考えられる操作の手法について

 
 

三種の神器をはじめとした権威象徴物(リゲイリア)に込められた隠喩

 まず最初に述べておくが、当記事は
[本Webサイト掲載の直下、挙げるところの記事群]
を読まれたうえでなければ、
[なかなか理解しづらいもの]、
[(さらに読み手悪印象につき慮れば)全篇で神秘家 ―常識の世界で軽侮される人種― の御託のように意味不明瞭なることを述べているとのものと誤解されかねないもの]
となってもいる(であるから直下、挙げるところの他記事の先立っての参照を求めたき次第である)。

(事前参照を推すところの他記事として)

[赤き帽子に秘められた操作の比喩](クリックすることで遷移可能)
[二匹の獅子と操作の比喩](クリックすることで遷移可能)
[金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について](クリックすることで遷移可能)
[問題意識の所在]と題したカテゴリ中の次の各ページ。[問題意識の所在―7―]/[問題意識の所在―11―]/[問題意識の所在―12―]/[問題意識の所在―13―]/[問題意識の所在―14―]右に挙げた各ページは段階説明方式を採用しているがために各々単体だけ読んでも要点をつかめぬもの、[問題意識の所在]と題したカテゴリの全文を通しで読まねば要点をつかめぬものであるため敢えてリンクは貼らなかった

 上の他記事を参照されたうえで当記事を読解されれば、筆者が何を前提にものを話しているのか、多くご理解いただけるか、と思う。によって、当記事の内容は ―少なくとも― [意味不明なるもの]にはならないだろうと考えている。

 以上、
事前参照推奨箇所
を挙げた上で本題に入る。

 初めに次の図像群をご覧いただきたい。

 図の端的なる紹介をなす。図を左列と右列に大別、左列の三図からだ。
 上よりギリシャ神話の主要な神格としての兄弟神、[ゼウス]、[ポセイドン(あるいはそのローマ版のネプチューン)]、[ハデス]を描いた作品らとなっている(ゼウスとポセイドンは近代絵画からの抜粋、ハデスについては古代のものとされる美術作品から抜粋をなしている)。
 対して、右列の三図は天皇家の権威の象徴、三種の神器の"想像図"で、左から[草薙の剣](あるいは天叢雲剣ことアメノムラクモノツルギ)・[八尺瓊勾玉](ヤサカニノマガタマ)・[八咫鏡](ヤタノカガミ)となっている(三種の神器については真贋込みでそれらがどこにどう安置されているかさえ、我々は正確に知ることが出来ないが、そういったことは問題にはならない)。
 ここまで述べたところでギリシャ神話で主要な神としての立ち位置を与えられている兄弟神と天皇家の三種の神器がどう関係するのか、疑問に思われている向きも多いだろう。
 が、
ギリシャ神話の兄弟神達と日本の三種の神器の間には関係がある
とはきと述べられるだけの事情がある。そう、ギリシャ神話上、最高権力者の座にある三兄弟も天皇家の三種の神器も ―本来的には一拍置いて「こういうことを述べていることにつき誤解をなして欲しくはないのだが。」と言い添えてから述べたいとのことなのだが― [人間存在に対する操作の象徴]となっているという意味で関係しているだろうと述べられるだけの事情があるのである
 では、具体的にその事情とは何か。どういう関係性があるというのか。
 それについては
冒頭で述べた推奨事前参照箇所を読んだ上でないと「突拍子さがやたらと目立つ」
との部を含む指し示しの流れ「とも」あいなるのだが、これより挙げていく〔1〕から〔3〕の点(及びその後に補って指摘する点)のような観点から「はきと」関係があると述べられるようになっている(最初に断わっておくも、〔1〕から〔3〕の記載文量だけでもかなり長くなっている)。

〔1〕上掲のゼウスは雷の神、雷神として知られるが、その雷神との属性が
[蛇にまつわる寓意絡み]
で問題となる。

世界各地の雷神信仰が蛇と結びついていることについて

当記事冒頭部にて参照を請うている、
[金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について](クリックすることで遷移可能)
との題の記事にても扱っていることだが、事実の問題として世界各地の雷神信仰は蛇と結びついている

「疑わしきはそれら事例についてから確認されればよい」

として一例を挙げる。

[ゼウスZeus]対[テューポーンTyphon⇒ギリシャ神話主神の雷神ゼウスは「蛇の」怪物ティポーンと対立している。
[インドラIndra]対[ヴリトラVritra⇒古代インドの雷神インドラは「蛇の」(あるいは形容の仕様によっては「竜の」)怪物ヴリトラと対立している。
[トールThor]対[ヨルムンガンドJörmungandr⇒北欧神話の雷神トールは「蛇の」怪物ヨルムンガンドと対立している。
[雷公]対[伏儀ら父祖]⇒中国古典に見る三皇五帝、そこに数えられる神格たる伏儀らは「下半身蛇の」存在だが、その伏儀らの父祖の代からの宿敵は雷公とされている(ただし、「雷」公自身にも爬虫類的特質が伴うともされる)。

 以上のような形で雷神と蛇の神話的存在らは結びついている。

※はきと明言できぬ関係を挙げれば、たとえば、ヤハウェと蛇の関係もある。[水棲爬虫類あるいは蛇的なるものと親和性高きレヴィアタン]を世界の終末にあって[日々、千の山に相当する草を食す怪物ベヒモス(ベヘモット、あるいは、バハムートとも呼称)]とともに滅ぼす存在であると『旧約聖書』(の中のヨブ記)が語る、要するに、蛇の類を『新約聖書』のサタンよろしく滅するとされている至高神かつ唯一神たるヤハウェからして元来、[雷神]としての側面を持っていた存在ともされるのだ(出典としては米国の神話学者ジョセフ・キャンベル( Joseph Campbell )の The Masks of God『神の仮面』といった論稿に認められる考古学・神話学的知見が挙げられる)。また、述べておけば、と同時に、そのヤハウェ自身が[レヴィアタン的なる蛇と接合性ある神]であるとの見立てもなされている(同様のことについてはゼウスのその原初的形態が蛇としての[ゼウス・メイリキオス]との神であったとの考古学上の知見があることとも結びつく ⇒ ヤハウェやゼウスの蛇と結びつく原初的形態についての話については直近挙げもした論稿、邦訳版も出ている神話学者ジョセフ・キャンベルの『神の仮面』 ―『西洋神話』との分厚い書籍にあっての計四章中の一章を切り抜いての訳がなされたもの― のチャプター1に多少明るい)。

※[蛇と対立関係にある雷絡みの神話・伝承上の存在]から離れて[蛇と雷の融和・接合の関係]を顧慮すると、関係性の孤はさらに拡大していく。具体的事例を続く記事本文中にても挙げていくが、たとえば、[日本の注連縄]は蛇の交接する姿を模したものとされ、なおかつ、同・注連縄については稲妻を描いたものであるとの解釈も成り立つとされていもする。といった蛇にして雷の象徴物と解されてもいる注連縄を[神聖なる領域の標識]として用いる日本にあっての神話体系、そこに見る冥界落ちの女神イザナミに巻きついていた[八種(やくさ)の雷(いかずち)の神]らは[蛇体状の存在]であったとの見立てがなされていたりもする(イザナミの話については『妖怪と怨霊の日本史』との書籍に拠った)。

 さて、世界各地の神話で雷神が
[蛇(あるいは竜などのその他の爬虫類の体現物)と闘う存在]
などとされている一方、そこに[反対話法]としての側面が"如実に"垣間見れるといったことが問題となる(ととらえざるをえぬ、と強調したい)。
 その点、述べるところの[反対話法]の中身だが、それは次のようなものとなる※この時点で事前参照推奨他記事の内容を把握していない向きにとって突拍子さが目立つものとなること、「強くも」お断りしておきたい

世界各地の神話に見る[蛇に打ち勝つ雷神]を、その実、[蛇(や竜といった爬虫類)によって象徴される存在による操作の比喩]として用いる。すなわち、["雷"で蛇を打ち倒す人型の神]に対して[蛇・竜によって雷で打ち倒される人型の存在]としての意味づけを反対話法として背面で込め、もって人間という種族が[雷]によって表されるメカニズムで操作されていることを示唆するとのことがなされている同・反対話法については「欧州の聖ゲオルギウスと印度の雷神インドラの間に普通に考えれば、絶対に文化伝播では説明がつかない相関性がある」といったことを述べつつ、[金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について]という記事 ―本記事冒頭紹介記事― で解説をなしている)。

 などと述べると、冒頭にて参照推奨の他記事ら内容を読まれていないとの向き、
『何を意味不明なことを。』
との内心の反応を呈して当然だろうとの過半の向きよりも懐(ふところ)深くもの雅量(寛容さ)を有しておられる常識人にあっても
『何が[反対話法]だというのだ。単純に[雷]と[蛇]が形状的に似ているから雷と蛇が結びつけられてきただけじゃないのか』
との(内心上にての)異見を呈したくなる方もおられるかもれしれない。

 が、といった意味での常識的反応 ―[雷]と[蛇]象徴の形態的近接性にまつわる内心での返答― についてはまずもって、下の観点から、「さにあらずであろう」、と述べておきたい。

「雷神と蛇・竜の神格の戦いは人間離れした形であまりにも巧妙に文化的に断絶していたはずの世界各地の神話のつながり方などまさにそうである)、かつ、蛇と雷・竜の形状が日本の注連縄を巡る来歴のようにはそのままで結び付かない形で存在してきたから、その伝での常識論 ―蛇と雷が形態的に似ているからではないのか、との意での常識論― は持ち出すべきではない」

※上記については当記事冒頭部より紹介している当サイト上の他記事、
[金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について](クリックすることで遷移可能)
を参照されたい。ちなみに、人間の歴史にあってはこれぞ幾重に幾重にも
[人間離れした形での巧妙さを感じ取れる歴史上の事物らの結びつき]
が散見されるとのこともある。
 その点、当サイト上の直下挙げるところの他記事では「蛇絡みの象徴に関して」際立ってそういうことがあることにつき証拠主導方式で扱っている。
(参照を願いたき記事として)

蛇の紋様にまつわる謎(二重螺旋構造篇)] ―文字色改変部をクリックすることで記事に移動―
蛇の神から人の神への変質。神話を分析することで浮上する奇怪性] ―文字色改変部をクリックすることで記事に移動― )

 話を続ける。

 [反対話法]と呼ぶべきようなものが存在するとして、かつ、その中で[雷にまつわる操作の象徴]が表されていると仮定して、である(:この段階では(当然に)まだ「仮定して」との表現を使っておこう。それが「仮定して」で済まされないことは続く段で遺漏なくも指し示すとしても、である)。
 それが具体的にどういうものなのかについては

部分的に言えば、[鳥類に電磁場でもって方向間隔を失わせるが如きの操作の象徴]、もっと包括的に言えば、[極小との事物の領域、量子力学的な意味での領域の人の"本質"に対する操作の象徴]であるように考えられる

と(当記事にてこれより煮詰める「前」にあってながらも) ―誤解を恐れずに― 「先立って」思うところにつき述べたい。

 そのように述べると、

[量子力学的なる意味での操作]?ただでさえ、突拍子もない話の中で「さらに」もの似非科学論法まで展開しやがっているな』

と思われる向きも無論あろうが(というより、ここまでの内容"だけ"を読まれた上で内心でそう突っ込まない方がいたらその方の懐疑心の無さ ―宗教なぞという愚者の論法にたばかれもしよう懐疑心の無さ― が心配である)、それについては次のように述べておきたい。

「過度に主観がかったそういうことまでに同意を求めるつもりはない。
 問題となるのはそういったことではなく、同意を求める必要とてないこと、
具体的事実としての事例群(文献的事実としての事例群)から[蛇と雷の奇怪な関係性]が浮かび上がり、その関係性に[三種の神器とオリュンポスの三大神との奇怪なる関係性]のことも包含されている
との[(主観なぞ問題にならずに、の)立証可能なこと]が「はきと」存することである(:この段階では[意味不明な物言い]と受け取られようが、「文献的事実の積み重ねから容易に導き出せる記号論的事実として」そうもなっていることは続く段できちんと示していくと前もって述べておく)。 そして、また、(問題となるのは)、そうしたことが「はきと」存することにつき、 ―残念ではならないが― 反対話法がかった[操作の寓意]が「理の当然であろう」といった按配で観念できることである。
 としつつも述べるが、私の自著にあっては[人の世が極小の世界にあっての考えも及ばぬ量子力学的なるメカニズムで操作されているとの可能性]につき解説してもいる。であるから、 ―(そこまでの同意を求めるつもりはないが)― 続く段の指し示しの適否につき検討されたうえででもそちらを読んでいただければ、と個人的には考えている

とまずもって ―当記事にあってこれより話を煮詰めていく「前」のことながら― 断っておきたきたい。

 そのように断ったうえで、ここでの話にも関わることとして上にて言及した[量子力学的な意味での操作の可能性]についてではあるが、それは、
[魂と呼ばれるものの領域に対するありうべき操作]
と言い換え可能なものであると個人的に考えているものでもある(というのもこれより指し示す関係性に[魂の寓意と歴年結び付けられてきた蛇の杖]が深くも関わっているからである)。そう述べてから話を進めたい ――※再三再四述べるも、ここに至るまでの流れがニューエイジャー・チックな話柄ではあることは論を俣たない。が、当記事でそのように切り捨ては出来ぬ根拠を挙げていくと(くどくも)申し述べておく―― (:尚、古より[魂]はギリシャアルファベットのΨプサイで表されてきた。そのプサイ、量子力学分野における Wave Function「波動関数」をあらわす記号となっている波動関数は量子の世界の予測されうる振舞いを記述するために用いるものだが、換言すれば、それは[雷の素]、電気を扱う電磁気学において電子や光子の振舞いを考えるためのものでもある ⇒ [雷神]と[魂]の問題はつながるのだと想起いただきたくも ―委細について入る前に― このような話をなしている。その点、人類史上、最も賢かった物理学者達にも波動関数でその振舞いが予測される[量子の世界][万物が一たる領域]に人間の本質、魂と呼ぶべき本質があると考えていた向きもいた。マンハッタン計画に深く関わった人間でもあるが、故デービッド・ボームのような天才(の物言いから演繹されての部分に全が包含されるようなホログラフィックな世界観)がそうである)。

 直近にて
[行き過ぎたもの]
[夢想家由来の観念の世界でひらひらと飛んでいる類のお話]
と受け取られもしよう話 ―[魂と呼ばれるものに対する操作]として[量子力学が領分とするような極小の領域のメカニズムを用いての操作]が考えられるとの話― をかする程度に極々部分的になしたところで述べるが、同様の伝で悪しざまに受け取られかねないことをさらにもって([これより論拠・証拠を念密に呈示していくこと]と接合することながら)敢えて述べるとし、

[雷によって象徴されるもの]は、と同時に、[Ψ(プサイ.魂を意味するギリシャ文字)を縛るケーブルとして象徴されるもの][蛇のケーブルによって象徴されるもの]でもあると[歴史的象徴体系に着目しての視点]にて指し示せる

ということが「現実にある」のだと強調したい(:多くの神話伝承上で[人格神としての雷神][蛇・竜の如き爬虫類で表象される悪しき者達]と闘い、それらに勝利する存在として描かれる。それが[反対話法]として成立するところに顕在化するのがこれより問題とする[蛇のケーブル]の話となると強調しておきたい)。

 以上述べたようなことをこれより当記事で煮詰めていくとのこととあいなるのだが、まずもって、

「上掲図のゼウス ―蛇の怪物ティポンと一大決戦を演じ、それを屠ったと神話が語るギリシャ神話上の神々の主催神― とその隣に描画した[草薙の剣](屠られた八岐大蛇の尾から出てきた神器)が[対応]することが問題である」

と訴求したいとのことがある。
 アナログデータに対するデジタルデータ、ある程度の誤差(ノイズ)なら無視しても構わないような方式に見るような機械的正確性でもって対応していると訴求したいとのことがある(というのが当記事である。につき、頓狂な話と受け取られかねぬことを述べている中ながら、相応の意図、アナログデータからデジタルデータに放送内容を切り替える動きが"世界中で"同時並行的に起こっている件についての問題意識を喚起したくも、このような表現を用いもした)。

 何故、
「[蛇の化け物殺しのゼウス]と[蛇の化け物殺しのスサノオが入手した草薙の剣]の間に対応関係が成立している」
などと述べるのか。

 それについては本記事の続く内容すべてをじっくりと読んでいただいたうえでないと黒白判断は難しかろうとした上で述べるが、まずもって、そも、
草薙の剣がヤマタノオロチから飛び出した[蛇のケーブル]であると形容できるようなものである
ということがある。

『[蛇のケーブル]?書き手が強調したいことと見えるが、何なんだ、それは?』

と思われるところだろうも、多頭の大蛇より出てきた草薙の剣をして[蛇のケーブル]などという表しようをなした件については、 ―[極めて重要な点(と定置するところ)]として― 、

「[蛇のケーブルとも評せよう象徴](蛇の杖)が[魂の象徴](鳩)と ―雷という問題としたき中間項を挟まずとも― 欧州を中心に秘教的に結び付けられてきた、とのことがある。少なくとも、中世よりのこととして、視覚的に指し示せるところとしてそういうことがある

と述べられることが「現実にある」とのことが問題となる(いいだろうか。[蛇の象徴](蛇の杖))と[魂の象徴](鳩などによって体現)が視覚的に結び付けられていると述べられるように「なっている」ことが問題となるのだ)。

 上は当記事冒頭部より、

「まずもってそちらよりの読解をなしてもらわねば当記事の内容は
[奇態なる神秘家的人種(ニュー・エイジャー系の役者)の戯言]
にすぎぬと看做されかねない」

と申し述べたところの参照先、[問題意識の所在]と題したカテゴリ内の詳説部にて詳説していることであるとして話を進める。

[魂の象徴]と結びつく[蛇の杖の象徴]について

 上は19世紀後半絵画、
Die Seelen des Acheron(:画題としては[アケロン川 ―ギリシャ神話における冥府の境界線上の川たる― に集う魂達]といった訳を充てるべきか)
を引き合いに出しての関係図となる。 
 図にて持ち出した絵画画題に複数形で付された付されたSeeleゼーレ、カルト的な日本のアニメで我々の世界の望ましくはない改変を望んでいたとの設定で出てくるフリーメーソン的なる秘密結社の名へと転用されているドイツ語名詞だが、その意は[魂]との語にある。
 といった[魂]との言葉が用いられている上掲画では
[ギリシャ神話神格ヘルメスあるいはそのローマ版たるマーキュリー](ヘルメスあるいはマーキュリーの際立った特色は[羽の生えた帽子][蛇が巻き付く杖]を装身具としているとのものである)
が描かれている。
 そうもなっているのは(ヘルメスという神格が抜粋の絵画の中心に描かれているのは)ヘルメスあるいはマーキュリーという神格に[魂の導き手](Psychopomposとの役割が神話上付されており、上掲画が冥府の川で死せる魂たちをヘルメスあるいはマーキュリーが先導しているとのテーマを扱ったものだからである(:日本でも新興宗教の類がその教義に名前を拝借しているようである[ヘルメス]というギリシャ神話の神が魂と結びつくこと、それにつき、疑わしきは英文Wikipediaにあっての[Psychopomps][Hermes][Mercury]の各項目の内容を確認されたい。また、[ヘルメス]のローマ版たるマーキュリーことメリクリウスという神が北欧神話主催神のオーディン ―あるいはヴォータン。配下のワルキューレ(バルキリー)らを使役して勇敢な戦士の魂を集めているなどと神話が語り継ぐ存在― と沿革的に結びついていることは和文Wikipedia[オーディン]項目にすら記載されている見解となることにも触れておく)

 さて、当記事ではヘルメス(あるいはそのギリシャから転じてのローマ版たるマーキュリー)が手に持つ[蛇の杖]、カドゥケウスなどと呼ばれるその蛇の杖の象徴物が
鳥類(鳩)に仮託されての歴史的なる魂の寓意的象徴物(その点、鳥類の鳩はキリスト教信仰体系上、一般には[神あるいは救世主の聖霊]とのある種、[神がかり的なものを引き起こす存在]と解されているが、別の解釈では鳩は人間の魂そのものの寓意的象徴物であるとの見立てが呈示可能となっている)
と結びつけられてきた来歴があること、隠喩的・明示的に歴史上結び付けられてきたとの来歴があるとのことを ―[蛇のケーブル]と魂の関係について論じるとの記事本題に関わるところとして― 問題視している。
 たとえば、上掲図に見る書籍(16世紀にものされた『金属に関して』ことメタリカとの書物)表紙をはじめ、蛇の杖が
[魂の象徴となりもする鳥たる鳩]
と結び付けられる傾向が隠喩的・明示的にあったとのことを問題視しているのである(⇒それについてより詳しくは本記事冒頭部より参照を請うている当サイト上の[問題意識の所在]と題してのカテゴリにて展開の一連の論証にあっての後半部の内容を検討いただきたい)。

 直近にて[蛇のケーブル]とでも表せようもの([蛇の杖])が[魂の象徴物]と歴史的に結びつけられてきたことに言及した上にて述べるが、と同時に問題視すべきこととして、
ゼウスの如き[雷神]という存在は ―雷神インドラの眷属マルト神群が稲妻を伴う暴風雨の神々であったように― [稲妻を伴う暴風雨の神]と接合しえ、その暴風神との文脈で八岐大蛇(草薙の剣の産出元)を屠ったスサノオが形容される ―スサノオは暴風雨の神ともされる― ことからして問題となる
とのこと「も」ある(:ゼウスは天空神として雷を自在に扱うともされるが、「気象そのものを支配していた」とも神話が語る存在でもある ―和文ウィキペディア[ゼウス]項目にすら部分的に解説されていることとなる― 。また、スサノオが暴風雨の神であることは和文ウィキペディア[スサノオ]項目にも記載されていることであり、その[スサノオ]の息子との位置づけも日本神話上で与えられている[大国主]の別称が[大物主]であり、その大物主が[雷神]にして[蛇神]であったとのことも ―和文ウィキペディア[大物主]項目程度のものにも記載されていることとして― ある)。

 復習をなす。
 まずもって、八岐大蛇から出てきた草薙の剣は蛇の剣だが、[蛇のケーブル]とでも形容できる象徴が[魂の象徴体系]と視覚的に結び付けられていたとのことが人類の歴史には伴っている(委細を他所に譲って言及したことだが、この話はさらに当記事にあって煮詰めていく)。
 また、インドの雷神インドラ(暴風雨神の眷属)が旱魃の象徴化存在たる大蛇(あるいは悪「竜」)ヴリトラを討伐したように、あるいは、天空の気象条件を支配するゼウスが大蛇の化け物ティポンを討伐したように、八岐大蛇を討伐したスサノオという存在は[暴風雨神]として世界各地の諸々の雷神とある種、親和性強き神話上のアイコンと受け取ることもできる(ちなみに、日本神話上でスサノオの息子[大国主]と同一存在となっているのは[大物主]だが、同・大物主、[雷神]かつ[蛇神]として知られている存在であると直近述べた)。

 この段階ではまだまだ暴論のきらいあるところであることは百も承知の上であるが、以上のことより、
「雷神の雷が八岐大蛇から出てきたとの[草薙の剣]のような[蛇のケーブル]と結びつく素地がある」
「その話はまた、[魂を縛る蛇のケーブル]を巡る話と結びつく素地があるとのことでもある」

とのこと、強調しておきたい(:尚、この段階では[暴論]と述べられようものであると上にて述べたが、それは[魂を縛る蛇のケーブルとして歴史的に用いられてきた蛇の杖の象徴]と[スサノオに斃されたヤマタノオロチ産出の草薙の剣]の間にいかなる関係性が成立しているか説明していないからである。しかしながら、といった[暴論]としての上にて述べていることの側面は当記事の後の段にて展開する話によって払拭されることになる ――(具体的には後の段でなす[[ゼウスの雷霆(らいてい)]と[雷と接合する名を有する神の鍛冶職人たる一つ目巨人サイクロプスら]と[蛇の杖]の関係性にまつわる話を通じて払拭されることになる―― と事前に強調しておきたい)。

 15世紀のフィリッピーノ・リッピ( Filippino Lippi )の手による画、『マルスの神殿から竜を放逐する聖ピリポ』 ―上掲[左]/上掲[中央]― と太古の遺産とされるゼウス神像 ―上掲[右]― の対応関係を指し示す当方作成図。
 図中、[ルネサンス期画人、フィリッピーノ・リッピが想像の産物として描いたマルス]と[リッピ画作成より数百年を経た17世紀にトルコで埋もれていたものが"再発見"されたゼウス神像]が「似たような形で雷を掲げるポーズをとっている」ことの奇異さはこの際、抜きにして、である。ここで問題としたいのはリッピ画にて「伝承とは不釣り合いに」雷と結び付けられているマルス神 ―ギリシャのアレス神に対応する軍神― が何故だか
[放逐される竜]
とも結び付けられていることである。
 それは雷神のゼウス神をはじめ多くの雷神が竜や蛇と結び付けられてきたことに関わる間接的事例たりうると述べられもしよう(画中のマルス神の"雷"を介して、である)。そして、 ―本記事を最後までお読みいただければお分かりいただけるだろうが― といったことが[操作]の問題と如実に関わると述べられるだけの事由が存する。

〔2〕上の〔1〕にて、一言でまとめると、(まだ「それだけでは暴論にすぎぬ」との形で論ずべきところを残したうえでであるが)、次のようなことを述べた。

「雷神あるいは雷は[魂を縛る蛇のケーブル]と接合する象徴記号(アイコン)となっているように受け取られることが重要である」

 まだまだ突拍子もなく響くだろう上の話を踏まえて述べるが、

「ゼウスの兄、ポセイドンは"魂"と結びつく存在であるとも考えられる。ポセイドンの持っている[三つ叉の矛]絡みでそう述べることが出来る。三つ叉の矛とは形状的にギリシャアルファベットのプサイことΨとつながる。そのΨが[魂]の意を併せ持つ語であるということは先にも言及した。(まずもって述べることとして)三つ叉の矛の形状を介しポセイドンは[魂]に近づいていくのだ」

 ポセイドン(と彼の三つ叉の矛)もプサイもギリシャ由来のものであることをも顧慮したうえで上についてどう思うだろうか。
 無論、
「過度の一般化を含んだ押し付けがましすぎる見解である」
「ポセイドン(あるいはそのローマ版たるネプチューン)は海神だからこそ漁師の銛の形状に接合する三叉の矛が用いられている」

と内心で述べたくなるということもあるだろう。
 が、そういった批判、至極当然な批判をなしたい方には「まずもって」次のこと、述べておきたい。

「魂の体現化文字と形状を同一とする[三つ叉の矛]は ―当記事内でも後述するところとなるが― 雷神ゼウスの武器たる[雷霆(ライテイ)]と[神話上、ワンセットになっているもの]である。といったゼウスの雷とワンセットになっているとの[三つ叉の矛]はインドの神像や仏像の所有物としても多く登場し、それがまた、[隠喩的なかぐわかしさ]を漂わせていることを把握すべきである」

(:本Webサイト上の[問題意識の所在]と題したカテゴリの中でも三つ叉の矛状の神仏の道具の使用例に触れているが、例えば、日本の国宝級の仏像たちの実に多くがそれを手に持つ、といったことがある。そういったことは[金剛杵という名の仏具にまつわる隠喩について]という本Webサイト上の記事(冒頭部にて参照を請うた他記事)でも深く触れているとしつつ、次のようなこと「も」申し述べておきたい。「何故、悪魔の戯画化イラストで悪魔が多くフォーク状のものを手に持っているのか、考えた方がいい」)。

[左]北欧神話における最高神オーディン ―英語表記ではWodanヴォータンと呼称されることも多い― を描いた写本よりの抜粋。
[右]物理学史にあっての殿堂入りを果たしたエルヴィン・シュレディンガーの手によって成ったシュレディンガー方程式( Schrödinger Equation/波動方程式)と、その中の波動関数Ψ(プサイ)を誇張した図。
 さて、唐突だが、私は
『高校の科目としての[物理]を最後に物理学接合領域に真剣に向き合うことなどないな』
と考えていた。が、ここ数年来、初学者向けの本から専門的な読み物、英文の諸資料など近現代物理学の成果の研究に時を惜しまないようになっていた。物理学が意味深き操作の問題と関わるテーマを扱っている学問だと気付かされたからだ(などと述べると『物理学畑出でも理学系研究者でもないしがない門外漢風情が』と専門家の向きには冷笑されるかもしれないが)。
 上に挙げたシュレディンガー方程式もまたその範疇で語れるものであると私はとらえている(方程式考案者シュディンガーは人格的に問題がある人間だったようだが)。
 同シュレディンガー方程式 ―[雷の素]、電気を扱う電磁気学において電子や光子の振舞いを考えるためのもの― で[粒子の観測可能性にまつわる確率分布]絡みの函数として用いられている波動関数。
 それは ―重複記載となるも― 先に
「[電子なぞの振る舞いとと呼ばれようもの]の結節点となる」
としたプサイ、を表すギリシャ文字Ψで記述されるものである。
 そのこととプサイと同形状のもの ―[三叉の矛]形状をとるもの― が北欧神話最高神にして配下のワルキューレに[魂]を集めさせているオーディンの似姿を描いた写本中にこれ見よがしに描かれている ―うち一部は三叉の矛形状をとるオーディンの槍グングニルに仮託されている― ことに『何の関係性もない』と思われるだろうか。
「シュレディンガーのスペリングがオーディンに近しい文字列を含む ―ただし発音は異なる― 」
といった[皮相的なる印象論にすぎぬ]ととらえられるようなところを抜きにしても、
の比喩との絡みで偶然ではない』
と私は考えているのである(:ここだけ読まれるだけでは理解などなしていただけないだろう、と当然に考えるので、当記事全体の内容を ―印刷されるなど何なりして― ひとつ検証してみてもらいたい、とも私は考えている)。

 とにかくもである。ここではポセイドンの持ち物たる[三つ叉の矛]がギリシャ文字プサイの形状・字義を考えて[魂の比喩]たりうるとの前提で話を進める(「展開に無理がありすぎるだろう」という向きもあろうが、本記事を最後まで読んでからそのような突っ込みを入れてほしい)。
 話を進めるとして、

「ポセイドンの三つ叉の矛に対応するのがマガタマこと勾玉である三種の神器、[八尺瓊勾玉](ヤサカニノマガタマ)である」

と訴求したいとのこともある。

 先に挙げた図の再掲。
 当記事でまずもって問題視しているのは([確認のための繰り返し]となるが)、
上掲左列に見るギリシャ神話三大有力神格(上からゼウス、ポセイドン、ハデス)上掲右列に見る日本の三種の神器(上から[草薙の剣](あるいは天叢雲剣ことアメノムラクモノツルギ)・[八尺瓊勾玉](ヤサカニノマガタマ)・[八咫鏡](ヤタノカガミ))が ――尋常一様ならざる奇矯な話と常識人には受け取られかねないことだが―― 結びつく]
とのことを指し示せるということである。
 ここではその指し示しの途上の話としてポセイドンの装身具たる[魂と同義の文字(ギリシャ文字プサイ)の形状をとる三叉の矛]と[八尺瓊勾玉](ヤサカニノマガタマ)の関係についてとっかかりとなる話をなしている。

 それに関しては
「勾玉それ自体が["霊的"な呪物]このような言葉を用いるが私は神秘主義者ではない。私流に言う霊的とは[霊的ともとれる物理事象]に関わっているということだ)である」
ことがまずもってある。
[勾玉と結びつくヤサカニノ"マガタマ"]
を[三つ叉の矛](ことプサイ・Ψ)と対応すると直近述べた「魂」の象徴と見ることが出来る大きな理由として、まずもってある。
 が、上はヤサカニノマガタマを魂の象徴物と定置する最大の理由ではない。

「日本の皇室と同様、"仮現"の力を与えられたとも思わしき存在、西洋の王権が ―レガリア(王権象徴物)として― ヤサカニノマガタマと対応するような象徴、[玉]という球形形状をもつ象徴を[秘教的なる魂の象徴]として用いてきたと指摘できることがある」

ということがヤサカニノマガタマを魂の象徴物と定置する最大の理由である([玉]という球形形状をとり、魂の象徴物と解釈できる西洋の王権象徴物(レガリア)だが、[王冠][杖]と並ぶ[スフィア・オーブ]と称されるものがそれにあたる。その解説は当記事でも後になすが、より細かい解説は本Webサイト上の[問題意識の所在]と題したカテゴリに譲ることとする⇒オーブ・スフィアを魂の象徴と解する考え方がご当地、欧州にも「ほとんど」見受けられない中、秘教的シンボリズムからその意味を解説するのはとてもではないが、本稿それ自体の文量では不可能であると判断したため参照先に細かい解説を譲らざるをえない。また、私のここでの話柄を「将棋よろしく[王]と[玉]を対応させるつもりか」と批判的にとる向きもあるかもしれないが、そういった向きにはこう言いたい。「原因と結果を履き違えるべきではない」と)。

 そうも述べていることが ―ここまでの内容を検討される限りでは『そうとられてもやむなし』と考えるところだが― [ただのこじつけ上のこと]とはならぬことを
[蛇の杖と結びつく魂の寓意ら]
との絡みで煮詰めんとするのが当記事である(当記事の続く段の内容をよく読んでいただきたい)。

〔3〕ポセイドンの兄、ハデスについてである。彼はキリスト教世界では[地獄]を意味する名(ハデス)を持つ神だが、[人外の領域の体現存在]であると私は見ている(:ここでは奇矯なること、おかしなことを見ぬ言わぬ知らぬで通すが最上の処世術であるととらえているような常識人、それでもってこれから「も」生き残っていけるであろうと ―実に遺憾ながら「非論理的に」― しゃにむに「信じている」節がある常識人が[人外]などという言葉を聞けばどういう反応をするかを推し量ったうえで敢えてもそういう話をしている)。
 何?「地獄(ハデス)には蛇と結びつくサタンがいるからか」?
 極々単純化させて言えば、そういうことだが、話は無論、それだけではない。ハデスが[隠れ兜]を持っていることに着目する必要があるのだ(後に言及するが、そこにいう[隠れ兜]、ゼウスの[雷]、ポセイドンの[三つ叉の矛]は[日本の三種の神器]よろしく[完全にワンセットの神器]である)。
 隠れ兜、その名の通り、
[所持者の姿を完全に見えなくする神器]
だが、それによって示唆されるのは見えない世界そのもの、この次元に関与してくる存在の拠点たりうる異空間だと述べもすることが可能なのである。
 何?「とてもではないが、ついていけないような飛んでしまっている発想だろう」?
 無論、そう考えて然るべき物言いではある(ここまでの話からして[飛びに飛んでいる話]と常識人は受け取ろうとするのではないか、と憂慮してしまうところなのであるも)。
 だが、読者の方々にはまずもって知っておいていただきたい。次のようなことを、である(それは[問題意識の所在]と題した本Webサイト上のカテゴリでも冒頭ページから言及している話でもある)。

2001年の9月11日に起こった同時多発テロなどとも呼称される事件。あの事件が起こることを露骨に事前に指し示した映画作品が非常に多いのだが最近は表面上、ほとんど再生されていないように見えるも、それについて扱った極めて説得力高き関連英語動画が公開されている)、その事前示唆映画群の中に SUPER MARIO BROS.『(邦題)スーパーマリオ 魔界帝国の女神』という作品がある
 同映画、日本の大人気ゲームの内容が翻案の上、映画化されたものなのだが、次のようなストーリーのものになっている。
[地下とも接合する、この世ならざる次元に存在する恐竜帝国。その有力者としての恐竜人が次元を接合、この次元に対する侵略を企図している]。
 そのようなストーリーが映画公開後、かなり後になって欧州で最大限、物議を醸すようになったデービッド・アイクという男の主張に通底するということも問題としてあるにはある(デービッド・アイクという男はこの人間の世界が異空間や地下から介入してくる爬虫類人に支配されているとの説を提唱し、物議を醸すに至っているのだが、アイクが映画と酷似したそのような説を"表立って"提唱しだしたのは1999年の彼の著作の刊行以後であるととれる。それは映画の公開の後、6年経った時分の話だ:デービッド・アイクが最大限、流布させた爬虫類人人類支配説自体の分析については本Webサイト上の[爬虫類人人類支配説の分析]という記事に譲る)。
 映画の粗筋がアイクという男の主張に通底することも問題としてあるのだが(アイク自身もマリオ映画のことを自著で一言だけ触れている)、最大の問題は映画『(邦題)スーパーマリオ 魔界帝国の女神』が上階に穴が空き倒壊するワールド・トレード・センターを登場させ、あまりにも露骨に後の911の事件を事前描写していたことであり、別次元にある恐竜人達の拠点、クッパ・タワーなるものがこちらの次元のWTCと融合する様を描いていたことである爬虫類人かどうか知らないも ―ほぼ確実にそれに類する存在と見ているが― 、911の事件が映画の筋立てよろしく、そういった存在がこちらの次元に入ってくる上での前夜祭になっている「可能性」を臭わせるているように見える「他」サブカルチャー作品も存在している:[問題意識の所在]と題した本Webサイト上のカテゴリ参照のこと

 上のような話、認めたくはない、だが、認めざるをえないような話を目にしてハデスの住まう[地下の領域]に意味を見出すのも無理なからぬこととご理解いただけたのではないだろうか(:映画で望ましくない存在達が策源地としている[異次元的なる意味合いを付加された地下世界]がキリスト教世界に言うところの[ハデスこと地下の冥界]あらため[サタンが住まう地獄]と結びつくと述べたいのだとご理解いただけたのではないだろうか)。
 であるからこそ、地下の冥界そのものの名にもなっているハデスが姿を隠す際に用いる道具としての[隠れ兜]に比喩を見てとりもするのだが、それが三種の神器の一、八咫鏡(ヤタノカガミ)と対応していると考えることが出来るからこそ「実に」問題なのである。

 どういうことか。
 第一に
「日本では古来より鏡を神体として神棚に祭る風習がある」
とのことがある((時間がなき中ながら)精神修養にとかつて嗜んでいた合気道、その道場にて神棚に据え置かれた鏡(神鏡)に対する礼 ―正座したうえで頭を下げる最敬礼方式― を他の立派な方々がわざわざ毎回、なされるという決まり事を目にし、かつ、己もそれをやりながら、疑問に思っていた信心絶無の口が私なのだが)。
 第二に
「鏡の語源は[カガ]こと[蛇の古語]に由来するという説がある(比較的有名なところである。正月に飾る鏡餅「カガ」ミモチがあのようなとぐろを巻くが如く形状をとることも類推されるところとして、である)。そして、そのことが[神体を飾る注連縄(シメナワ)が交接する蛇に由来するとの説]と接合しもする」
とのことがある(上述した不快な映画で異次元の世界にいた存在は何か。あるいはデービッド・アイクの言う説にいうところの異次元の世界にいる蛇の象徴に固執すると主張される存在は何か。蛇を爬虫類つながりで想起させる爬虫類人(英語ではレプティリアンと呼称)である)。
 第三に
「鏡をモチーフにした物語、『鏡の国のアリス』に見られるように鏡の世界は多重連結空間、ひいてはアインシュタイン・ローゼンブリッジ(別名ワームホール)を想起させるものであるとの見解が一流の物理学者の一部にある」
とのことがある([問題意識の所在]と題したカテゴリにて、ミチオ・カクという人物の著書、 Parallel Worlds; A Journey Through Creation,Higher Dimensions and the Future of the Cosmos『パラレルワールド』内の記述を例に引き、そのことを解説している)。アインシュタイン・ローゼンブリッジは ―もしそれが科学的に構築可能となれば― [異なる時空間を結ぶ通路]としての役割をも想起されるものである。

 以上の理由から鏡を人外が住まう存在の世界、あるいは、その存在が人間の世界に介入してくる[窓]ととらえ、その鏡を介しもしハデスの[隠れ兜]と結びついていると考えられると述べるのである(:ちなみに、のような話は[ゼウスの雷][ポセイドンの三叉の矛][ハデスの隠れ兜]が[同一の縁起]を持つ[ワンセットの三種の神器]と形容されようものに ―日本の三種の神器よろしく― なっていることを論じきらないと話が決着を見ないと考えている)。

[左]ヘラクレスの先祖、ペルセウスによって首を狩られた怪物メデューサ。その似姿を描いた画。メデューサは蛇の髪を持つこと、そして、眼を合せた相手を石化させたとの伝承で有名である。
[右]三種の神器の一、八咫鏡(ヤタノカガミ)の想像図。鏡という言葉の語源がカガこと蛇の古語にあるとの説があることは直近既述のことである。
 さて、ペルセウスがメデューサを討った際、[鏡]のように磨かれた楯を用いたとの伝承が伝わっている(:メデューサと直に目をあわせて石化されることを避け鏡越しに相手の位置を捕捉したとされる)。
 ペルセウスが用いたその楯、異伝ではアテナ神 ―古のトロイア城市が木製の馬によって陥落するのを直接的に後押ししたともされる女神― がペルセウスに貸し与えた[イージス(英語読み:アイギス)の楯]であるとされる(:大人の常識人の世界で馴染み深きイージス艦の語源はアテナの楯、イージスにある)。
 そして、同イージス(アイギス)、
[ありとあらゆる災厄を払うとされる防具]
に女神アテナが後、刈り取られたメデューサの首を嵌めこみ、より完成度の高い神具にしたと神話にはある。
 ここで次の各点について考えてみるべきだと強調したい。
何故、「目を合わせた人間を石にする蛇の髪を持つ怪物が磨き抜かれた鏡越しに討たれた」/「蛇の髪を持つ怪物の首が磨き抜かれた鏡の楯とも同一視される神具(アイギス)に嵌めこまれた」などという[突拍子極まりない話]がギリシャ神話には含まれているのか神話成立に影響していると文化人類学などで語られる文化的背景が感じられない異常な説話だろう)。
何故、古代ギリシャからの伝承伝播を位置的に観念しがたい地たる日本にあってもまた[鏡]というものが ―メデューサとアイギスの関係よろしく― 蛇(カガ)と結び付けられている(先述)などということがあるのか
 上の二点につき考えられるところの多くを呈示せんというのが本記事本義である。

 いかがだろうか。上の〔1〕から〔3〕を読まれたことで、
「ギリシャ神話の主要な三神と日本の三種の神器の間に相関関係が成立している、[人間に対する操作の象徴]としての相関関係が成立している」
との考えが成り立ちうることが「一面で」お分かりいただけたのではないだろうか。

 一言でまとめれば、次のような形で、だ。

「ゼウスの雷と[草薙の剣]は[(魂を縛る)蛇のケーブルの象徴]たりうる。
 ポセイドンの三つ叉の矛(で体現されるギリシャアルファベットのプサイ)と[八尺瓊勾玉](ヤサカニノマガタマ)は[蛇のケーブルで縛られる魂の象徴]たりうる(魂が縛られるが如しの形で憑かれたようになっている存在がフリーメーソンであるという異説が今日、欧米で物議を醸している。カルト団体の成員の姿なぞを見るとあくまでも相対論の話にもとれなくはないが)。
 ハデスの隠れ兜と[八咫鏡](ヤタノカガミ)は[魂を縛る蛇のケーブルがこの世界にひかれてくる先の領域の象徴]と解釈できる」

 が、と述べた上でも
「やはり暴論ではないか」
ととらえる向きは多いだろう([委細を多く当サイト内の他所に求めつつのいささか強引な話の展開]からして当然そうだろうと考える)。
 ゆえに[さらなる解説]を続く段でなすのだ、とし、まずもって次の図をご覧いただきたい。

 上掲[左上]の絵画は19世紀後半から20世紀初頭にかけてのフランス人画家オディロン・ルドンの手になる絵画、『キュクロプス』である。
 実のことを言ってしまって、同画、
[フリーメーソン絡みの象徴画]
とも解されるのだが(そのように述べる理由は当記事の続く段にて解説するとのことで多少後回しにするが、ルドン絵画の下に挙げた[プロビデンスの目]とも呼ばれる象徴、由来諸説あるもフリーメーソンの象徴体系上でも頻用される[三角形の中の目]のシンボルと同画を線で結んだのにはそういった背景がある)、 そのことにも接合することとして「問題は」である。ルドンの絵にも描かれる[鍛冶職人としての一つ目巨人キュクロプス]がゼウスに[雷]を与え、ポセイドンに[三つ叉の矛]を与え、ハデスに[隠れ兜]を与えたとされていることである上に操作の象徴として挙げたものらは"はなから"ワンセットだったのだ(いいだろうか。日本の三種の神器がそうであるように三つ揃えワンセットの神器である

 だけではない。
 キュクロプスは[一つ目の存在]だが、上掲にてその一つ目巨人が与えた操作のシンボル(と強調したきもの)、そう、
[人間の魂と呼ぶべきもの(あるいは量子学的なる意味での本質と呼ぶべきものか)に関わっていると解釈可能である(と当記事で指し示さんとしている)操作のシンボル]
が出来すぎているほどに接合している、ということもある。
 何と接合しているのか?
[北欧神話の主神オーディン ―同北欧神話主催神には「蛇の杖を持つ」ローマのマーキュリー神との由来縁起上のつながりがあるとの指摘がなされていること、当記事の先の段にても一言触れた― がサイクロプスよろしくの[一つ目の存在]として[勇士の"魂"を狩らせる存在]として描かれていること]
とである。
 と述べたところで、強調するが、
「さて、フリーメーソンなぞによくも用いられる象徴が重きをなしてくる」
 そう、彼らのエプロン ―" Freemason, apron "とでも(英語情報に強い検索エンジン上で)画像検索され事例確認されるのもよかろう― に頻繁に描かれる[気色の悪い亜空間から覗く一つ目]である多くのフリーメーソンリー成員が関与していたことが史実であるとされるフランス革命にての人権宣言には(その理念を嘲笑うように)[三角形の中の一つ目]が描かれている。また、多くのフリーメーソンが関与して成立したアメリカ合衆国の国章にも同様に[三角形の中の一つ目]が採用されている。にも関わらず、[三角形の中の一つ目]、すなわち、[プロビデンス(神の摂理)の目]とも称されるそれ自体の頻用はメーソンとは結びつかず、キリスト教の象徴体系上の問題であるとする[論客]らがいる(三角形の中の一つ目をしてフリーメーソンの象徴を超えたもの、アダム・ヴァイスハウプトという男が組織したイルミナティという奥の院の秘密結社の暗躍の顕現であると不明瞭ながらも断じる向きがいる一方で、である)。 といった風にものの見方が割れているのが[三角形の中の一つ目]という象徴主義にまつわる問題なのだが、はきと述べられることがある。[三角形の中の一つ目][亜空間から覗くが如く一つ目]がフリーメーソンの象徴「にも」なっている、ということがそうである ―ポイントは「にも」である― 。であるから、「疑わしきはフリーメーソンのエプロン(たとえばワシントンの使用したエプロン)などを検索されるなどしてその特徴を把握してみればいい」としている。そこには[亜空間から覗く一つ目]が気色悪くも描かれていること、ご理解いただけるはずである)。
 私はフリーメーソンの支配者がオーディンで体現される存在だとは「早急に断じはしない」が ―「十中八、九そうであるととらえるも」オーディン・シンボリズムには分からないところもある― 、出来すぎている、と述べるべきところだろう(フリーメーソンとオーディンを結びつけて語るのは無論、私だけではない:[メーソンとサイクロプスの関係]についてはすぐ下に書く)。

 まだだ。[画家オディロン・ルドンの絵とキュクロプスがフリーメーソンと結びつく背景]として挙げるべき次のようなことも本件と関わってくる。

「1995年に封切られたフランス映画、 La Cité des enfants perdus『ロスト・チルドレン』。同映画は子供の組織的誘拐絡みの映画だったが、そこに[これぞ魂を抜かれた人間の集合体といった風情の犯行組織]としてサイクロプス(邦訳名:一つ目教団)という組織が出てくる。劇中に出てくる異常な集団、内面に処置を施された集団としてのその集団、サイクロプスの象徴体系はフリーメーソンのそれと一致するものとして映画では描かれている」。

 そう、事情通には
サイクロプスがフリーメーソンのような魂が抜かれきったが如き者達の象徴たりうること
が実によく分かっていると述べられるようになっているのである
。そのことが神話にてサイクロプスが神々に与えた神器(ゼウスの雷/ポセイドンの三叉の矛/ハデスの隠れ兜)と[内面への処置という観点]から不気味に接合していることは何度、強調してもしたりない(この段階では「まだ」印象論と思われるかもしれないが)

 一つ目巨人の話から一転、次いで、上掲の[右上]の絵について触れる。
 同画、北欧神話の雷神、トールが神々の最終決戦時、大蛇ヨルムンガンドと対峙する一幕を描いたものである。近代、描かれた同画には[欧州に伝わる聖人ゲオルギウスの竜退治の構図]も影響していると指摘しつつ、ここではトールが大蛇ヨルムンガンドにトールハンマーをくらわせようとしている様をゼウスの雷、いや、[蛇のケーブル]の先ほど、なした話を想起しつつご覧いただきたい
 雷を介した操作につき思うところがないだろうか?(先に述べた[日本のテレビゲームのハリウッド映画化作品で911の事前描写をなさせるような存在]の件も加味した上でも思うところがないだろうか)。
 何、「何も思わない」?
 であるならば、トールハンマー、[ミョルニルと北欧神話で呼称される神器]が絵画の下の上掲右下に挙げたような形状をしていたと(考古学では)されていることに着目してほしい。
 およそハンマーには見えないそれが「人外の顔を描いたものだ」などと馬鹿なことを馬鹿な(あるいは詐狂者的な)手合いよろしく揚言するつもりはないが、唐草模様が蛇を想起させるものであることがよく分かるはずだ(人類史のレリーフは北欧に限らずどこもかしこも蛇紋様であふれているのでトールハンマーのそれについても相対論の話にならざるをえないのだが)。
 そういった側面を把握した上で
「トールハンマーがかざすだけで雷を生じさせたものである」
とされていることを押さえれば、そこからして[雷と結びつく蛇のケーブル]の話を想起することは容易いはずだ。
 何?まだ、こじつけがましい?
 そういう向きを想定しもし、下に挙げる各点のようなことがある、と指摘しておく

・[当記事にあっての指し示し]との兼ね合いで[極めて重要なところ]であるとの話をなす。
 その点、まずもって述べるが、
ゼウス達に雷や三つ叉の矛を与えた原初の一つ目巨人キュクロプス達には雷にまつわる名前が神話上、付されていた
とされる、とのことがある(:英文資料で確認できることとして[稲光]を意味するアルゲス、[稲妻]を意味するステロペス、[雷鳴]を意味するブロンテスが挙げられる)。
 とした上で着目すべきは
「(その)キュクロプス達のせいで息子アスクレピオスの死がゼウスの雷によってもたらされたと激昂したアポロンによってキュクロプスらが殺された
との神話上、比較的知られたエピソードが存することである(:キクロプス達自身が殺されたとするのは古代ギリシャの著述家、アポロドロス。対し、一つ目巨人の息子たちが復讐によって殺されたとするのは右はギリシャの三大悲劇詩人の一人、エウリピデス。雷関係の名前を有するサイクロプスらがアスクレピオス殺害絡みのとばっちりをくらってアポロンに殺されたとの伝承が存することは和文ウィキペディア[サイクロプス]項目程度のものからでも「現行」(ただし「今後も」かは媒体易変性より保証しかねる)、裏をとれるようになっている)。
 そして上の
[アスクレイピオスの命の対価としてのサイクロプスら殺しのエピソード]
「蛇と雷を間接的に接合させている」エピソードでもあり、なおかつ、「魂と蛇と稲妻の寓意を結びつける(ここが重要)」エピソードでもあるとも述べられる。
 どういうことか。
稲妻と結びつくキュクロプス製ゼウスの雷によって殺された」アポロンの息子アスクレピオスは[蛇の杖を持つ医神]として欧米では極めて有名な存在であり海外の救急車やWHO(世界保健機関)のシンボルに蛇の巻きついた杖が用いられているのはアスクレピオスの医神伝承ゆえにである)、アスクレピオスとくれば真っ先に[蛇の巻きついた杖を象徴とした存在]と言われる形となっているとのことがありその[アスクレピオスの蛇の杖]よろしくの[蛇の杖]の寓意的象徴物が欧州で歴年、遥か昔より魂の象徴物(鳩)と結び付けられてきた、ということが現実に存するからである ――※[蛇の杖]が[魂の寓意物]と歴年結びつけられてきたことについては参照先として[問題意識の所在]と題しての本サイト他カテゴリにあっての詳述部を当記事の上の段にて紹介している―― (といったこととあわせて、[蛇の巻きついた杖を持つ者として有名な存在]が[雷絡みの名を有する一つ目巨人たち]が造った[雷]で殺され、それがために一つ目巨人達もとばっちりを喰らって殺されたなどというシュールな話がどうして現在に伝わっているのか、考えてみる必要がある:いわゆる[反対話法]であると受け取れる素地がそこからしてある)。

 彼を体現した星座、へびつかい座(サーペンタリウス)のシンボルが[蛇の杖]となっているように蛇の杖と結びついた存在、アスクレピオス。伝説的名医とも知られる同アスクレピオスの死因は[ゼウスの雷霆(らいてい)]によって殺されたことにあるとされる ―正確にはアスクレピオスのせいで死者が生き返って困ると苦情出してきたハデスの要求でゼウスによって雷で殺されたと神話に語られている― 。
 それにつき、アスクレピオス([蛇の杖によって象徴化される存在])の死を悼んだアポロンがゼウスに[雷霆]を、ポセイドンに[三叉の矛]を、ハデスに[隠れ兜]をこれぞ三種の神器との形にて提供した一つ目巨人(サイクロプス)ら、すなわち、[稲光]を意味するアルゲス、[稲妻]を意味するステロペス、[雷鳴]を意味するブロンテスらの一つ目巨人らを八つ当たりとして殺害したと伝わっている時点でアスクレピオス象徴となっている[蛇の杖](当記事の上の段で委細を他に譲りながら[魂の象徴物を縛るもの]としての象徴的意味合いがあることを論じている、とのものでもある)と[イカズチ]が結びついている、そのように判断できもしようものである。

・唐突だが、私は著書『人類と操作』(オンライン公開の運びとなりもした著書)にて人間の歴史に垣間見れる
[文化伝播では説明がつかないパラレリズム(類似性)の問題]
を多々、取りあげている。
 その中の一事例として
[旧約聖書の記述と日本の記紀(古事記と日本書紀)の記述内容の驚くべき一致性]
のことを挙げているのだが(同様の伝のことを述べている日ユ同祖論者らの話柄の欺瞞性を指摘しつつも挙げているのだが)、その中にも、
[蛇と雷の信じがたい形での結びつき]
を見出すことだが出来る。
 次の「」内に述べるような形で、である。

旧約聖書の中の民数記には"迂回を強いられたりしつつの長征途上"、モーセが神より与えられた[青銅の蛇]で民を癒したとの記述がある。他面、日本の記紀には"迂回を強いられたりしつつの長征途上"、神武がタケミカヅチこと建御雷神より剣、[布都御魂]を与えられてそれでもって民を癒したとされる(本記事との兼ね合いでは余談だが、「モーセも神武も共に七人の女の中から伴侶を選択した」とされてもいる)。[青銅の蛇]も[布都御魂]も長征途上、霊的な病を引き起こす力で倒れた者達を癒すために使われた神器として対応しているのだが、一方は[蛇絡みの存在]であり、もう一方は[雷絡みの存在]である[青銅の蛇]はの体現物。[布都御魂]は雷神であるタケミカヅチに与えられたにちなむもの)。それもまた[蛇と雷が相関関係の範疇内のもの]と言える。元来、存在自体が不自然なパラレリズム(聖書と記紀の一致性)の中での結びつきゆえに水際立ったものとして現れてくるものとしての、である

 上の「」内の対応関係に関しては[蛇の杖]に対応している雷神由来の[布都御魂]が名前の時点で[魂]の字を含んでいることにも意味を見出しても行きすぎではないと強調したい次第である。そも、信じがたいような類似性 ―旧約聖書と日本の記紀の間に横たわる類似性― が確と見て取れるような領域にまつわることとしてそこに何らかの「他の」背景事情をも見て取らんとすることは行き過ぎたことではないととらえられるし、上述のように[神話・伝承上で雷とむすびつくよう調整されている蛇のケーブル]たる[蛇の杖]は[魂を縛るケーブル]でもあると歴史上の象徴分析から解せられるようになっている、とのことがあるからだ(続く次頁でもその点に関する解説を続けていく)。

 旧約聖書(の中の民数記の部)には
[モーセが約束の地への長征の途上、神から与えられた[青銅の蛇](ネフシュタンと呼ばれるもの)で民を癒す]
との描写がなされている。
 他方、日本の記紀神話にあっては
[神武が長征の途上、[元はと言えば建御雷神タケミカヅチ(すなわち雷神)の所有物だった布都御魂(フツノミタマ)]の霊力で軍勢を毒気から回復させた]
と記述されている。
 といったエピソードをそれぞれ含む[旧約聖書のモーゼの物語]と[日本の記紀神話の神武東征の物語]に類似性がそれぐらいしかなかったならば、
[ただの偶然]
で話を済ませていいかもしれないが、実際にはモーセの物語と神武の物語には他にも類似性がある(⇒自著にても取り上げている比較的よく知られ、後追いも容易な具体例を挙げる。[神武もモーゼも東部への大移動を試みている]/[神武もモーゼも移動の途上、不本意なる滞留を強いられている]/[神武もモーゼも七人の乙女から妃を選んだ]/[神武もモーゼも移動の中、兄を失っている](との同一性が現実にある))。
 とすれば、先述の、
青銅の蛇による同行者らの回復](旧約聖書)
雷神の剣とも言い換え可能な布都御魂による同行者らの回復](記紀神話)
との一致性の背景には[それなりの事情]があると考えられることになりもしよう。その[それなりの事情]とも結びつくことと考えられることとして、問題のパラレリズムが
[[蛇の杖]と[雷神の武器](タケミカヅチから授けられたとの[布都御魂])の一致性]
と純・記号論的に置き換えられること、それが当記事全体にて指し示さんとしていることと接合するよう見て取れることが問題になる。

:その点、スサノオミコトは大蛇ヤマタノオロチを[天羽々斬](あめのはばきり)と呼称される剣を用いて退治したと伝わる。その[天羽々斬](あめのはばきり)の別名が[布都斯魂剣](ふつしみたまのつるぎ)と呼称されること、そして、その[布都斯魂剣]が似たような語感の[布都御魂]と同一物としての扱いをなされているとされることからして問題になる ――※出典として:スサノオがヤマタノオロチを討ったときに用いた[天羽々斬]との剣についてはそれが[布都斯魂剣]と呼称されることも含めて和文ウィキペディアの[天羽々斬]項目に現況、記載されている。また、[天羽々斬]こと[布都斯魂剣]が似たような語感の[布都御魂]、神武がその東征の折に入手したと記紀神話が語る[(雷神タケミカズチの剣たる)布都御魂]と同一視されるとの扱いを受けていることは特定神社にまつわる和文ウィキペディア特定項目に記載されている。すなわち、岡山県に存在する社格が[郷社]とのことである(要するにそれなりの歴史的背景がある)[石上布都魂神社](いそのかみふつみたまじんじゃ)との神社の概要解説がなされている和文ウィキペディア[石上布都魂神社]項目に記載されている(記載内容の変転を見ておらぬ限りその程度のソースの読解ですぐに裏取りいただけるだろう)―― 。
 以上より、こう言いたいのである。
スサノオが[天羽々斬]との剣でヤマタノオロチを斃して得たのがかの[草薙の剣](三種の神器)である。その草薙の剣の入手につながった[天羽々斬]との剣、別名が[布都斯魂剣](ふつしみたまのつるぎ)となる剣は記紀神話に登場してくる[布都御魂](ふつのみたま.雷神タケミカズチの剣)と同一視されることもある。その[布都御魂]が上述の[記紀神話と旧約聖書の奇怪なパラレリズム](存在することだにおかしなことであるとの一致性)の中では[蛇の杖]に比定されるものとなっている。
 ゆえに、
[蛇の杖] ⇔(旧約聖書と記紀神話に[文献的事実]として認められるパラレリズム)⇔ [布都御魂](雷神の武器) ⇒ [布都斯魂剣]・[天羽々斬] = [スサノオがヤマタノオロチを殺すこと、草薙の剣を入手するとの結果につながった行為に用いた剣]
との関係が記号論的に成立していることになる。
 そこから多頭の蛇の尾より出てきた草薙の剣(三種の神器の一)には[蛇の杖]とも[雷神の武器]([ゼウスの雷霆]とてその類と言えようもの)とも結びつくとの要素が伴っていることになる」 )

 どうだろう。上に挙げた各点 ――第一点目の[[雷を名に持つサイクロプスら由来の神器]と[蛇の杖]と[魂の寓意]の結節点にまつわる話]も第二点目の[歴史的パラレリズムにまつわる奇怪なる点の指し示しをなしている話]も当記事指し示しとの兼ね合いで重きをなすものとなる―― によって[[雷]と[魂を縛る蛇のケーブル](と形容されようもの)が結びつくとの話]が一面で説得力を帯びたものであることがお分かりいただけたのではないだろうか。

 当記事は長い。ゆえに、ここで頁を改めることとしよう。先を読む気になられた方は下のリンク・テキストによって呈示している[以降の内容へ]の途をお通りいただきたい。

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追記として

 上掲左は13世紀、中世末期にあっての先覚的技術者であったとされるペトルス・ペレグリヌスがものしたことで知られる Epistola Petri Peregrini de Maricourt ad Sygerum de Foucaucourt,militem,de magnete、いわゆる『磁気書簡』(の焼き直し版)に見る[磁石作用に関する構図]よりの抜粋となる。
 対して上掲右は電気・磁気概念の生みの親とされる17世紀イングランドの先駆的科学者ウィリアム・ギルバードの手になる De Magnete, Magneticisque Corporibus,et de Magno Magnete Tellureこと『磁石および磁性体、巨大磁石としての地球の機序』の表紙絵となる。

 以上、二つの[電磁気学の発展史にあって重きをなす書物]らよりの抜粋をなした意図は当記事のここに至るまでの内容からも自明か、と思う。そう、ポイントは今日的な意味での電気概念・磁気概念の生みの親ともされるウィルアム・ギルバートの上に表紙絵抜粋した著書のようなものにさえも[[蛇の杖にまつわる寓意]と[雷]の歴史的接合性]の影響が見て取れそうであるとのこと、示唆したくも上のような抜粋をなしたのである(と述べても、往時の出版慣行に由来する事情から他の印刷物にも[蛇の杖]の構図が用いられていたケースがあるかもしれないと見、その伝でのことはあまり強くは訴求すべきではないか、とも見ているのだが)。

 さて、当記事の次ページ以降にあっての続く段では同様のこと、
[雷あるいは雷「的なるもの」が[蛇の杖]の類と執拗に結び付けられていると指し示せるように「なっている」こと]
をより細かくも示しもし、そのことが[操作の寓意]との絡みでも問題になると解されることを ―誤解を恐れずに― さらにもって指し示していく所存である。