典拠となるところの明示[44]――ギリシャ神話における黄金の林檎が「何故、」エデンの一幕
と多重的に結びつくと述べられるのか、また、どうしてそのことが問題になるのかについて

関連情報にまつわるカテゴリ(各部クリックにて遷移)

[アメリカ大陸にてのケツァルコアトル崇拝ありよう]と[聖書の筋立て]の符号性について

 先立っての頁にあっては


[[ヘラクレスの11番目の功業に登場する黄金の林檎]が[エデンの園の蛇の誘惑]に関わるとのことからしてブラックホール生成問題と結びつくようになっているとのことが ――実にもって問題となる文献的記録らを通じて―― 指摘できるようになっている


とのことを証示するための[布石]となるところであると明示して論じてきたとの、


[ヘラクレス11番目の功業 ――(こちらヘラクレス第11功業に登場する[巨人アトラス]および[黄金の林檎]を巡る話がいかようにしてLHC実験と多重的に接合しているかは先に具体的典拠を挙げ連ねながら先立っての段にて詳述に詳述を重ねてきたこととなる)―― にあっての[黄金の林檎](トロイア崩壊の原因たるもの)が聖書『創世記』に見るエデンの蛇による誘惑の物語と接合している]


との点について「さらに加えても、」の話をなしており、の流れの中で

「コロンブスが[新大陸]として発見した[アメリカ]こそが[古のアトランティス]であると看做す風潮が大航海時代以降の欧州にあった」

「そちらをアトランティスと看做す風潮が欧州人にあったとのコロンブスが「発見」した[アメリカ]にあってはケツァルコアトル信仰というものがかつて存在しており、同ケツァルコアトル信仰が[エデンの蛇の物語]と接続するような要素を多重的に伴っていると示せるよう「にも」なっているとのことがある」

とのことらについて典拠紹介なしながらもの指し示しをなすとの方向に舵を切った(:上の各点もが[黄金の林檎]と[エデンの一幕]の接合がブラックホール人為生成問題に記号論的に相通じているとのことに関わっているとのことがある ―話柄としては無論、奇態なことながらも現実問題としてそういうことがある― ためにそちら指し示しをなすとの方向に舵を切った)。  
 そして、直前頁では、うち、

「[アメリカ]こそが[古のアトランティス]であると看做す風潮が大航海時代以降の欧州にあった」

とのことについて指し示しなし(出典(Source)紹介の部52)、加えて、

「そちらをアトランティスと看做す風潮が欧州人にあったとのコロンブスが「発見」した[アメリカ]にあってはケツァルコアトル信仰というものがかつて存在しており、同ケツァルコアトル信仰が[エデンの蛇の物語]と接続するような要素を多重的に伴っていると示せるよう「にも」なっているとのことがある」

とのことについてケツァルコアトル(アステカ文明で崇められていた主要神格)の[蛇神としての側面][金星の体現存在としての側面][文明の接受者としての側面]についての指し示しをなすとのことまでなした(出典(Source)紹介の部53(2)および出典(Source)紹介の部53(3))。

 ここ本頁では以上、振り返りもしての直前頁の流れの延長線上として[ケツァルコアトルとエデンの蛇の接合性]について煮詰めるべくもの話をなしていくこととする。

 かつて中部アメリカ、現在のメキシコ界隈に拠って栄えたアステカ文明の担い手であったナワ族に民族の運命が重ね合わせて見られていたとのケツァルコアトルという神については

[同神を崇拝していた地域の住民(アステカ帝国住民)の期待を裏切ることになったが如く神]

でもあることについて指し示すことにする。直下、出典紹介部を参照されたい。


| 出典(Source)紹介の部53(4) |

 ここ出典(Source)紹介の部53(4)にあっては
「ケツァルコアトルという神が同神を崇拝していた民族を裏切るが如く結果を現出した存在である」
とのことの典拠を挙げることとする。

先に、

AMERICAN HERO-MYTHS. A STUDY IN THE NATIVE RELIGIONS OF THE WESTERN CONTINENT(19世紀にて声望高かった Daniel Garrison Brintonという米国人考古学者の手になるアメリカ史分析書となり、現行、 Project Gutenbergにてダウンロード出来る1882年初出の著作)

の内容を紹介した出典(Source)紹介の部53(2)の部にて、(上著作より引用なしていたところとして)、

He is born there, and arrives from there, and hence Las Casas and others speak of him as from Yucatan, or as landing on the shores of the Mexican Gulf from some unknown land. His day of birth was that called Ce Acatl, One Reed, and by this name he is often known.

「ケツァルコアトルにつきラス・カサス(訳注:スペインのインディオに対する虐殺にまつわる記録を遺したことでも有名なスペイン人修道士たる史家[バルトロメ・デ・ラス・カサス]のこと)や他の人間は[ユカタン半島あるいは未知なる土地からメキシコ湾海岸へやってきた存在]と言及している。ケツァルコアトルの降誕の年はセーアカトル( Ce Acatl )、一の葦の年となっており、その絡みで彼はしばしば知られるとのことになっている

との記述が含まれていることは既に紹介していたところとなる(疑わしきは本稿のそちら出典番号のパートを見直していただきたい)。

 そのようにケツァルコアトル降誕が
[一の葦の年]( One Reed
と結びつけられていることがケツァルコアトルがその崇拝をなしていた文明の担い手らを裏切っての結果を現出したこととつながっている。

 それについては下の和文ウィキペディアの記述らよりも多くのことを理解なせるようになっている。

(直下、和文ウィキペディア[アステカ]にて現行記載されている通史としてのアステカ侵略の顛末にまつわる記述の引用をなすとして)

アステカにはテスカトリポカ神に追われた白い肌を持つケツァルコアトル神が『一の葦』の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。帰還したケツァルコアトルが古い世界を破壊して新しい世界を建設すると信じられていた。・・・(中略)・・・この伝説により、『一の葦』の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受けとられ、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった。・・・(中略)・・・メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。1519年2月、ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆した。・・・(中略)・・・1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した。・・・(中略)・・・1521年4月28日、トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した(テノチティトラン包囲戦)。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした。・・・(中略)・・・その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した。・・・(中略)・・・その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民はあっという間に激減した。

(引用部はここまでとする)

(直下、和文ウィキペディア[ケツァルコアトル]項目にての[概要]の部よりの引用をなすとして)

その名は古代ナワトル語で「羽毛ある蛇」(ケツァルが鳥の名前、コアトルが蛇の意)を意味し、宗教画などでもしばしばその様な姿で描かれる。また、白い顔の男性とも考えられている。ケツァルコアトルは「セーアカトル(一の葦の年)に復活する」と宣言してアステカを立ち去ったといわれており、16世紀初頭にコンキスタドールが侵略してきた際、コルテスがメキシコに来た1519年が偶然にも「一の葦の年」と一致したため、アステカ人達は、白人である彼らをケツァルコアトルの再来かと錯覚し、対応を遅らせたとも言われている

(引用部はここまでとする)


(※注記:英文Wikipedia[ Hernán Cortés ]項目には
Moctezuma gave lavish gifts of gold to the Spaniards which, rather than placating them, excited their ambitions for plunder. In his letters to King Charles, Cortés claimed to have learned at this point that he was considered by the Aztecs to be either an emissary of the feathered serpent god Quetzalcoatl or Quetzalcoatl himselfa belief which has been contested by a few modern historians.
「皇帝モンテスマはスペイン人らを懐柔するというよりむしろ[有り余るほど]の黄金の贈与をなし、スペイン人の略奪への野心に油を注ぐとのことをなした。カルロス王への手紙の中でコルテスはそこから自分が羽毛ある蛇よりの神使ないし羽毛ある蛇それ自身とアステカ人に考えられているようであるとのことを述べており、モンテスマの所信の信憑性については極少数の歴史家にのみによって疑義呈されてきた(ほとんどの歴史家はコルテスの確信をその通りのものであるととらえていた)」
と記載されており、
[1519年(既述の[一の葦の年])にアステカに軍兵伴ってやってきたとのスペイン・サイド征服者たるエルナン・コルテス]

[ケツァルコアトル、ないし、そのゆかりの者]
と看做され、それが征服を容易ならしめたのは事実であると過半の歴史家 ―全部ではない― に認知されているように記載されている。
 ただし、同じくものWikipedia上の記述にての出典として紹介されている Seven Myths of the Spanish Conquestという著作の著者であるその方面を専門とする歴史家 Matthew Restallは「コンキスタドレス(新大陸征服者)の代表的人物の一人であったコルテスが羽毛の生えた蛇と同一視されて征服が容易になったということ自体がスペインによるアステカ征服の後、間もなくしてより広がりだした伝説染みたものである」との申しようをなしてもおり、については英文Wikipedia[Quetzalcoatl]項目の[ Belief in Cortes as Quetzalcoatl ]([ケツァルコアトルとしてのコルテスにまつわる信心])との節にて
Historian Matthew Restall concludes that: The legend of the returning lords, originated during the Spanish-Mexica war in Cortés' reworking of Moctezuma's welcome speech, had by the 1550's merged with the Cortes-as-Quetzalcoatl legend that the Franciscans had started spreading in the 1530's.
「[スペイン・メキシコ戦争の渦中の折に由来する[帰還なした主ケツァルコアトル]にまつわる伝説は[コルテスがモンテスマ演説への改訂をなしたもの]が1550年代までに[フランチェスコ会士が1530年代に広めだしたケツァルコアトルとしてのコルテス伝説]と結合呈してのものである]と歴史家 Matthew Restall(マシュー・レストール)は結論付けている」
との表記がなされてもいるところである。
 といった学者由来の主張が如何ほどまでの信憑性を有していようとも、
「一つ確実に述べられることがある」。
 それはスペインサイドのコンキスタドール(侵略者)たるコルテスがケツァルコアトルと同一物と看做されたとの歴史的理解が幅広く存在していることそれ自体は事実であり、その[事実]として存在している歴史的理解 ――中身の信憑性はともかくもそういう見方が歴年呈されてきたことまでは事実であるとの理解―― に由来するところとして
アステカはケツァルコアトルの帰還信仰への妄信のために滅びを加速させられた、ケツァルコアトルに裏切られたようなかたちで滅ぼされた文明であるとの申しようが歴史的になされてきた
とのことである ――[アステカ皇帝モンテスマらがコルテスを神と信じていた][それがゆえにアステカへの侵略が容易に成就された]とのことについての初期の言及は早くも16世紀に成立していたスペイン側の記録、フランシスコ会修道士ベルナルディーノ・サアグンが編纂主導して成立した Florentine Codex『フィレンツェ絵文書』より同文の記述がみとめられる(とされる)。また、モーリス・コリス著『コルテス征略誌』(講談社学術文庫)にてもコルテスへの神格化が征服者サイド記録にて記されていることがうかがい知れるようになっている)―― )


 以上、スペインのコンキスタドール(征服者)のコルテスを[一の葦の年(1519)に帰還したケツァルコアトル]と誤信して歓迎したと伝わっている皇帝(モンテスマ2世)を為政者として戴いていたとのアステカ帝国(血なまぐさい生贄の儀を恒常的に行っていたとの式で欧米圏よりはその愚劣さ・醜悪さが永年、取り沙汰されてきたとの政体)のその末路が

「戦乱続いての疫病(旧大陸より持ち込まれたSmallpoxこと天然痘のことである)にて人口が10分の1になる破滅を見た」

とのものであるとされていることについての典拠紹介をなした。

 同じくものことよりケツァルコアトルは

[同神を崇拝していた地域の住民の期待を裏切ることになったとの神]

になっていると申し述べるのである。

出典(Source)紹介の部53(4)はここまでとする)


 ここまでにて[アトランティス]と歴年定置されもしてきたとのアメリカにあってスペイン人の征服がなされるまで崇拝されていたケツァルコアトルという神が

[羽毛を持った蛇との語感の名前の神]出典(Source)紹介の部53(2)
[金星の体現存在]出典(Source)紹介の部53(3)
[文明の恩人](同出典(Source)紹介の部53(3)
[同神を崇拝していた地域の住民の期待を裏切ることになったとの神]出典(Source)紹介の部53(4)

となっていることについての解説をなしてきた。

 対して、エデンの園にて誘惑をなした存在も同文に、

[蛇であるという存在]
[(エデンの誘惑者をサタン・ルシファーであると見た場合に)金星と結びつく存在]
[ある種の文明の促進者とでもいうべき存在]
[エデンの住人および「その子孫」の期待を裏切ることになった存在]

となってもいる。

 順次出典を挙げていく。
 まず、
[エデンの誘惑をなしたのが蛇である]
[エデンの蛇はある種の文明の促進者とでもいうべき存在である]

とのことについての聖書記述を下に引いておく(あまりにも常識的なことであるのでいちいちもって引用なすのもナンセンスか、とは思ったのであるが、バイブルというものに何が書かれているのか、そのあらためての確認整理をなしておくのも有意かとの認識で聖書記述を引いておく)。


| 出典(Source)紹介の部54 |

 ここ出典(Source)紹介の部54にあってはエデンの誘惑者としての蛇のありよう(ある種、文明の促進者となっているとのありよう)にまつわる典拠紹介をなしておく。

(直下、オンライン上にてPDF文書版を誰でも全文ダウンロードできるとの日本聖書協会『旧約聖書』創世記第2章16節-17節よりの原文引用をなすとして)

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう

(引用部はここまでとしておく)

(直下、オンライン上にてPDF文書版を誰でも全文ダウンロードできるとの日本聖書協会『旧約聖書』創世記第3章1節-7節よりの原文引用をなすとして)

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った。「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った。「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた

(引用部はここまでとしておく)

(直下、オンライン上にてPDF文書版を誰でも全文ダウンロードできるとの日本聖書協会『旧約聖書』創世記第3章22-24節よりの原文引用をなすとして)

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕されせらた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎを置いて、命の木の道を守らせた

(引用部はここまでとしておく)

出典(Source)紹介の部54はここまでとする)


 以上のようにユダヤ教・キリスト教(そして見よう見方によってはユダヤ教徒・キリスト教徒を経典の民と重んじるイスラム教)ら中近東由来の一神教の崇拝者らが[(字義通りの)不磨の大典]として重要視する旧約聖書ではその冒頭部(オンライン上より誰でも聖書の全文和訳文も確認できるなかでの『創世記』のパート)にて

[アダムとイヴが賢くなり善悪を知ることになる知恵の樹の実を[蛇]に食すことを唆されて結果的に楽園追放の憂き目を見た]

とのことが記載されているわけである。

 といった楽園追放の筋立てはある意味、
[知恵の接受](引き延ばして見れば[文明の接受])
とワンセットのものであるとも述べられる(アダムとイヴは知恵の樹の実を食したことによって(上にての聖書よりの原文引用部に見るように)「裸であることを恥じる」ようになったのであり、結果、衣服を伴っての文明の階梯を上がりだした比喩的形容であるとも述べられる)。

 そのように[知恵の接受]および[楽園追放]を同時にもたらした[エデンの誘惑者]については ―ユダヤ教の聖典たる旧約聖書それそのものにあってはエデンの蛇をしてサタンと強くも規定する文言がみとめられないわけであるものの―

[サタン]([叛乱の元・天使長]などと後に宗教の徒らに[設定]付けられての別名は[ルシファー])

であるとの解釈がキリスト教圏では歴年なされてきたとのことがある。その点については欧米にてキリスト教文学の金字塔として極めて重要視されている17世紀英国の文豪ジョン・ミルトンの手になる『失楽園』よりの一部引用をなしておくこととする。


| 出典(Source)紹介の部54(2) |

 ここ出典(Source)紹介の部54(2)にあっては
[著名古典にてエデンの誘惑者がサタンとしていかように表記されているのか]
についての例示をなしておく。

(直下、[蛇に変じての林檎による誘惑]を奏功させたサタンことルシファーが地獄に落とされた堕天使仲間(ルシファーと共に神に叛乱を企てたとの設定の元・天使達)の元に舞い戻って演説をなし、その後どうなったと描写されるのか、その顛末にまつわる記述を『失楽園』より[中略なしながらもの[引用]として適切な量と判断した文量]にて抜粋なすとして ――引用元は岩波文庫版『失楽園』(平井正穂訳)にての原著第10巻の部を納めたパート(P.182からp.187)とする―― )

そこでわたしは陰謀をめぐらしてその人間を誘惑し、創造主(つくりぬし)から引き離してやった。――しかも、驚くことなかれ、そのために用いたのは、僅か、一個の林檎にすぎなかったのだ!そして、笑うことなかれ、それを怒った創造主(つくりぬし)、自分の愛する人間とそのすべての世界を悉く『罪』と『死』の餌食として、われわれの餌食として、抛(ほう)り出してしまったのだ・・・(中略)・・・いかにも神はわたしをも裁いた、というより、わたしのかわりに、わたしが人間を騙した際に姿を借りたあの動物、つまり蛇だ、あれを裁いたというわけだ。
・・・(中略)・・・
そう言ったあと、恐らく自分の耳を聾(ろう)するばかりの講堂の喝采と称賛の声が忽(たちま)ちあがるものと思い、期待に胸をふくらませ、暫時佇立(ちょりつ)していた。ところが意外にも、四方八方から彼の耳を襲ってきたものは、無数の舌、舌、舌から漏れてくる不気味なしゅっしゅっという声であった!どうしたことか、と異様さに驚いたが、次の瞬間、こんどは自分自身の異様の変化にさらに驚いた
・・・(中略)・・・
そこには腹這いになったまま必死に、だが空しく、もがいている一匹の巨大な蛇の姿があった。より大いなる力が今彼を圧倒し、裁きに従って、彼が罪を犯した当時の姿にその姿を変えて、彼が罪を罰したのだ。
・・・(中略)・・・
彼の大胆不敵な叛乱の共犯者として、誰も彼も同じように蛇に姿を変えられてしまっていた。大広間のあちらこちらから発せられるしゅっしゅっという声は、凄絶な響きをあげていた。あらゆる所で、頭と尾が絡み合った怪物の群れがのたうちまわっていた。蠍(さそり)や毒蛇や恐ろしい両頭蛇(アンピスバイナ)や角蛇(ケラスケス)や水蛇(ヒドロス)や海蛇(エロツプス)や飢渇蛇がそこにいた(ゴルゴンの血が滴り落ちた例の土地でも、蛇島(オフユーザ)でも、これほど多数の蛇が蝟集し蠢いたことはかつてなかった)。しかし、やはりなんといっても、その中で最も巨大だったのは、今や巨竜(ドラゴン)に変じていたサタンであった。彼は、かつて太陽の熱によってピュートの谷間の泥の内に生じた、あの巨大な錦蛇(ピュトン)よりも、さらに巨大であった。大きさの点に劣らず、力もまた依然として儕輩(せいはい)を凌(しの)ぐものを保持している様子であった
・・・(中略)・・・
警備のために、或(あるい)は閲兵をうけんものと、意気軒昂として整列し自分たちの栄ある首領が颯爽として出てくるのを、この目で見ようと息をのんで待っていた。やがて彼らは見た、――だが全く意外な光景であった!それはぞろぞろと這いながら出てくる醜悪な蛇の大群だったのだ。
・・・(中略)・・・
同じように次々に彼らに感染していった。
・・・(中略)・・・
この彼らの変身と時を同じくして、突如としてすぐ近くの地中から森が一つ姿を現していた。これこそ彼らに対する懲罰をいっそう厳しくしようとする神の御意志(みむね)から出たものであった。そこには美しい果実が、あの誘惑者サタンがイーヴを惑わす際に好餌(こうじ)として用いた、楽園(パラダイス)の例の果実そっくりの美しい果実が、たわわに実っていた。この異様な光景を見て、こんな風にあの一本の禁断の樹のかわりに夥(おびただ)しい禁断の樹が生じたのは、もしかしたら自分たちをいっそう苦しめ辱めるためかもしれぬ、と想いながら、彼らはまじまじとそれを凝視していた。だが、焼けつくような渇きと激しい飢えとに苛まれ、この果物が自分達を欺くために送られたかもしれぬとは思いつつも、どうにも我慢出来なくなり、続々と這い上がり樹によじ登った。
・・・(中略)・・・
何度も何度も食べようとした。そのつど吐気を覚え、どうにも我慢できぬ味の悪さに辟易して、口じゅう煤と灰だらけになったその顎(あぎと)を歪めるだけであった。こんな風にして彼らは何度も同じ迷妄に陥った。そこが、彼らに征服されて一度だけ過ちを犯した人間とは違うところであった。
・・・(中略)・・・
やがて神に許されて ・・・(中略)・・・ 或る日数に限ってこのような恥ずべき蛇の姿に身を窶(やつ)すことを彼らに命じ給うたという。

(訳書よりの引用はここまでとする ―※― )

(※1本稿にての出典(Source)紹介の部50では[エデンの知恵の樹の実]がその実、林檎であるとの解釈が根強くもあると述べたが、上にての『失楽園』の記述はそのことを傍証するものである。表記の岩波文庫版『失楽園』(平井正穂訳)よりの引用部に認められるようにエデンの誘惑者と名指しで描写されているサタンが「そこでわたしは陰謀をめぐらしてその人間を誘惑し、創造主(つくりぬし)から引き離してやった。――しかも、驚くことなかれ、そのために用いたのは、僅か、一個の林檎にすぎなかったのだ」と述べている姿が描かれるからである)

(※表記の部の英文テキストも( Internet Archiveのサイトおよび Project Gutenbergのサイトより全文ダウンロードできるとの)ミルトン原著 PARADISE LOSTより抜粋しておくこととする(疑わしきにおかれてはオンライン上より[文献的事実]の問題を確認いただきたいとの趣旨にて、である)。それでは以下、原著テキスト(にてのBOOK X.の部)より抜粋をなす→ Made happy. Him by fraud I have seduced / From his Creator; and, the more to increase / Your wonder, with an apple. He, thereat / Offended worth your laughter hath given up / Both his beloved Man and all this world, / To Sin and Death a prey, and so to us, / [ . . . ] / True is, me also he hath judged, or rather / Me not, but the brute serpent, in whose shape / Man I deceived. / [ . . . ] / So having said, awhile he stood, expecting / Their universal shout, and high applause, / To fill his ear; when, contrary, he hears, / On all sides, from innumerable tongues, / A dismal universal hiss, the sound / Of public scorn. He wondered, but not long / Had leisure, wondering at himself now more. / His visage drawn he felt to sharp and spare, / His arms clung to his ribs, his legs entwining / Each other, till, supplanted, down he fell / A monstrous serpent, on his belly prone, / Reluctant, but in vain ; a greater Power / Now ruled him, punished in the shape he sinned, / [ . . . ] / Alike, to serpents all, as accessories / To his bold riot. Dreadful was the din / Of hissing through the hall, thick-swarming now / With complicated monsters, head and tail, / Scorpion, and Asp, and Amphisbaena dire, / Cerastes horned, Hydrus, and Ellops drear, / And Dipsas not so thick swarmed once the soil / Bedropt with blood of Gorgon, or the isle / Ophiusa-but still greatest he the midst, / Now Dragon grown, larger than whom the sun / Engendered in the Pythian vale on slime, / Huge Python, and his power no less he seemed / [ . . . ] / Sublime with expectation when to see / In triumph issuing forth their glorious chief. / They saw, but other sight instead - a crowd / Of ugly serpents! Horror on them fell, / And horrid sympathy for, what they saw, / They felt themselves now changing. / [ . . . ] / Cast on themselves from their own mouths. / There stood / A grove hard by, sprung up with this their change, / His will who reigns above, to aggravate / Their penance, laden with fair fruit, like that / Which grew in Paradise, the bait of Eve / Used by the tempter. On that prospect strange / Their earnest eyes they fixed, imagining / For one forbidden tree a multitude / Now risen, to work them further woe or shame. / Yet, parched with scalding thirst and hunger fierce, / Though to delude them sent, could not abstain ; / But on they rolled in heaps, and up the trees / Climbing, sat thicker than the snaky locks / [ . . . ] / Their appetite with gust, instead of fruit / Chewed bitter ashes, which the offended taste / With spattering noise rejected. Oft they assayed, / Hunger and thirst constraining; drugged as oft, / With hatefulest disrelish writhed their jaws, / With soot and cinders filled; so oft they fell / Into the same illusion, not as Man / Whom they triumphed once lapsed. [ . . . ] / Thus were they plagued, / And worn with famine, long and ceaseless hiss, / Till their lost shape, permitted, they resumed, / Yearly enjoined, some say, to undergo / This annual humbling, certain numbered days, / To dash their pride, and joy for man seduced.(オンライン上より確認可能な原著よりの引用部はここまでとする/ちなみに『失楽園』は叙事詩形態の著作として頻繁に改行がなされている作品ともなるわけだが、そちら改行部についてはスラッシュで表した))

出典(Source)紹介の部54(2)はここまでとする)


 ここまでにてエデンの誘惑者が

[蛇である存在(サタンと看做されてきた存在)となっていること]
[文明の接受と同文のことを(楽園追放とワンセットとなったところとして)なした存在]

となっていることを述べたが、次いで、同存在(エデンの誘惑者)が、

[ときに金星の体現存在であるとされていること]
[(期待を裏切っての)破滅をもたらした存在であるとされること]

との要素の摘示もなしておく。

 エデンの誘惑者と同質同一の存在と見られてきたとのサタンについては[ルシファー]との別名が存在しており、そのルシファーとの語句が[金星]と淵源上、結びついていることを(出典(Source)紹介の部49にても言及したことをさらに煮詰めて)下に解説する。


| 出典(Source)紹介の部54(3) |

 ここ出典(Source)紹介の部54(3)にあっては
[エデンの誘惑者が金星と結びついている]
とのこと
について(先掲の出典(Source)紹介の部49から一歩進んでの)出典紹介をなしておくこととする。

 まずは基本的なところからはじめる。

(直下、英文ウィキペディアの[Lucifer]項目にての一部記述より端的にもの引用をなすとして ――この部は出典(Source)紹介の部49と重複するところともなる―― )

Later Christian tradition came to use the Latin word for "morning star", lucifer, as a proper name ("Lucifer") for Satan as he was before his fall. As a result, "Lucifer has become a by-word for Satan in the Church and in popular literature", as in Dante Alighieri's Inferno and John Milton's Paradise Lost.

「キリスト教伝統的解釈は[ラテン語にて明けの明星を指すものとして用いられていたLuciferという語]をして[地に落ちる前のサタンを指すもの]として用いるようになっていた結果、ルシファーという言葉が教会およびダンテ・アリギエーリの『地獄篇』やジョン・ミルトンの『失楽園』のような著名古典にてサタンの別称として用いられてきた

(引用部はここまでとする)

(直下、和文ウィキペディア[ルシファー]項目にあっての[人文学研究によるルシファーの来歴]の部よりの引用をなすとして)

Luciferはもともと、ラテン語で「光を帯びたもの」「光を掲げるもの」(lux光+fer帯びている、生ずる)、「光をもたらす者」(lux光+fero運ぶ)を意味する語であり、当初は悪魔や堕天使を指す固有名詞ではなかったラテン語としてのルキフェルが見出されるのは、ウルガータ聖書の以下の箇所においてである。「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」-旧約聖書「イザヤ書」14:12- ここでの明けの明星は或るバビロニアの専制君主のことを指し、輝く者を意味するヘブライ語の「ヘレル」が明けの明星luciferと訳されている

(引用部はここまでとする)

 ここより多少込み入っての解説のされようを引いておく。

(直下、 Project Gutenbergのサイトにて全文公開されているとのブリタニカ百科事典第11版、 Encyclopaedia Britannica, 11th Edition, Volume XVII, Slice 1 LUCIFERにまつわる項目より引用をなすとして)

LUCIFER (the Latinized form of Gr. φωσφόρος, “light-bearer”), the name given to the “morning star,” i.e. the planet Venus when it appears above the E. horizon before sunrise, and sometimes also to the “evening star,” i.e. the same planet in the W. sky after sundown, more usually called Hesperus (q.v.). The term “day star” (so rendered in the Revised Version) was used poetically by Isaiah for the king of Babylon: “How art thou fallen from heaven, O Lucifer, son of the morning! how art thou cut down to the ground, which didst weaken the nations” (Is. xiv. 12, Authorized Version). The words ascribed to Christ in Luke x. 18: “I beheld Satan as lightning fall from heaven” (cf. Rev. ix. 1), were interpreted by the Christian Fathers as referring to the passage in Isaiah; whence, in Christian theology, Lucifer came to be regarded as the name of 104 Satan before his fall. This idea finds its most magnificent literary expression in Milton’s Paradise Lost. In this sense the name is most commonly associated with the familiar phrase “as proud as Lucifer.”

(日本語表現に適合するように訳なしての拙訳として)
「LUCIFERとは
[φωσφόρος,[光を運ぶ者]との意のギリシャ語のラテン語表記]
となり、[明けの明星](モーニング・スター)、すなわち、
日の出前に東の地平線の上に現われるとの金星
に与えられての呼称、あるいは、しばしばもって、同様に金星、日没前に西の空に現われるとの[宵の明星](こちらは通例、ヘスペラスと呼ばれるところのもの「とも」なる)に与えられての呼称となっているとの語である。
 同語、[デイ・スター](明けの明星)はバビロンの王によるやりようにまつわるところで(改訂訳版聖書に収録のその部にて記述されているように)旧約聖書イザヤ書にて
O Lucifer, son of the morning! how art thou cut down to the ground, which didst weaken the nations「黎明の子、明けの明星(Lucifer)よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは地に倒れてしまった
と述べられているようなところの存在となり(オーサライズド・バージョン=欽定訳聖書イザヤ書14章12節)、そうした書かれようと[ルカによる福音書]第10章18節にあってのキリストによる言葉、
I beheld Satan as lightning fall from heaven「彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」」
との文言(そちらについてはRev. ix. 1すなわち、レベレーション(Apocalypsis)『黙示録』第9章第1節をも参照のこと)との兼ね合いでキリスト教教父らに解釈されてきたところ、そして、キリスト教神学で解されてきたところとして、(同じくものルシファーという語は)
[堕天の前にあってのサタンの名称]
へとなったとのものでもある。
 この観点はミルトンの『失楽園』にて最も壮麗なる文学的表現を見ているところのものとなり、そこより同語(ルシファー)はよく知られたフレーズ、“as proud as Lucifer.”「ルシファーよろしく高慢な」とのフレーズと巷間にて最もそうもなされているところとして関連づけられるようになったとのものである」

(補いもしての訳を付しての引用部はここまでとする ―※― )

(※尚、原文にて言及されている旧約聖書(『イザヤ書』)と新約聖書(『ルカによる福音書』)の日本語訳の部だけは日本聖書協会による1954年改訳版日本語聖書(オンライン上にてPDF版が広くも流通しているとの日本語訳聖書)の文言をそのまま利用することとしたこと、断っておく。また、ここにて引用元としたとの第11版ブリタニカ百科事典であるが、その通用性が極めて高いとのものともなり、(以下、現行にての和文ウィキペディア[ブリタニカ百科事典第11版]項目の記載を掻い摘まんで原文引用するところとして)[ブリタニカ百科事典第11版は、1910年から1911年にかけて発行されたブリタニカ百科事典の11番目の版で、全29巻からなる20世紀初頭の知識の集大成である。製作には当時の著名な研究者や、後に有名になる執筆者が多数参加している。また、この版は現在、米国で著作権の保護期間を経過しパブリックドメインになっている](引用部はここまでとする)とのものとなっている)

 上にて主だってのところから引用なしているところに見るように[ルシファー]の名([光を運ぶ者]とのラテン語とも結びつく名)を冠する存在はサタンと同文の存在にして
[金星を体現しての存在]
であるとされているのだが(それについては本稿にての出典(Source)紹介の部49にても Project Gutenbergにて誰でもダウンロードできるとの ASTRONOMICAL LORE IN CHAUCER(1919)『チョーサー(カンタベリー物語の作者の14世紀詩人ジェフリー・チョーサー)に見る天文知識』より原文引用をなすとのかたちにて all the planets, that most often mentioned by Chaucer is Venus, partly, no doubt, because of her greater brilliance, but probably in the main because of her greater astrological importance; for few of Chaucer’s references to Venus, or to any other planet, indeed, are without astrological significance. Chaucer refers to Venus, in the classical manner, as Hesperus when she appears as evening star and as Lucifer when she is seen as the morning star(訳として)「チョーサーに言及されている全ての天体の中で最も多く言及されているのは疑いもなくビーナス(金星)であるとのことになっており、については、金星の輝度の高さ、しかし、主たるところではその天文学における重要性による(と解される)。チョーサーのヴィーナス(金星)への言及、そして、他の天体への言及のどれをとっても本然的に天体に重きを置いてのことなくして成り立つようなものではない。チョーサーがヴィーナス(金星)に言及するとき、そのやりようは古典的なところに従っており、金星が[宵の明星](イブニング・スター)として現われての折については[ヘスペロスHesperus]として金星につき言及し、[明けの明星](モーニング・スター)として金星が認められるときには[ルシファーLucifer]と言及している」との記述を引いていたとのところでもある)、 そのようなルシファーをサタンとはきと明言しての古典がダンテ『地獄篇』となり、また、ミルトン『失楽園』となっているとの記載が上にて引用なしている英文Wikipedia[Lucifer]項目にての現行記載部などにて見受けられるわけである。

 では具体的にMilton『失楽園』でいかようにルシファーとの名称がサタンのそれとして現われているのか。それについて指し示すべくもの記述をここでは引いておくこととする。

(直下、 Internet Archiveより誰でも全文ダウンロード出来るとの William Walshという人物の手になる編集が加えられての近代刊行版 PARADISE LOST、そのBOOK X.424-426より端的な原文引用をなすとして)

Of Pandemonium, city and proud seat
Of Lucifer, so by allusion called
Of that bright star to Satan paragoned

「パンデモニウム(地獄の首府・万魔殿)にての誇り高き玉座にての、
ルシファーの、比喩的なるサタンの摸造ともなりうる[輝く星]の、」

(引用部はここまでとする)

 上のような記述が『失楽園』にて認められるとのことが[文献的事実]の問題としてそこにある ――ミルトンのパラダイス・ロスト(『失楽園』)では[文献的事実]の問題として[高慢がゆえに神に歯向かった天使]がルシファー(転じてのサタン)であるとの描写がなされている(尚、ミルトン『失楽園』とは神に堕天させられたルシファーことサタンが直接的反撃が出来ぬ中での意趣返しとして神が新たに造り出した種族である人類の祖たるアダムとイヴを堕落させ、破滅に誘うとの奸計を弄するとの筋立ての物語となっている.まさしくものそうした筋立てに関わるところにあって「どういうわけなのか」今日のブラックホール理解に通ずる描写が多重的にみとめられるとのことを本稿の後の段にて指摘することになるとも先立って言及しながら申し述べるところとして、である)―― 。

 他面、『失楽園』より何世紀も前に成立した古典たるダンテ『地獄篇』にあって
[ルチフェロ]
と呼称されてのサタンが[地獄の最下層]に幽閉されているとの描写がなされている(※)。


※尚、本稿の先立っての段で解説したように[イザヤ書第14章12節以下]が

[[悪魔の王たるサタン]が[金星たるルシファー](元来、[ルシファー]という語と結びつくものであった金星)と結びつけられるに至った聖書の中の典拠となる部]

となる(とされている)。 

 そちらについては ――「オンライン上よりダウンロードできる」との分かりやすい章節番号が付されている邦訳版PDF版電子版聖書(日本聖書協会)よりも労せず確認できるとのくだりとなるので疑わしきには確認いただきたいところとして―― バビロンの王に対する口撃を兼ねての預言としての表記にあって

天より落とされた存在としての明けの明星」(イザヤ書物14章12節
陰府(よみ)に落とされ穴の奥底に入れられた存在」(イザヤ書14章15節
国々を動かし世界を荒野のようにし、その都市を壊し、捕らえた者たちを解き帰さなかった存在」(イザヤ書14章16節-17節
つるぎで殺され存在に覆われ踏みつけられた死体のように穴に下る存在」(イザヤ書14章19節

との形容がみとめられもし、そちら[バビロンの凋落に通ずる表記]が[悪魔の王 ――新約聖書にてバビロンを破滅に誘(いざな)う存在―― ]たる[ルシファー=金星]と結びつけられるに至ったとのことがある、聖書上の典拠としてはそうもなっているとのことがある。

 そう、その部しか ―有名なところとして― 聖書それ自体の中では

[[明けの明星(金星)=ルシファー]を悪魔の王たるサタンと比定する上での論拠]

となるところがないとのことになっているようなのだが(のような中で現実にダンテやミルトンに典型例が認められるようにキリスト教徒らは[ルシファー]こと[明けの明星]を悪魔の王を指す語として歴年用いていたきたの史的経緯がある。ひとつにそれは『旧約聖書』のイザヤ書に認められる直近言及したところの[国々を動かし世界を荒野のようにし、その都市を壊し、捕らえた者たちを解き帰さなかった存在]との記述が『新約聖書』末尾の黙示録に見るサタン像 ――バビロンとも結びつけられるパートで偽りへの会衆を結集させて、彼ら諸共、地獄落ちすることになるとの存在―― と類似するところがあったからであろうとは解される)、といったイザヤ書に見る記述については

『中近東の異教神(旧約聖書を奉じていた一神教たるユダヤ教から見たうえでの異教神)たる[アッタル]という神(ウガリット古代都市文明の[明けの明星]と結びつく神)を指すのではないか』

との理解「も」一部にてなされており、英文Wikipedia[Lucifer]項目にはその理解に基づいての記載が現行なされている ――原文引用をなせば英文Wikipedia[Lucifer]項目にあっての Mythology behind Isaiah 14:12[イザヤ書14章12節の背景にある神話]と振られた節にての In ancient Canaanite mythology, the morning star is pictured as a god, Attar, who attempted to occupy the throne of Ba'al and, finding he was unable to do so, descended and ruled the underworld.「古代カナン地方神話にあって明けの明星はアッタルという神、バアルの玉座を奪おうとして、しかし、それが出来ぬことがわかって冥界に下り、そこを統治したとの神と結びつけられている」との言及がなされているところである―― 。


 以上ここまでよりエデンの誘惑者としての蛇と同質に見られるサタンが
[金星の体現存在(たるルシファー)]
となっていることを細かくも解説した。

出典(Source)紹介の部54(3)はここまでとする)


 次いで、[エデンの誘惑者たる蛇]に比定される[悪魔の王サタン]が

[(期待を裏切っての)破滅をもたらした存在であるとされること]

についての解説を(一般教養レベルのこと、基本的な聖書記述にまつわることとしてそこまで解説する必要もないか、とも思うのだが)なしておくこととする。

 まずもって書くが、
[エデンの蛇に知恵の樹の実を食すように唆されたため、アダムとイヴが[楽園追放](蛇に林檎を唆されて食したための失楽園)を見たと聖書には記述されている]
とのことがあり、その伝でも期待を裏切るとのやりようは感じられるところである(出典(Source)紹介の部54にての旧約聖書創世記(日本聖書協会よりPDF文書版がオンライン公開されている和訳版旧約聖書)よりの原文引用部を参照のこと)。

 のみならず、

[新約聖書ではその末尾の黙示録の部にて[サタン](後にキリスト教神学にて、先述のような経緯から、[ルシファー]と呼称されるに至った存在)が[偽りの信仰の会衆]を大同団結させて神に最終決戦を挑み、その挙の中で会衆に破滅をもたらすとの描写がなされている]

とのこと「も」ある(下の出典紹介部を参照されたい)。


| 出典(Source)紹介の部54(4) |

 ここ出典(Source)紹介の部54(4)にあってはキリスト教体系にて[エデンの蛇]と同一視されているサタンが[会衆の期待を裏切って破滅をもたらした存在]として新約聖書・黙示録に登場していることにまつわる引用をなしておくこととする。

(直下、日本聖書協会『新約聖書』 ―オンライン上にてPDF版を閲覧・取得できるとのもの(1954年改訳版)― ヨハネの黙示録第13章よりの一部引用をなすとして)

わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った。「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。・・・(中略)・・・そして彼は、聖都に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう

(引用部はここまでとしておく)

(直下、日本聖書協会『新約聖書』 ―オンライン上にてPDF版を閲覧・取得できるとのもの(1954年改訳版)― ヨハネの黙示録第18章よりの一部引用をなすとして)

この後、わたしは、もうひとりの御使(みつかい)が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」
・・・(中略)・・・
すべての船長、航海者、水夫、すべて海で働いている人たちは、遠くに立ち、彼女が焼かれる火の煙を見て、叫んで言う、『これほどの大いなる都は、どこにあろう』。彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫ぶ、『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』。天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、予言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」

(引用部はここまでとしておく)

(直下、日本聖書協会『新約聖書』 ―オンライン上にてPDF版を閲覧・取得できるとのもの(1954年改訳版)― ヨハネの黙示録第19章(第19節)以降よりの引用をなすとして)

なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕らえられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ予言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。

(引用部はここまでとしておく)

(直下、日本聖書協会『新約聖書』 ―オンライン上にてPDF版を閲覧・取得できるとのもの(1954年改訳版)― ヨハネの黙示録第20章よりの一部抜粋をなすとして)

またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。彼は、悪魔でありサタンであり龍、すなわち、かの年を経たへびを捕らえて千年の間つなぎおき、そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終わるまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた
・・・(中略)・・・
千年の期間が終わると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわち、ゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために招集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都を包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ予言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである

(引用部はここまでとしておく)

 以上、原文抜粋をなした(オンライン上より誰でもPDFファイル版がダウンロードできるようになっているとの日本聖書協会『新約聖書』より原文抜粋をなした)ようにヨハネの黙示録 ――聖書の最後に位置する文書で神を信じぬ者達は皆、灰燼に帰せられ、神を信ずる民らが至福の王国に生きるとの内容を有したキリスト教信仰の究極的[結末]を描いたパート―― には「文献的事実の問題として」次のような内容が含まれている。

(筆者は[サタン]や[神]といったドグマチックな概念に重きを置く[宗教]も[宗教的狂人]のやりようも多く唾棄すべきものであるととらえている無宗教・無信心の者だが、といった身を押してのこととして指し示すところの黙示録に見る内容として)

[龍(サタン)に権威を与えられた獣および龍(サタン)それ自体を崇める大バビロンおよびその民らが神によって火によっての滅尽を見る。そして、その後、[救世主に率いられた軍勢]と[獣と偽予言者と龍とその麾下の軍勢]とが対峙するが、後者は火の池地獄に投げ込まれた](との記載がなされている)

[獣と偽予言者と龍のシンパらが神の裁きを受けた後、1000年を経、龍(サタン)が再度解放され、ゴグ・マゴグと呼ばれる諸国民(その数は海の砂のように多いともされる)を招集して神の信徒に戦いを挑むも、同様に火と硫黄の池に投げ込まれた](との記載がなされている)

 これにて[キリスト教体系にて[エデンの蛇]と同一視されているサタンが[会衆の期待を裏切って破滅をもたらした存在]として新約聖書・黙示録に登場している]ことにまつわっての典拠紹介を終えることとする。

出典(Source)紹介の部54(4)はここまでとする)


 ここまでで[エデンの誘惑者][エデンの誘惑者に比定されるサタン・ルシファーという存在]について次の通りのことが述べられることを「遺漏無くも」指し示したつもりである。

蛇であるという存在となっている](出典(Source)紹介の部54
ある種の文明の促進者とでもいうべき存在となっている出典(Source)紹介の部54(2)
[(エデンの誘惑者をルシファーであると見た場合に)金星と結びつく存在ともなっている出典(Source)紹介の部54(3)
エデンの住人とその子孫の期待を裏切ることになったと描写される ――旧約聖書の創世記および新約聖書の黙示録にてそうも描写される―― 存在となっている出典(Source)紹介の部54(4)

 以上のことはアメリカ(先に[アトランティス]と同一の存在と看做されるだけの背景があると指摘してきたところのアメリカ)に崇拝されていたケツァルコアトルが(再掲して)次のような要素を伴っている存在となっていることと相似形を呈するものである。

羽毛を持った蛇との語感の名前の神となっている出典(Source)紹介の部53(2)
金星の体現存在となっている出典(Source)紹介の部53(3)
文明の恩人となっている(同出典(Source)紹介の部53(3)
同神を崇拝していた地域の住民の期待を裏切ることになったとの神となっている出典(Source)紹介の部53(4)

(※1:より幅広くも見れば、[ケツァルコアトルの信徒らに破滅を進呈した]のが[キリスト教徒](たるスペインの征服者ら)となっていること、[サタンの薬籠中になった会衆に(新約聖書の黙示録で描写されるところとして)打ち勝った]のが[キリスト教徒]となっていること「にも」相似形を見出せるようになっている

(※2:出典(Source)紹介の部53(4)にて示さんとしてきたように[スペインがアステカ文明圏に破滅的改変を強いた]なかで疫病 ――新大陸の人間が免疫を持っていなかった旧大陸(欧州)由来の天然痘―― の猖獗(しょうけつ)が戦乱と共に現地人を容赦なく殺していったとされる。対して、聖書黙示録 ――[古き蛇にして赤い竜としてのサタン][偽預言者][偽りの獣]がその会衆を破滅に誘(いざな)うとの記述がなされている聖書の末尾におさめられている文書たる黙示録―― では[黙示録の四騎士(なる存在)が究極的破滅(堕地獄)に至る前段階にて人間に災厄をばらまく]との記述も認められ、[戦乱]と[疫病]との伝でのアナロジー(一致性)の問題もアメリカ大陸の出来事と『黙示録』の間にはみとめられるとのことがある(同点については聖書上の極めてよく知られた記述とのことでそれで十分かと判断、和文ウィキペディア[ヨハネの黙示録の四騎士]項目程度のものよりの[中略]なしつつもの引用をなしておくこととする。⇒(以下、和文ウィキペディア[ヨハネの黙示録の四騎士]項目にての現行記載内容よりの引用をなすとして)ヨハネの黙示録の四騎士は、『ヨハネの黙示録』に記される四人の騎士。小羊(キリスト)が解く七つの封印の内、始めの四つの封印が解かれた時に現れるという。四騎士はそれぞれが、地上の四分の一の支配、そして剣と飢饉と死・獣により、地上の人間を殺す権威を与えられているとされる。・・・(中略)・・・[第四の騎士]『ヨハネの黙示録』第6章第8節に記される、第四の封印が解かれた時に現れる騎士。青白い馬(蒼ざめた馬)に乗った「死」で、側に黄泉(ハデス)を連れている。疫病や野獣をもちいて、地上の人間を死に至らしめる役目を担っているとされる(引用部はここまでとする))

 上掲図にあっての上の段は Emanuel Leutzeエマヌエル・ロイツェという19世紀米国の画家による[[アステカ征服の真っ最中のキリスト者の集団の姿;スペインのコンキスタドレスら一党の姿]を描い画]を挙げたものとなる(英文Wikipedia[ Spanish conquest of the Aztec Empire ]項目より著作権の縛りないこと、明示の上で元となる画像が現行公開されているものとなる)。
 対して、下の段にて挙げているのはルネサンス期巨匠アルブレヒト・デューラーの手になる[天の軍勢・キリスト者の集団がサタン([古き蛇にして赤き竜である]と新約聖書『黙示録』に描写される存在)・サタンの影響下にある獣・偽預言者の会衆となった者達を滅ぼすとの内容を有した一連の版画の一部]、すなわち、[黙示録をモチーフに製作されているとの著名な版画『黙示録』シリーズに見る一幕]を挙げたものとなる(そこでは天の軍勢が悪の薬籠中にある者達に破滅を進呈しているとのありようが描写されている)。
 ここで問題視しているのは上掲の画らにてモチーフとされていることに「純・記号論的に」多重的連続性が認められるとのことである。

 ここに至るまで摘示してきたところの相似形が具現化していることにつき

『ただの偶然ではないのか』
(ないしは)
『キリスト教徒が新大陸の文明を滅ぼされて当然の悪魔の文明であるとの見立てを抱いていたためにそういう類似性を示す記録が(考古学者らもその風潮に乗せられたところとして)歴史的に人為構築(捏造)されてきたのではないか』

と思われる向きもあるかもしれない(れぐらいの懐疑主義的視点を持っていてなければ、(真実を破壊するために飼われているといった類の)相応の陰謀論者らのインチキ話柄の類に騙されても文句は言えぬであろう』と手前などは考えている)。

 だが、筆者は「それでは済まない」との[情報]を数多把握しているからここでの話をなしているのである。

 ここで振り返っていただきたいところなのだが、

[(ケツァルコアトル崇拝のアステカ文明が欧州人の到達の前から存在していた)新大陸アメリカは大航海時代以降、アトランティスと同質のものと欧州人に看做されてきたとの背景がある(本稿にての出典(Source)紹介の部52、フランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』を引き合いに出しての部を参照のこと)

とのことが重きをもってくる。
 
 それにつき、ここまでにて指し示しに注力なしてきたことを繰り返すが、

新大陸アメリカと同質に看做されてきた(先立っての出典(Source)紹介の部52にて示したようにそうなるべくしての背景あって看做されてきた)との[アトランティス]については[アトラスの娘らの黄金の林檎の園](あるいは[黄金の林檎にて起こったトロイア戦争に決着をつけた武将オデュッセウスが漂着した先たるアトラスの娘カリュプソの島])と結びつけれてきたとのことがあり、また、アトランティス]と同一視されるだけの背景がある[黄金の林檎の園]については[エデンの園]と結びつけられてきたとのことがある]

とのことがある(⇒※下にて多少の振り返り表記をなしておく)。それがゆえに問題になるのである。
 ケツァルコアトルが崇められていたアステカ文明を培ったアメリカ大陸がアトランティスに欧州では仮託されている、そして、アトランティスと同一視されることもある[黄金の林檎の園]は[エデンの園]とも結びつけられている。
 となれば、蛇の神ケツァルコアトルを[文明の接受者]として崇めていた地域(アメリカ大陸)の特性より顧慮してケツァルコアトルとエデンの誘惑者の関係はより濃厚な色彩を帯びることにもなり、またもって、[黄金の林檎](アトランティスと同一視されるヘスペリデスの園に実る果実)と[エデンの果実]の関係もアトランティスと同一視されてきた地で崇められてきたケツァルコアトルとエデンの誘惑者の接合性(最前の部にて先述の接合性)からよりもって重みをもってくる、相補関係を呈してよりもって重みをもってくるとのことになるというわけである

(※[アトランティス]⇔[アトラスの娘らの黄金の林檎の園およびアトランティス]⇔[黄金の林檎にて起こったトロイア戦争に決着をつけた武将オデュッセウスが漂着した先たるアトラスの娘カリュプソの島 ]との見解が成り立つだけの背景があり、また実際にそのような見方が歴年呈されてきたとのことについては本稿にての出典(Source)紹介の部40から出典(Source)紹介の部41を包摂させての部にて解説をなしている。
 他面、[[黄金の林檎の園(アトランティスと同一視されもしてきたとの黄金の林檎の園)]⇔[エデンの園]]との見解が欧州人に呈されてきたとのことについては出典(Source)紹介の部48から出典(Source)紹介の部51を包摂する解説部にて詳説なしているなしていることであり、その中にあって[出典(Source)紹介の部51]では Alexander Stuart Murray Manual of Mythologyらを引き合いに出しながらいかようにして[黄金の林檎の園]と[エデンの園]らを同一視する見解が呈されていたのか具体例を挙げている)


振り返っての部として

 次の頁へと歩を進める前に直前言及のことについて先立って摘示してきたことを振り返っておくこととする。

(黄金の林檎の園がアトランティスと看做されもしてきた点については下にて表記の通りのことを既に指し示している)

(本稿にての出典(Source)紹介の部41では)[黄金の林檎の園を管掌するヘスペリデスの[ニンフ(ギリシャ神話にての下位の女神ら)としての呼称]が[アトラスの娘のグループ]がゆえに[アトランティデス](Atlantides,単数形はAtlantis)とのかたちとなっていること]、[ヘスペリデスの黄金の林檎の園が大西洋の先にあったとのことで(プラトン古典に見る)[大西洋の先にある陸塊]としてのアトランティスとの接合性が観念されること]、[ヘスペリデスの母親としても伝わるヘスペリス(ヘスペリデスの単数形呼称でもあるが母親の名としても伝わる)の語源が[西方]と結びついていることで西方にてのアトランティスとの接合性が観念されること]との各事由を[アトランティス⇔黄金の林檎の園]との理由として挙げている19世紀末成立の著作の内容を挙げもした

(黄金の林檎の園がエデンの園と関連づけられるとの点については下にて表記の通りのことを指し示している)

a.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]双方ともに[女という性を用いての誘惑]が主軸をなしているとのことがある(一方はヘレン、もう一方はイーヴという女という性を用いての誘惑がなされている⇒同じくものこと、トロイアありようにまつわる古典上の典拠は出典(Source)紹介の部39にて紹介している)。

b.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]双方ともに[誘惑が破滅的事態をもたらした]との結末がつきまっているとのことがある(片方が[フォール・オブ・トロイア;トロイア陥落]、もう片方が[フォール・オブ・マン;人類の堕落・失楽園]との結末に通じている⇒同じくものこと、トロイアありようにまつわる伝承上の典拠は出典(Source)紹介の部39にて紹介している)。

c.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]双方ともに誘惑にてその授受が争われたのは[林檎]および[林檎と歴史的に同一視されてきたもの]となっているとのことがある(聖書にては[エデンの禁断の果実]ことフォゥビドゥン・フルーツが[林檎]であるとの明示的表記がみとめられないわけであるが、それが歴史的ありようとして林檎と看做されてきたとのことがあり、本稿ではその点についても解説している ―出典(Source)紹介の部50を参照されたい― )。

d.[黄金の林檎の果樹園]は百頭竜ラドンに守られているとされる。そして、ギリシャ・ローマ時代における竜とは[巨大な蛇]のようなものであるとされる(出典(Source)紹介の部50の後に続けての部で典拠紹介のこと)。他面、[エデンの園の誘惑]は蛇によってなされたと伝わるものである。従って、[黄金の林檎]および[エデンの園の禁断の果実]の双方ともどもに[(蛇たる)爬虫類とのつながり]があいが見てとれるとのことになる。

e.[黄金の林檎にまつわる誘惑]および[エデンの園にての誘惑]双方ともにあって[金星の体現化存在]が誘惑者となっているとのことがある(片方は金星の体現存在たる女神アフロディテを誘惑者としており、もう片方では金星(明けの明星)の体現存在たるルシファーことエデンの蛇と同一視されるサタンを誘惑者としている ―出典(Source)紹介の部48および出典(Source)紹介の部49― )。また、誘惑者が金星と結びつくだけではなく、黄金の林檎というのはそれが実る果樹園からして[金星]と親和性が高い存在となっているとのことがある。すなわち、黄金の林檎を果樹園で管掌するとされるヘスペリデスらが金星こと[宵の明星]と非常に近しい存在であるとのことがある(ヘスペリデスHesperidesという黄金の林檎の管掌者らは[金星=宵の明星]と同義のローマ名を持つHesperusを父親とするとも言われ、その構成単位ないし母親をHesperisとするとも言われる存在とのことになり、Hesperidesという[Hesper]との語句と結びつく黄金の林檎の管掌者らがいかに日没にて輝く金星と結びつくか推し量れもするとのことがある ―出典(Source)紹介の部49などを参照のこと― )。

f.[黄金の林檎の園]および[エデンの園]双方は「互いに関係があるもの」として欧州人に「歴史的に」隠喩的・明示的な式で結びつけられてきたものらとなる。隠喩的な式とのことで言えば、ルネサンス期画家のルーカス・クラナッハ・ジ・エルダーの絵画に両者関係性を示唆するが如きものが存在しているとのことがある(その[具体例]を本稿の先の段、出典(Source)紹介の部51で挙げている)。他面、明示的な式で関係づける式とのことで言えば、近代知識人らの著作にあって[[神に不死を約束するネクター]と結びつく黄金の林檎の園]と[[不死と知恵の果実が実るエデンの園]とを結びつける表記がなされている(そちらも原文引用を出典(Source)紹介の部51でなしている)。

振り返っての部はここまでとしておく


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また、直下、本稿冒頭部へのリンクも設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)

当サイト内にあっての【各頁および各典拠への一覧方式遷移部】、及び、【PDF形式文書配布ページ】へのリンクを直下、設けておく

各頁および各典拠への一覧方式遷移部へは以下より


問題となる[「予見的」言及→実現]の体系についての[典拠紹介部]一覧呈示頁

PDF形式文書配布ページへは以下より


典拠解説媒体としての[一括PDF文書]の公開頁

ここ本頁内の記述内容を支える【「容易に後追い確認なる」「堅い」ソースを呈示しての出典紹介部ら】のうち、枢要なるものへの[遷移経路]を下に設けておく。 典拠について疑わしいとの部があれば、必要に応じて参照されたい (:クリックすることでブラウザ ―インターネット閲覧ソフト― の[別タブ(別枠)]にて典拠紹介部を表示( open "additional" tabbed window(s) of web browsers ))

[出典(Source)紹介の部39]トロイア崩壊の原因が黄金の林檎となっているとのこと、また、そちら黄金の林檎がヘラクレス第11功業に登場を見ている「巨人アトラスと結びつく神の果実」でもあるとのことに関しての出典紹介部39)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第35頁 ブルフィンチ神話要覧書などに見る黄金の林檎とトロイア

[出典(Source)紹介の部41]トロイアとアトランティスの関係にまつわっての出典紹介部の一例[トロイア崩壊の原因たる黄金の林檎が実るヘスペリデスの黄金の林檎の園]が何故、[アトランティス]と結びつくのかについての出典紹介の部41)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第37頁 アトランティスを巡るドネリーの主張について

[出典(Source)紹介の部51]トロイア崩壊に繋がった黄金の林檎を巡っての誘惑とエデンの園での誘惑が多層的多重的に共通要素を帯びているとのことの出典紹介部の一例として黄金の林檎の果樹園エデンの園は実際に歴史的に相通ずるものと見られてきたとのことについての出典紹介の部51)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第42頁 エデンの誘惑と黄金の林檎を巡っての誘惑の接続性

[出典(Source)紹介の部53(2)](エデンの誘惑の蛇に比定されもするサタン・ルシファーに通ずるケツァアルコアトルという神の特質について解説しての出典紹介部53(2)以降の部)
の参照は直下より (クリックすることで当該の出典紹介部を別タブにて表示)


典拠紹介部第43頁 アトランティスと蛇崇拝の先コロンブス期アメリカ