の体現物であると言って差し障りないものと筆者は見ている ―この話については[[蛇の杖]と[王権象徴物]と[草薙の剣]のはきと指し示せる関係性]との兼ね合いでまだ述べるべきととらえることがある(のでそれにつき扱った当記事の続く段を検討されたい)― 。

 次いで、Cと図の対応関係についてである。ヴィシュヌ崇拝主義者達の教義と接合する上掲図ではヴィシュヌのヘソから宇宙神ブラフマンが生じた有り様が描かれているが、そこにいう多頭の宇宙神ブラフマンにCこと魂に絡む要素の記号を振ったのにはそれなりの裏付けがある。古来、インドには梵我一如(ボンガイチニョ)という思想、「梵こと宇宙原理たる"ブラフマン"と我ことアートマン、すなわち、魂の融合が満ち足りた境地への道である」との教えがあったことがその裏付けである(梵我一如の梵がブラフマンであることがポイントだ。とした上で言っておくが、宗教など生まれてからこの方、一度たりとも信じたことがない私は梵我一如もまた人間に押しつけられた戯言だと見ている。「教えを介在して宇宙と一体になる」といった考え、宗教を介在させて個我を超えて真我に至るといった考えは現代カルトに至るまで東洋系の宗教が用いてきた信者を騙す詐欺論法、心魂が抜け落ちたような操り人形を造りだすための論法だっととらえるからだ ―宗教に見る愚かで浅ましくもなった盲目の会衆を支配している偏狭な神(に仮託される存在が用意した「特別な」領域)など介さずとも実のところ、我々は[根源的に一なる領域に由来する存在]ではないだろうかというのが私の見立てだが、といった見立てについては私の自著にて紹介している― )。
 さて、とくれば、ブラフマン、魂が結びつくことが理想だ、などとされたその存在(ヴィシュヌのヘソから出てきた存在。人間存在の根源の比喩かもしれない)はCの要素の体現物ととることが出来る。

 長くなってしまってが、以上の解説をきちんと読まれれば、私が"何故"、上のような形態で意図してのアレゴリー(寓意性)分析の図解部などを設けたのか、よく分かっていただけるかと思う。そう、結論だけ言ってしまえば、次のようなことが述べたいがため、である。

「ミトラ教もヒンドゥー教(そして、その母体になったバラモン教とその影響を部分的に受けている仏教)も日本の三種の神器と接合する象徴体系を[魂に対する処置の比喩]として用いている、との要素がある」

 そして、以上のような話はキリスト教にも当てはまってしまう、と強調したい次第でもある。

 次に挙げるような各点ゆえに、である。

・キリスト教にはその根本教理として[トリニティ]こと[三位一体]思想というものがある(フリーメーソン映画だとよく言われる『マトリックス』シリーズ、"電車男"ことトレイン・マンなどといったキャラクターも出てくる『マトリックス』シリーズのヒロインの名が"不自然に"トリニティになっているのは「その式で偶然ではない」と私などは考えているる)。そのトリニティこと三位一体思想、[父](神)と[子](イエス・キリスト)と[聖霊]の一体を説く至高存在の属性を論じるとの教義 ―ローマ期西暦325年に召集されたニカイア公会議以来、キリスト教の異端を斥けての正統派思想と定置され続けてきた教義と高等学校の無味乾燥なる授業でも教えられる教義― だが、同教義、その実、「至高存在の属性を論じた教義ではなく、人間世界の操作メカニズムを示唆した教義ととるとしっくりくる形のものとなっている」。
 三位一体思想における[父こと神]は先に解説をなしたところのA、すなわち、神として振舞いもするような存在が住まう異界の比喩と結びつく存在であり、[聖霊]はB、すなわち、[蛇のケーブル]であるととれるようになっている(時に[ヘルメスの杖]などで体現される、だ)。
 に関し、『そもそも聖霊って何だよ?』と思われている方が大半だろうから、解説するが、キリスト教教義体系にあっての[聖霊](ホーリー・ゴースト)とはおよそ次のようなものだ。
「神とのつながりをきたす霊的存在(神の性質の発露などとも)。そういった特性ゆえに、神の祝福を得たものには[聖霊]が注がれ、奇跡をおこなうなどと言われる」。
 上もて聖霊とはまさしくもの蛇のケーブルのようなものたりうることがお分かりいただけたのではないか、と思う(聖霊]は[憑かれたが如くの狂信者を造る狂気の根本]ともいえるまた、その聖霊の象徴と一般にされるハトについては聖霊ではなく、それが実は人間の魂の象徴であると解釈できるとも本Webサイト上の[問題意識の所在]にて解説しているが、それはここでは深くは論じない)。
 三位一体思想における[子ことイエス・キリスト]は先に解説したところのC、[人間の本質、蛇のケーブルにからみとられてしまった魂とも言うべきもの]であるととれもする。魂を抜かれるがごとくの形で内面の去勢をされて
「右の頬をたたかれたらば、左の頬も差し出しなさい」
などといった馬鹿げたマゾヒズム論理を展開するに至って時に殺されてしまう人間存在の悲劇の寓意がイエス・キリストであると私はとらえている ―[子:キリスト]の方が[蛇のケーブル]の象徴で[聖霊]がその[蛇のケーブル]に絡みとられるその実の[魂]の象徴であるとの解釈もできるというのが(頓狂な話と受け取られかねない話にあっての中ながらもの)筆者のもう一つの見立てでもあるのであるも、それについては「ここでは」深くは論じない(:読み手が学問的なるものに親和性高い人間ならば、[電気の概念の発見者と認知されている17世紀英国のウィルアム・ギルバート]に由来する書物の扉絵をなどにつき William Gilbertとの入力で検索・確認されてみるのもよかろう。そこには(この世界では同様の構図が種々様々なところに用いられているのだが)下にて似姿を挙げているような[十字架の本来の古き形態たるT形十字にかけられた蛇の似姿が見て取れるはずである。「一方の頬を叩かれたらば反対の頬をだせ」なぞとのマゾヒズム思想の唱道者イエス・キストをして同イエスとの類似形をなす異教神アッティスのような被去勢位格ではなく蛇のケーブルかもしれないと見るのにはそういう事情もある)― 。
 何?「馬鹿げている」だと?そうとられても一向に構わないが(私は宗教の徒輩と異なり、持説の押し付けはしない)、読者は知っておくべきだ。
「イエスとはミトラであり、去勢されたミトラそっくりの格好をした神、アッティス(本記事でもほんの少し言及済み)に置き換えることができる存在である」
ということを、である。人間の神話・伝承体系ではイエス・キリスト、ミトラ、アッティスの三者が完全に結びつくように"調整"されているのである(:については本Webサイトの複数の箇所で細かい解説をなしている。ここでは[問題意識の所在]と題した本Webサイト上のカテゴリ内記述内容、または、[クリスマスと『黙示録』。その不気味極まりない相関関係について] ―文字色改変部をクリックすることで記事に移動― という他記事の該当表記部を参照されるとよいだろう:[ミトラとイエスの相関性]については根拠なきあやまてる論理を展開する欧米人が多々おりはするが、私が論拠に用いたのは敢えてのところとしての主流派系の"学説"であるとも断わっておく)。
 あとはイエス・キリストと結びつく[ミトラ]も[アッティス]も[去勢](それは[内面の去勢]と言い換え可能なものである)と結びつく存在であることを押さえれば、それでよい。

 17世紀初頭に刊行された De Magnete(1600年)の表紙。
 同 De Magnete、正式名称は De Magnete,Magneticisque Corporibus,et de Magno Magnete Tellure『磁石および磁性体、巨大磁石としての地球の機序』となる書物は[電気・磁気概念の父]と称されるエリザベス朝時代の英国の原初的物理学者(あるいは自然哲学者)のウィルアム・ギルバート、elektron[琥珀]作用から[電気:イレクトリシティ]の元となる言葉を編み出したとされることでも知られる学究ウィルアム・ギルバートの主著となるわけだが、その書物表紙からして
[十字架にかけられし蛇](にして[蛇の杖]と接合性強き構図)
が描かれていることに ―[蛇のケーブルの寓意]との絡みで― 意を見出さんというのが当記事である(:far-fetched「こじつけがましい」と人によっては見られるかもれいないことを覚悟のうえで、である)。
 その点、往時の出版慣行 ―([蛇の杖]のようなものをよくも原初的印刷物に付していたとの出版慣行)― からさして奇異たることではないと欧州の16世紀、17世紀印刷動態に詳しき向きなどは受け取られるかもしれないが、しかし、そこを敢えても次のようなことに着目すべきであると筆者はとらえている。

・[蛇の杖][雷神ゼウスの雷霆][草薙の剣]らの関係性などを引き合いにしつつ、
[[電気的なるもの]と[蛇の寓意]の尋常一様ならざる関係性
が人間の歴史、そのさまざまなところに古今を問わず現出しているとのこと、当記事では前頁に遡る段から詳述している。同じくものこととの絡みでギルバートの
[電気概念を人類史に積極的に導入しだした書物]
に ―仮に往時の出版物供給サイドにそういう慣行があったとしても― [蛇の杖]が用いられていることに「も」恣意性が介在しているように受け取れる。

・キリスト教のトリニティこと三位一体の教理、[十字架にかけられし子イエス]、[父なる神]、[キリスト者の内発的作用に関わるところの聖霊]にまつわる根本教理に[蛇のケーブルの暗喩]もが用いられている可能性 ―当記事で専一に論じてきたし紙幅少なくなっている残りの段でもさらに論じるとのこと― につき顧慮した際に[十字架にかけられた蛇]のようなものが[相応のところ]に用いられていることは重くも意をなしてくる(これが大きい)。

 現代的感性に通じるもので書かれている上掲図上段の宗教画はロシア人画家ヴィクトル・ヴァスネツォフ( Viktor Vasnetsov )が20世紀初頭(1907)にものしたキリスト教の中心教理三位一体概念の体現図となる([神たる父]、[子たるイエス]、[鳩でしばしば体現される聖霊]の三位一体が描かれているとの図となる(:尚、[鳩で体現される聖霊]の部に ―[魂]が[火]で体現されるとの古代ギリシャ哲人に由来する見立てをキリスト教が習合したがゆえにか― 代わって[火で体現される聖霊]が描かれることもある))。
 対して、上掲下段の図は13世紀欧州にあっての画家たるコッポ・マルコヴァルド( Coppo Marcovaldo )が描き手となっているとの中世期宗教画で悪魔が[蛇のケーブル]で人間の魂をとらえているといった様子が描かれているとのものである。
 両者は無論、[真逆のもの]を描いているものであると世間では解されるようなものらだが([神の国への道しるべ]と[悪魔の世界の状況]との真逆のものを描いたものと解されるものらが)、実のところとしてその両者、[神に選ばれての安息の国につながる三位一体の構図]も[悪魔に蛇のケーブルで繋がれている構図]も[同一のものの別相]を描き出しているにすぎぬと判断できるとのことを述べんとしているのが ―(宗教・神秘主義など取り合うに足りぬものであるととらえている人間としてながら記している)― 当記事である。
 その点、インドのヒンズー教に[三神一体]という観念があることが上掲のような[真逆のもの]らが接近することを示すひとつの材料になる。
 インドの三神一体概念、三つの最高神格の結合を説くとのもので[創造]を体現するブラフマン ―(インドの往古よりの宗教的観念、[梵我一如]、魂と宇宙の一体化を説く同観念では[魂](アートマンこと我)に対応する宇宙原理をさす言葉が[ブラフマン](梵)ことインドの多頭の創造ともなっている)― との神、[繁栄]を体現するヴィシュヌとの神、そして、[破壊]を体現するシヴァの一体を説くとの教理だが、縁起由来が紀元前のウパニシャット哲学に遡るとも言われる同三神一体概念、キリスト教が重んずる三位一体概念と対応付けられて取り上げられもするものとなる(ひとつに両者が宗教の最高位の崇拝対象たる三者を結合させて論じようとの概念であるからであろう)。
 としつつ問題としたきは[去勢の寓意]とも関わるような異教神、[ミトラ]および[アッティス] ―先述― との由来上の類似性を指摘されもする[死んでから再生した存在]である[イエス・キリスト]を重要要素とする三位一体概念との親和性が感じられもしようとのインドのその三神一体概念が
[多頭の蛇の象徴]
[三叉の矛](時に背後に[多頭の蛇]を後ろに配するシヴァが手に持つ三叉戟(トリシューラ)のような[三つ叉の矛]が[魂ことプサイの寓意]と結びつくものであることは前頁で取り上げている)
と「露骨に結び付けられて」象徴化されるとのものとなっており、そこに[蛇のケーブル]の寓意を見出すのが易いとのことがあることである(:疑わしきは[三神一体][Trimurti]などと検索されてどういう象徴画が表示されてくるか確認されてみるとよい。私は根拠を伴わぬ話はしない。尚、三神一体概念は[オウム]との言葉で体現されるものともなり、日本で多くの人間の尊厳を踏みにじった犬と屑よりなるカルト、オウム真理教にその[オウム]との名が利用されることになっている)。
 さて、[蛇のケーブル]とのことで言えば、筆者はすでに
[イエスとの類似性が指摘されているミトラ]
のような神格が手に持つ[蛇の杖]が[魂の寓意]と歴年、結び付けられてきたとのこと、―委細を当サイト上の他所に譲りながらも― 言及している。
 理解する気がありながらも理解に及ばぬところがあるとのことでれば、ここに至るまでの当記事の内容を読みと直していただきたいとも思うのだが、そこから問題となるところは「より明確化している」と述べられもするわけである(:尚、[三神一体]の構成図で描かれる[多頭の蛇]のようなものが[多頭の蛇たる八岐大蛇から出てきた草薙の剣]を介して[欧州にて歴年象徴化されてきたところの蛇の杖]と結びつくとのその理由についての解説は「さらに」当記事の続く段でもなす)。

・上にてキリスト教の三位一体思想にABCの対応関係を見出せるとしたが(それについてはキリスト教の三位一体思想ことトリニティに対応するように存在しているインドの[三神一体思想ことトリムルティ]の図がどういったものかを見てみるのもよかろう)、その三位一体思想から離れた上でもだ。[キリスト降誕]が ―常識的に考えれば― 1000年以上の時を挟んだ象徴物間で[ミトラの蛇の杖]や[『黙示録』の赤い竜]に隠喩的に対応させられているといった馬鹿げたことが厳として存在している、とのことさえこの世界にはある(それについては本Webサイト上の[クリスマスと『黙示録』。その不気味極まりない相関関係]との題の他記事や[問題意識の所在]と題した他カテゴリで詳説をなしているので解説はそちらに譲る:純粋にここで解説をなすと際限なく脇にそれてしまうからである)。「キリスト降誕からしてミトラの蛇の杖と隠喩的に結びつけられているのなら」、あるいは、「獣の刻印を押された者達の同盟者としての『黙示録』の赤い竜(サタン)と隠喩的に結びつけらているのなら」、である。「キリストとは蛇のケーブル(上にいうところのB)に絡みとられている者であり、そのマゾ論理を唱えて殺されたとの"設定"になっている男を神格化するキリスト教が悪魔的なる蛇のケーブルを差し込もうとする異界の存在(上にいうところのA絡みの存在)によって人の内面的本質(魂。上にいうところのC)を拘束するためにもたらされた装置である」という結論を導き出すのはたやすい。

 上記二点目は明示しての参照先 ―[キリスト降誕祭たるクリスマス]と[黙示録]の間に成立している不快なる関係性につき指し示しをなしているとの当サイト上の他記事― を読んでいただかねば、しっくりこないものとなってしまっているが、とにくもである。「キリスト教もまた、三種の神器と接合する象徴体系を[魂に対する処置の比喩]として用いているものである」と見て取れるだけの要素が多々存在している。
 結局のところ、多くの宗教はその式で似た者同士、人間の内面の本質を操る為に用意された体系と言えるようになってもいる(現代カルト宗教にまでその色彩は受け継がれているとした。「宇宙と一体になる」「教祖の魂と一体になる」([人間]の内面に[革命]をきたす状況だと悪しき者達は説明する、と聞いた)といった詐欺論法が援用されつつである。私が調べたところ、サイエントロジー、似非科学を批判する組織ながらも、その実、それ自体が[フリーメーソン人脈由来の荒唐無稽理論・似非科学体系流布組織]である同サイエントロジーにもそういう側面があるのだから何をかいわんや、の話としてである)。

 さて、多くの宗教に[三種の神器で語れる操作の隠喩]を見ることが出来るとの話はここまでとしておき、次いで、「皇室の権威象徴物たる三種の神器と欧州王権の権威象徴物には関係がある」ことに触れる。下の図をご覧いただきたい。

 上は西洋の王権象徴物、リゲイリア(Regalia)の代表的構成要素、[宝珠]、[王冠]、[王笏]と日本の皇室の三種の神器との対応関係を示すべく挙げたものである。

 まず、[王笏]についてだが、図を見てもらえれば分かるように[再掲した草薙の剣の模式図]に対応づけさせている。[蛇のケーブル]という側面を王笏と草薙の剣が共有していると強調したいがためにそうしているのである。につき、何故、王笏が蛇のケーブルとしての側面を有しているかだが、王笏の由来が根拠となる。具体的には、今日の西洋の王笏は[ギリシャ神話のゼウス神](本記事前半部で草薙の剣と蛇のケーブルつながりで関係があると述べた存在)に一面で起源を持つものであるとされていること、同じくギリシャ神話由来の式でその古典時代に遡る由来が
[ケリュケスと呼ばれる伝令官が用いていたもの]
であったとされることが極めて大きなこととしてある。その点、伝令官の名称、ケリュケスとは上掲のヘルメスの杖カドゥケウスの別名、ケリュケイオン、すなわち、当記事で[蛇のケーブル]としての特性について言及してきたものの別称とも結びつく言葉であると言えば、充分であろう([ケリュケイオン]はヘルメスの神の伝令使としての役割から付された名称のようにもとれるが、王笏の原初的形態を用いていた伝令官とヘルメス神が結びついていることがポイントとなる)。

 当記事で述べていることが ―不快ながらも― きちんとした論拠に依拠してのものであることをさらに訴求するための図解部を設けておく(:[相応の神秘主義者仕様の話柄](日本のオンライン上に水準の低い相応の屑ら、自身の言論に微塵も責任感なぞ持っていないとの屑らを用いて散布されているといった話柄)とは ―そう見えても― 一線を画するものであることをさらに訴求するための図解部を設けておく)。

 さて、上掲図最上段は双方ともに著名な19世紀画家の手になるものである。より具体的には往時画壇にあっての一大潮流だった新古典主義の大家としてつとに知られるドミニク・アングル( Jean Augste Dominique Ingres )の手になる画らとなり、うち、左側はゼウスを描いた作品、右側はドミニク・アングルが画家活躍の時代のフランス支配者ナポレオン・ボナパルトを描いた作品となっている。

 ここでまずもって述べたいが、ゼウスとナポレオンの画に認められる構図は酷似している(図を見れば、明らかであろう)。しかし、そのこと自体は「同じくもの画家による作なのであるから」問題視すべきことではない。
 問題なのは[ゼウス]と[ナポレオン]の手にしている統治者の象徴物、レガリアとしての[王笏](英語で言うところのセプター:septre)が当記事で述べていることと完全に接合する形で対応していることを ―上の画(ドミニク・アングルの画)らを引き合いにしつつ― 述べられることである。
 それにつき、前頁に遡るところの当記事にあっての先の段にあって

[[ゼウスの雷霆(らいてい)]は[蛇の杖]らとギリシャ神話のエピソード ―[アスクレピオスの杖]と[ゼウスに雷霆を提供した雷絡みの名を冠する一つ目巨人ら]のエピソード― を介して接合している]

とのことを述べている。
 そのような神話上の結びつきとは「別の側面でも」[ゼウス](全世界で蛇と対峙あるいは接合してきたことが伝わると先述の雷神の一類型)と[蛇の杖]が[権威の象徴物]を介して結びつくことを上の画らは一面で示すものである。
 ドミニク・アングルが描いた帝政下フランス ―[フリギア帽]をシンボルに成立したフランス革命は絶対王政の打倒を掲げてのものであったわけだが、革命政権フランスはその後すぐさまにヨーロッパ全土に戦乱をもたらした帝政国家に移行していく(たかだか高等学校の世界史の授業程度のものでも学ぶことである)― の皇帝ナポレオン、オリンポスの主催者たるゼウスよろしくの姿を画中の似たような構図でとるその男が手に持っているのはヨーロッパが伝統として王権の象徴物としてきたレガリア、その中に含まれる王笏(セプター)であるわけが(論が分かたれるところではなくそうもなっているわけであるが)、その王笏(セプター)には[蛇の杖]とも[ゼウスの笏]ともつながるとの由来があるとされる。そのことを類似性を呈するアングルの画らで訴求できもしようと考えたのである。

 取っ掛かりとなるところとして以下、和文ウィキペディアの[王笏]項目の記述を引く(ウィキペディアとのことで媒体易変性よりこれより内容が変わるかもしれないも[王笏]項目から問題となる記述部を引く)。

[(王笏とつながる杖は古くより権威の象徴であったとの文脈にて)ゼウスやハーデースが持つ王笏には鳥の装飾が先端に付いている。オリュンポスの父であるゼウスの象徴として、ケリュケス(kerykes)すなわち伝令官が現代の外交官特権にも似た不可侵性を持つことを表すのにもそれが使われた]

 以上の和文ウィキペディアの記述に見るケリュケス、ゼウスの権威を受けての伝令官というのは[蛇の杖]と深く深く結びつく存在でもある。というのも古代ローマにおいてヘルメス転じてのマーキュリーの象徴物たる[蛇の杖]がカドゥケウス転じてケリュケイオン(kerykeion)と呼ばれたのはヘルメス・マーキュリーという神の職掌が[伝令官]そのもの(神々の間、人と神の間をつなぐメッセンジャー)であったからである。

 以上述べたこと、王権の象徴物たる杖が[ゼウスの権威に由来する杖][伝令官の杖](蛇の杖として指示されるKerikeion)と由来上、結びついているとのことを傍証することとして英文Wikipedia[Caduceus]項目に以下のような記載がなされていることも問題視したい。

The term kerukeion denoted any herald's staff,not necessarily associated with Hermes in particular.(拙訳として「(蛇の杖の別称である)ケリュケイオンとの言葉は王権の象徴の杖を指しもするが、そのことが必ずしも(蛇の杖カドゥケウスを持つ)ヘルメス神と特段に結びつくというわけではない」)

 上に引いてのとおり、英文ウィキペディアの記載内容(これより内容の変転を見る可能性もあるにはある)にあっては
「王権の象徴物たる杖が[伝令使の杖ケリュケイオン(蛇の杖)]と結びつく」
と記載されているわけである(:といった記載内容に続くこととして表記のウィキペディア記事にあっては「王権が蛇の杖を持つヘルメスと必ずしも結びつくわけでない」ともされているわけだが、それは裏を返せば、「王権象徴物は伝令の神たるヘルメスと結びつくとの物言いもまたなせる」とのことでもあろう)。

 アングル画に認められる[[雷神ゼウスが笏を持つ姿]と[ナポレオンが王笏が手に持つ姿]の構図的類似性]にはそれなりの背景があること、上もてお分かりいただけたことか、と思う。

 ここまで来たところで上掲図中段にて挙げた紋章についてであるが、同紋章(コート・オブ・アームズ)、皇帝ナポレオン治下の帝政フランスにあってのパリ市市章である。
 そのパリ市市章にもまた[巻きつく蛇らの蛇の杖](上掲下段にて典型的なる似姿を再掲したところのケリュケイオン・カドゥケウス)が権威を示す象徴物として描きこまれている。それをもって権威の象徴物たるレガリアが蛇の杖と結びつくこと、より一層、ご理解いただけたことか、と思う(:何故、王権を打倒し、市民のための平等国家を実現するとの名目で推し進められたフランス革命を経てのその後のパリ市の市章があいもかわらず[古き王権の権威の象徴(レガリア)としての王笏]と親和性高き[蛇の杖]への固執を示しているのか。それについて考えられるところは当記事の前段にて革命の立役者らに付された色彩 ―蛇の杖を手に持つ往古のミトラ信仰と接合するフリギア帽を掲げての「革命」の立役者ら(おそらくは命令されれば何でもするような人形ら)に付された色彩― との兼ね合いで多くのことを論じたつもりである)。

 以上の内容を踏まえて下の図をご覧いただきたい。

 左は西洋の王権象徴物(レガリア)たる王笏と結びつくことを直近述べた蛇の杖[ケリュケイオン]である。
 右は日本版のレガリア(王権象徴物)である三種の神器のうちの草薙の剣の想定される似姿を指し示したものである。

 さて、前頁に遡るところの当記事の先の段より八岐大蛇 ―多頭の蛇― の尾から出てきたとの草薙の剣(上掲右)が[蛇のケーブル]たりうることは手を替え品を替え論じてきた。たとえば、[蛇の化け物(テューポーン)を斃した雷神ゼウスの雷霆]が[蛇の杖]と結びついているとの神話上の縁起に触れ、また、[蛇の化け物(八岐大蛇)を斃したスサノオ]が雷神の眷属と近しい暴風雨神であると定置されることにも触れた(その過程でスサノオの息子として日本神話体系が定置している[大国主]転じての[大物主]が ―和文ウィキペディア[大物主]項目にすら「現況」記載されているようなところとして― 雷神かつ蛇神であると看做されていることにも言及した)。 また、[雷神]と[蛇の杖]の異常なる関係が古今東西の歴史的事物らに横たわるこれまた異常なるパラレリズム(旧約聖書内記述と日本の記紀神話にあっての記述の間に横たわる一致性)の分析で浮き上がってくるとのことにも触れた。[蛇の杖]が西洋にあって歴史的に[魂の象徴物]と結び付けられてきた、とのことを前提に置いてそういうことを論じてきた。
 以上振り返ってのことと、
「[ゼウスの杖]とも縁起由来でつながるところがあるとされる[西洋王権の象徴物たる王笏](ゼプター)が[蛇の杖]と結びつき、同じくもの王権象徴物(レガリア)たる日本の[草薙の剣]が八岐大蛇から生じたものである」
とのことは対応していると述べられるとするわけである。

 では何故、そうもしたことが述べらてしまうようになっているのか。
 それにつき
「操作の寓意が相応の力学を受けてそこに込められているからだろう」
とのことを論じているのが当記事である。

(※一時期デービッド・アイクのような「超」陰謀論者にカテゴライズされるような人間 ―ニューエイジャー・チックと受け取れる話柄ながらも多くの証言者の名を出しつつも人類史の虚偽性を指し示さんとしたとのことで海外にて物議を醸している人物(当サイト上でも記事を設けてその主張動態についての分析を試みている人物でもある)― が
「[雷神によって仮託される人外]と[蛇によって仮託される人外]の戦いが往古行われた、それゆえに、雷神と蛇の怪物の闘いが体系化された伝承として世に伝わっている」
などとの見解を欧米圏にて広めていた(アーリア人と呼ばれる語族概念につき信憑性低くもその特性を語るとの似非アーリアン学説に分類される怪説の体系を受けてそういうことを広めていた)。
 といった1999年辺りから見受けられだした海外の論調についても私は把握するに至っているわけであるが、私はそうした見立てが正しいことにコイントスはしない ―見るべきところがあってもデービッド・アイクのような人物が述べていることは「なぜなのか」多く過てる出典に依拠してのものであると結論づけるに至っているのだが、であろうとなかろうと、雷神と蛇神に関しては自身で調べて気づくに至った膨大な反証事例との絡みでその伝でのアイクのような人間の見立てにはコイントスしない― 。
 であるが、雷の比喩が相応の科学的背景あって、たとえば、電子のような極小の世界の作用機序の問題あって
[魂と呼ばれるような内面の作用の操作の比喩]
に用いられていること、[反対話法]としての問題として用いられていることには ―それがいかに奇矯と受け取られよう可能性論であっても― コイントスする。
 たとえば、日本には[鳴神]との歌舞伎の演目が存在するが、[鳴神]とのその演目、
[[雷神]と結びつく[鳴神]との名を持つ僧(鳴神上人)が[雨降りの水神としての竜神]を注連縄(蛇と雷の象徴物とも定置されるものではあることは先の頁でも若干触れた)などを用いて壺に封じ、それにより[旱魃]が引き起こされることになったが、時の朝廷が色仕掛けでその鳴神(雷神)の名を冠する僧の封印を破って竜が解放された]
との筋立てのものである(ことからして問題となりうる)。
 それとても[反対話法の体現物](あるいは雷神と竜神の関係につき実態を模糊させるべくものやりようの体現物)であると受け取られるからである。
 については現実のインド神話にて「雷神」インドラによって斃される大蛇ないし竜の怪物ヴリトラによって[旱魃]が象徴されているなどとなっていることから引きなおして見てのレベルで歌舞伎演目『鳴神』の粗筋 ―インド神話とは真逆に雷神の名前を冠する僧が旱魃を引き起こすべくも竜を封じたとの筋立て― が[一層、関係性を模糊たらしめるようなもの]であると受け取れるとのこともある。また、浅草の「雷」門の裏手に ―雷提灯の位置に対応するような形で― 配されている天竜・金龍の二匹の竜人の像が相応の形態(尻尾を持った竜人の背後に亜空間から覗き見るような竜たちが配置されているとの形態)を伴っているとのこと、また、同じくもの浅草寺にあって目立つように据え置かれた[沙羯羅(さから)竜王像]につき[多数の龍が顔を覗かせる地盤の上に人間が立ち、その人間(体裁上は竜王)に竜が捲きつき、捲きついた竜が天井に描かれた巨大な竜に昇っていく構図]が現われているといったことに[他面での実態らしきところ]が透けて見えるとの感があるとのこともある(当サイト上の他所にて写真を挙げてそういうことについても扱っている ―詳しくは[蛇の紋様にまつわる謎(雷文篇)](文字色改変部をクリックすることで記事に移動)を参照のこと― )。
 だが、といったことだけではなく、
[他ならぬ当記事にて細かくも述べてきたようなこと]
すなわち、
[あまりにも「できすぎている」関係性が洋の東西にあって成立していること]
 ―歌舞伎の[鳴神]とて「危険なことに」相応のやりようの体現物であろうと述べる理由として― 極めて大きなところとしてある
。(:そうは述べても、そうした関係性が成立していることについては[電気仕掛けのアンドロイドの如き存在に進んで堕するのも是とする相応の人間らの弱さの問題][そのことにだんまりを決め込んでいられるだけの相応の人間らの特性][結果が何であれ馬鹿話 ―「所詮は奇なり」に過ぎぬとのフィクション― に真実を落とし込んで何もかもが済ませられると考えられる(あるいは考えさせられる)だけの弱さの問題]が関係していることも論じなければならなくなってしまうととらえるわけであるも)。
 それにつき、(くどくもなるが)、数万余字を割き二ページに分けて展開している当記事の内容を印刷されるなどして検討いただければ、
[象徴物の間のはきと摘示できる奇怪なる相関関係][神話・伝承にまつわる文献的事実]の問題に関わる[現象論] ―印象論などではなく[はきと観察される事物に依拠しての申しよう]― 
としてそのように述べているとのこと、ご理解いただけるだろう)

 次いで、[宝珠]と八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)の関係について、である。両者とも魂の象徴物ととれる。ヤサカニノマガタマが魂の象徴物と言えることは勾玉とのというものの霊的呪物としての側面から観念できるが、勾玉と同様、玉(球形)との字義と近しい王権象徴物たる宝珠(王権の象徴物としてのそれは Sovereign's Orbなどとも呼称される)が魂の象徴になるのは何故なのか。
 それは[宝珠]がこれぞ魂と結びつく象徴物といった形で諸種の写本、絵画に登場するからである。ただ、それに対する説明をなしているときりがない。
 それがため、

「[問題意識の所在]と題した本Webサイト上の記載内容を通しで読んでいただくことで[宝珠=魂の象徴物]と述べもする理由をご理解いただけるだろう」

と参照先を紹介するにとどめておく ――※「古代ギリシャの哲人デモクリトスは魂をして[球形にして火との形態]をとるものであったと述べていた」とされる。他面、[霊魂](と呼ばれてきたもの)はキリスト教体系では[(鳥類の)鳩]あるいは[火]と結びつけられてきた節がある。キリスト教の三位一体説(既述)では[信徒に霊感をもたらす神の聖霊]とされるものが[鳩]あるいは[火]と結び付けられるとの象徴化が目立ってなされもしたきたとのことがあるのだが、望ましくないものと解されるその神の聖霊 ―[蛇のケーブル]との絡みでその属性につき先に述べたキリスト教教義にあってのホーリー・ゴーストというもの― の体現存在とされる[鳩]は他面で[キリスト教版の(神の力で操作される)キリスト教会衆らの魂の象徴物]と解されるとの形で論じられ、また、図像化させられてきたとのことが(事実の問題として)またあるのである。といったキリスト教圏での魂の史的体現存在でもあると解される[鳩]が(哲人デモクリトスが魂の形態とした円形よろしくの)[宝珠]より出し入れさせられる図が欧州中世の時祷書(じとうしょ.キリスト者の礼拝などにまつわるマニュアル文書)らに散見されるといったことがあるとのことがここでの話との兼ね合いで問題になる―― (以上のようなことを視覚的根拠を挙げて指し示し、[宝珠を魂にまつわる象徴物と定置出来るとの話]を展開しているのが上にて挙げての参照先となる。その場ではそうした話が[フリーメーソンのような手合いらを動員しての巨大儀式](911の事件として現出したと述べられるところの儀式)の背景にある思想とも関連性があると解されることがあるとのこと、また、それゆえに今日という時代に生きる我々全てと無縁ではない、とのことを ―前提となることを検討していなければ訳の分からない馬鹿話の類と区別も付けられないかもしれないが― 訴求しもしている)。
 とにかくも、
「宝珠はスフィア(Sphere)とも呼称すべきものとして[魂の象徴物]と解されもするようになっており、それが[玉こと球状形態を意味する字句がヤサカニノマガ"タマ"をはじめとした勾玉に与えられていること]と球状形態を介して接合しつつ意をなしてくる」
との話だけをここでは述べておく(この話には龍が書画・彫刻の中でそれと共に描かれる如意"宝珠"とも結びついている節がある)。

 [王冠]が何故、八咫鏡(ヤタノカガミ)と接合するかだが、「両者が[人間を操作する存在が住まう異界]の象徴との側面を共有している」とのことを次に挙げるような理由から考えられるからである。

・王冠の一部には宝珠のレプリカを上に乗せ、その上に巻き舌を出す二本足で立つライオンを配したりしているものもあるが([問題意識の所在]と題したカテゴリでそのことにつき解説をなしている)、のようなことがあるのは「王冠が人間の魂とも言うべき本質を操作する者達が住まう世界(からの介入)の象徴であるからだ」とも考えられる。と述べた限りでは無論、[暴論]扱いされようが、王権神授説との概念をご存知だろうか。同王権神授説、一般に封建主義が終わった後の絶対王制の時代より提唱されたとされる[王権は神よりの賜り物]であるとの発想だが、その起源は封建時代以前から存する(:聖者然とし柔弱であったとの11世紀イングランドのエドワード懺悔王の時代からして神の霊威と王の権威を結びつける発想が存在したともウィキペディア[王権神授説]項目には記載されているが、原初、王とは神の代理人・代弁者としてのシャーマンの大物のような存在でもあった。のようなことは古今東西にあっての共通事であるのはジェイムズ・フレイザーの民俗学分野の草分け的著作たる大著『金枝篇』を見れば明らかである)。さて、王が、すなわち、統治のための暴力装置の主催者としての役割に存立基盤を有する者がその権威発するところとした領域とは、では、何か。[操作の力がそこより顕現する領域]。お分かりか、と思うが、それは当記事で述べてきたような常識では説明がつかぬ不審事を存立させしめる力の発するところとも述べられる。ゆえに、そこからして王権の至上の象徴とされる王冠は[異界(よりの権威)の象徴]とも定置できもする。

・[蛇と鏡の洋の東西にあっての関係性の話]、すなわち、日本語の鏡の語源が蛇と結びつくことやアテナ神の青銅鏡よろしくのイージス(アイギス)とメデューサの関係性の話などは前頁でなしているが、といった話の行き着くところにある三種の神器のうちの一たるヤタノカガミに見る異界の領域の比喩は[ハデスの隠れ兜](サイクロプスによって最高神の三兄弟に提供されたとのことである三種の神器とでも述べられようものの一つ)にも当てはまると前頁に遡る本記事前半部に解説している。 さて、日本の三種の神器のように西洋の王権象徴物の構成単位となっている王冠も隠れ兜と同様、被り物である。

・ここに挙げる点が極めて大きい。本記事でも若干、解説したが、
「ミトラ教の主神ミトラがかぶるフリギア帽はフリーメーソンの"亜空間から覗く目"と対応関係している」
とのことがある(細かい解説は私の自著や本Webサイト上の[赤き帽子に秘められた操作の比喩]との題の記事にてもなしている)。
 それが王冠と"冠"つながりで接合する物、カトリックやギリシャ正教の典礼で用いられる司教冠・宝冠の異称がMitre(マイター)であることとの絡みで意味をもってくる。その司教冠・宝冠の異称マイターはギリシャ語の[ヘッドバンド]を意味するミトラという言葉に由来する言葉だ、などとされるのだが、それがミトラ神とつながる言葉であると自然に解釈できるがため、問題となる(:ミトラは宗教体系の習合過程でサンスクリット語にいうところのマイトレーヤこと弥勒菩薩になったとされるのだが、"ジーザスよろしく末世に救済のために現れる"というその"マイト"レーヤの語感が司教冠"マイター"に似ているといったことも奇怪なこととしてある。あるも、単純にギリシャ語でヘッドバンドを指すというミトラという言葉がミトラ神の名前と一致しており、「教皇の被り物がフリギア地方、ミトラ神がかぶるフリギア帽由来の地と結びついている」とされていることがある、とだけ述べれば、充分であろう。また加えて、[王冠のそもそもの由来が太陽神ヘリオスのギザギザの冠に由来する]というのが行き渡った見解であり、そこにいう太陽神ヘリオスが太陽神ミトラを崇めるミトラ信仰とローマ時代にあって習合しているとのこともまたある、と強調したいところである)。
 とくれば、あとは次のような対応関係から王冠が異界の象徴と関係すること、(当記事内容をきちんと読まれてきたとの向きには)、ご理解いただけることか、と思う。
[王冠]⇔[王冠と"西洋権威の象徴としての被り物"としての側面を共有する司教冠・宝冠]⇔[司教冠・宝冠の別称としてのマイター(ミトラ)]⇔[ミトラ神、及び、ミトラ神のかぶるフリギア帽]⇔[フリギア帽と完全に対応づけ可能なフリーメーソンの亜空間から見る目のシンボル]⇔[覗き見る者の異界の象徴]⇔["カガ"こと蛇に由来する言葉である"カガ"ミ・鏡(と同時に鏡が多重連結空間とつながるものだとも前頁に出典込みで言及)と結びつき、その他の意味でも異界の象徴と考えられる八咫鏡]。

 以上、述べてきたところから、
「突き詰めれば、三種の神器を契機に語たることが出来る操作の隠喩は多くの宗教だけではない。宗教と結びついた権威にも垣間見ることが出来るものである」
とご察しいただけたことか、と思う(["仮現"の権力]を人形のような権力者に授けられ、彼らを媒質とした支配が宗教による精神的拘束と同じ性質、魂といった人間の支配と密接に結びついていたからだ、ともとれる ―私の目から見れば、天皇教が隆盛を極めていた戦前も、"表向きは"民主主義が保たれている今という時代も同じである― )。

 もう十二分に論じた。論じたので、最後に次のようなことを述べた上で筆を拭うこととする。

 当記事の内容は
[魂と呼ばれる存在の領域]
といったことについて考えたことがなき向きには多くスピリチュアルなものと映るかもしれない。
 言葉を換えれば、当記事の内容は、人によっては、神秘主義的視点とアカデミカルな象徴分析 ―私自身は"学者"という"役者"の世界の内実を見晴らしのよいその外側の観測ポイントからよく見てきたこともある人間として「アカデミカル」などという言葉が大嫌いだが― との融合論にしか映らないかもしれない(主流の世界の"論客"たちの立ち位置から見れば、まさにそうなる)。
 が、そうした見立てをもたらす、一見、スピリチュアルととれる当記事の側面を脇に置いておいた上でもだ。読者の方すべてが把握しておくべきは、
「ここに書いたことが911の事件を起こしうる力の本質にまつわる象徴体系を多く暴露し、解説したものの"ようである"」
ということである。
 筆者としては
「911の事件を起こすがごときの力の本質に絡む象徴体系を白日にさらさんとし、かつ、十分な解説をなしてきたものが当記事である
と強くも明言したいぐらいであるのだが、フリーメーソンのような者達の気色悪い動き方を見たことがなき懐疑派の方々、軽々しきスピリチュアル的なる話に辟易している懐疑派の方々の内心を慮って
「解説したものの"ようである"」
とワンクッション置いてのこととして、だ。
 以上のような点につき、把握した上で、あとは、そう、自身の周りをよく見てみるとよい。そして、[視野角狭き人間たち]で満ち満ちたこの硬直した世界がどこに向かいつつあるのか。自身の頭で考えてみるとよい。

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当記事について分けても論じておくべくか、ととらえたところをここ文末にあっての別枠の部にて記載しておく。

 まず別枠にて強調したきことの第一点目として
[当記事の内容は極めて複雑なものであるので印刷をなされて内容検討されてみることを勧めたい]
とのことがある。紙媒体に落とし込んで線でも引きながらのじっくりと向き合うとの形でご検討いただければ ―筆者自身、度々、記事内にて述べているように誤解・曲解を招いて当然といった話柄でそういうテーマを扱ったものながらも― 当記事で述べていることが論拠に依拠しての真っ当なものであること、ご理解いただけることか、と思うからである。

 また、第二点目として当記事の内容と少なからず関わるところを論じているとの当サイト上の他記事について紹介をなしておきたい、とのこともある。
 その点、併読を講いたき他記事として
クリスマスと『黙示録』。その不気味極まりない相関関係について] ―文字色改変部をクリックすることで記事に移動―
との記事を紹介しておく。
 上の他記事の内容をも精査されることで
[具体的に何がどう問題になるのか]
[当記事で述べたようなことがどうして我々の生存限界線の問題にかかわるのか]

につきより深くもご理解いただけることと請け合う(:私としては[当記事のようなもので指し示さんとしていること]らそれ自体ではなく、といったことの[帰結]としてどういうことが先に控えているのかを ―相応の人間らは物事の重みづけをきちんとなさぬとも考えられるところなのだが― 問題視しているのである。その点につき、そう、[先に控えていると考えられること]につき解説しているのが、上の紹介記事である)。

 以上である。