プログラム拘束の魂たちが紡ぎ出す結末を変えるために

 
 

問題意識の所在 ―11―

 当サイトにて[問題意識の所在]と銘打っての一連の部位にあっての前頁では

「CERNが[ALICE]と[ATLAS]という名前を持ち出したことの背景には[アトラス・プログラム](と便宜的呼称をなしているとの一連のやりよう)が影響していると考えられる」

とのことにつき申し述べた(:メデュア露出型の物理学者としてよく知られる米国の日系人物理学者の[数学者チャールズ・ドジソンとしてのルイス・キャロルのやりよう]絡みの申しようなどにも注意向けつつ申し述べた)。

 その点につき理解深めていただければ、との図を下に挙げておく。

 [左の図]CERNの実験プロジェクト、ALICE絡みの観測機器の前にアリスとウサギを配したとのもの。よく知られているところとして物語の主人公アリスは『不思議の国のアリス』でウサギにいざなわれて別世界に足を運び、続編『鏡の国のアリス』で鏡を通じて別世界に足を運んだわけだが、CERNとの絡みでは、だ。同アリス・シリーズの作者ルイス・キャロルことチャールズ・ドジソン、卓越した数学者であったともされる同男が『鏡の国のアリス』の方で
[時空間をつなぐワームホール(LHC運用を通じワームホールが発生"しうる"との懸念が第一級の学者たちの間にあるとは既述)を"多重連結空間"に関する比喩的表現を用いて先駆的に表現していたらしきこと]
が問題としてある(著名物理学者が呈示するところの問題としてある)と先だってのページにて述べた。
 そのように先の頁で紹介したことを繰り返した上で言うが、
「多重連結空間絡みで『鏡の国のアリス』が問題なら、その前作にあたる『不思議の国のアリス』の方も問題である」
といえる。
『不思議の国のアリス』関連事象もフリーメーソン(の飼い主)が暗躍した結果か、非常に危険な比喩で満ちているからだ。そう、例えば、アリス関連のモチーフをまぶしたサブカルチャー(映画等)に
「メーソン的象徴をまぶしつつの911の事件の"前言"作品があったり大虐殺計画の示唆作品があったりする」
のもその式で語れることだ。については、当然にして[馬鹿げていること]のように聞こえるかもしれないが、
「であっても、その実、馬鹿げてはいない」
と強調しておきたい。
 そも、アリス・シリーズがオリジナルの時点で極めてフリーメーソン的な作品であること、及び、ウサギにいざなわれてアリスが入った穴 ―『鏡の国のアリス』の方ではなく『不思議の国のアリス』の方のゲート― の先も[鏡(ワームホール)の先の世界]と同様、人間の支配に関わる領域の寓意であると考えられることに留意しておいていただきたい、としつつ、
「アリス・シリーズが多く危険な比喩とつながっていると述べるのは馬鹿げたことではない」
と強調しておきたいのである(非常に残念なことに危険な比喩・前言の話は実証可能なことがゆえに、である:詳しくは当サイトの[ルイス・キャロルのアリスの物語。それらと結びつく最悪の比喩について]と題した頁あるいは当サイト上で頒布しているPDF版著作 ―商業出版が異常な形で頓挫した著作でもある― の該当箇所を参照されたい)。

 アリスの話はここまでとし、次いで、上掲の[中央の図]CERNの実験プロジェクト、ATLAS絡みの観測機器の前にティターン族に属する巨人、何度も問題としたメルカトル1595年版『アトラス』の表紙から似姿を借用した巨人アトラスに立ってもらった。
 さて、勘の鋭い向きらにおかれてはお気づきになられているかもしれないが、巨人アトラスが二つの球体 ―本来、地図作製技法の「地球の球状分割方式」に拠るものと解釈できるとも先述― を手に持っていることが「結びつくよう」に見えもする。何とか?[粒子加速衝突実験(CERNのやっていること)]とである。
 そう、二つの球体を粒子(あるいは実験での陽子ビーム)に見立て、それを衝突するありさまを想起させる、といった具合にである。
 が、明言できるようなところとして、それが、アトラスの名を冠するエポックメイキングな地図にての表紙の描かれようといった微細些末なることがCERNがアトラスを実験名称に持ち出した理由かつ回答になるかと問われれば、ならないだろうとしか言えまい。
 それにつき、
「2つの球を併せようとするアトラスの図像は多数のアトラス関連図像の中にあっても ―私の知りうる限りは― 上の一図像ぐらいのものだからである」
などという常識的な理由に拠るところではなく、真なる回答 ―CERNのアトラスの名称使用に関する回答― と思しきことが他にあるとのことがある。次のような回答と思しきことがあるとのことがある(それもまた直前頁のおさらいを多分に含む話となる)。

 上のアトラスの図像は911の"プログラム"で打ち倒された二本の柱が仮託されていたと思しきもの、"ヘラクレスの二本の柱"と結びつくもの、すなわち、
[フリーメーソンのヤキンとボアズの柱の図像]
とも結びつく
ものである(細かい解説は[本Webサイト上他頁の証拠記載部]に譲る ―例えば[WTC付設オブジェ・スフィアとヘラクレスの柱とヤキンとボアズの柱の関係]を指摘している箇所[問題意識の所在―5―][問題意識の所在―7―][問題意識の所在―9―])などがそれにあたる;文字色改変部をクリックすることで各頁につき確認可能― )。
 以上、振り返ったうえで述べるが、
[フリーメーソンが固執しもするヤキンとボアズの二本の柱を倒す]
と言えば(何度も何度も述べてきた911にまつわる隠喩との絡みで)それらヤキンとボアズの柱が面前に立つソロモン王の神殿のゲートを[無理矢理こじあける]ことの比喩とつながるように解釈できる。ソロモン王は
[悪魔を使役した王]
と馬鹿げたオカルトの世界、及び、ムスリム(イスラム教徒)の伝承にあるが、それを茶化した上での[操作者](フリーメーソンのような手合いが定置するところのグレート・アーキテクト、デービッド・アイクのような海外で物議を醸した人間が述べるところのレプティリアンのような存在)の世界と我々の世界を部分的に接合する ―接合の結果、我々、全員が死ぬことになるかどうかは見方に拠るだろう(私としては地球消滅/続くゲートの恒常化措置ということとてありうると見ている)― との前言がある、と解釈できるのである。
 そして、異常無比なることに上のような解釈が真なることを傍証するように911の化け物じみた前言が[次元間の接合を寓意する作品]の中でなされており(:ここまでに具体名を出し解説も講じてきたその伝での前言作品は複数作ある)、の中には一流の学究の論稿までもが含まれていたりもする直下、追記部として図を付しておいた)。
 であれば、CERNがアトラス(ATLAS)、ヘラクレスの柱(911の事件で崩された双子の塔と結びついた柱)と結びついたその巨人を持ち出したのは
[ゲートのようなものをこじあけようという操作者の意図]
を受けてのことと考えることもできる

Excursus

※上にて[さらなる追加図解部]を設けたところで再三再四、述べさせてもらうが、

「増築に増築を重ねていることもあって当サイト内容はあまりにも入り組んでいる。ゆえに
[印刷後検討]
などじっくり向き合える環境での検討を(順序をおって)なさなければ[全文理解]は ―(「難しい」というより)― 不可能に近しいように思える。
 真摯な読み手の方々には以上、汲んで頂いたうえで([印刷後検討]の履践などを通して)私が正しいことを言っているのか、そうでないのか、ご検討いただきたい」

※ここに至るまで扱ってきたとの常人は首をかしげてならないだろうといった性質の話、
[次元接合 (より科学に親和性高き書きようでは空間接合か) の可能性を巡る話]
につき、長くなるも、本括弧内で補足をなしておく (:本括弧内補足部はここまでにて扱ってきたような[次元の接合]疑惑の話が「海外で(幅広くも、とは述べないが)一部の人間の耳朶じだに残るようなかたちでなされているか否か/なされているとしてそれは一体どういった形態のものとなるか」という[言論流通動向]の解説に終始するものとなる。そのためために、[言論流通動向]等に興味なき向きは ―本筋から外れるものとし― 本括弧内補足部を読み飛ばしていただいても構わない)。
 さて、
[【ヤキンとボアズの柱の倒壊】→【ソロモン王の神殿の門の倒壊】→【異次元との扉をこじあげる】との寓意が認められる]
との流れで主張をなす欧米人も"極一部"いることにいるとは当サイト上の直前直上の部にて言及した
ところである ――述べておくが、そこには[超陰謀論者]といった式でカテゴライズされがちな論者であるものも、実に意味深きことを多々、述べてきた既述のデービッド・アイクは含まれない。彼、デービッド・アイクはヤキンとボアズに着目まではするが、それ以上のことは言わない。"人外"は普通にこの次元にいるとしているような人間であることもあるのかもしれないが―― 。
 そうした極一部の"発言する"欧米人の中にあってもアトラスとヘラクレスの話と次元接合(ワームホール、重力の扉の開閉)にまつわる話とを結びつけて寓意性存在の"明言".や"指し示し"(立証)をなそうとの人間がまったくもって目に付かないとのことが問題になる(後日付記右につき[条件付き訂正]を兼ねての追記をなす必要が出てきたそれについては直下を参照されたい)。 気づいている節がある人間らが 「端的あるいは間接的に示唆する」 ようなことは見受けられるも、彼らが一からそうした寓意性がそこにあるとのことの明言・立証を試みているとの場面は見受けられないのだ。

(⇒[海外にてのアトラス・ヘラクレスと次元接合を結びつける言辞]にまつわる追記として
 同じくもの補足部内にあっての直前部にて
「[ヘラクレスの冒険にみるアトラスの話と次元接合(重力の扉の開閉)の話を併せてなす向き]は海外にもいない」
と書いていた ([ソロモンの柱]のことを臭わせている向きはいたと見受けられる一方、また、(巨人アトラスならぬ)[アトランティス]と次元接合が結びつくと匂わせている向きはいたとの一方でのこととして目に付くところでは巨人アトラスとヘラクレスの物語と次元(空間)接合にまつわる寓意性とを結びつけているような向きはいないと書いていた ――ちなみにアトラスならぬ[アトランティス]と次元接合の伝での話は当サイト上のウェブ上の先のページでの『スターゲイト・"アトランティス"』絡みの話にて言及していることと通ずる―― )。
 だが、本サイトを公開して一年以上経た最近になって確認した折、欧米圏で
[911と次元の接合の関係にまつわる話]
について ―「何故だか」多く「過度の」憶測を交えに交え、決して万人の支持を得ることができぬ(というより支持を得るとの[潜在力]が無いとの方が至当か)やり方でだが― 以前より言及していたとのとある向きが、といった話とあわせてのところとして、
[アトラスとヘラクレスの物語]
への言及"をも"検索エンジンに引っかかるような形で「はっきりとなしている」ことに「気づかされた」。
 直前直上部にて
[ギリシャ神話の巨人アトラスとヘラクレスの物語を911絡みで次元接合を結びつける向き]は ―端的な示唆あるいは間接的示唆といった範疇を超えては― 海外にあっても存在してない
としていることに反するように日付的に数年前に遡るかたちで、である (述べておくが、ヘラクレスにまつわる話に言及しないで911の事件と次元の接合とも表せられるようなことの接合性が観念できる、スターゲイトが構築されうるといった式での話をなす、ないし、反対に、次元の話を抜きにして、[アトラスとヘラクレスと911の事件の関係]自体について論じる欧米人は ―立証をなおざりにされているようだが― 確実に数年前よりいた。2、3名のみだが、いた。そのことは[敬して然るべき先達]という文脈にて先の頁でも既述のことである)。
 同点に関し、そう、[911および次元の接合との式での話]と[911およびアトラス・ヘラクレス関連の話]をあわせてなす(不徹底ながらもあわせてなす)とのやりようにつき、もし日付偽装のようなことがなされているのなら ―(相応のやりようをとっての意図的偽装媒体の構築とのことで述べれば、日本ではカルトの愚か者と思しき者達が、まさしく彼らの本分なのか、[真実を毀損する結果にしか終わらぬといった按配の日付偽装を込みにしたゴミ]を彼ら由来のブログや掲示板などからネット上にばら撒いているとのことが見受けられる.情報流通上の特段の助力を受けて、としか見えぬかたちで、である)― 欧米圏でも煙幕を放出するための要員が「日本より遙かに高度で興味深い話柄を用いてであるも」いるという式につながりかねず「極めて遺憾である」ということになる (凡そまともな人間は手を出さぬだろう日付偽装を伴った情報発信。それを敢えてもなすとの意図は[真実の陳腐化のために重要事に言い旧された噂との色調を付加すること]にあるともとれるし[告発者達の意気を ―陳腐化されて無駄に終わるだろうと― 削ぐこと]にあるともとれる)。
 しかし、さにあらずんば、日付偽装の類がなされていなかったのならば、
「少なくとも次元の接合の話につきアトラスとヘラクレスの物語とつなげるかたちで ―(しかも固有名詞を列挙方式でつなげるという形以上のやり方にて)― 言及している向きが以前より存在している」
とのこととなり、そう、「数えるのに片手の指だけでも十二分すぎる数だけ ―発信者名単位で見れば1名ないし2名― だが存在している」とのことになり、そがために、私は自身の言 ―「他例は海外にあっても絶無である」との言― を撤回せねばならないことになる。
 そこにいう、
[現時、観察される海外の言及者;アトラスとヘラクレスの物語の話と次元の接合の話の ―911の事件絡みでの― 同時言及者]
は実証性を期待することなどできない式/証拠に根差さぬ過度の憶測を含んだ式 ―誰をも動かしえないし何物をも変えられない式― での論理展開を採用しているようなのだが(であるから遺憾でならなく、かつ、疑いも消えない。そして引用もなさない)、とにかくも、私は従前の言、
「他の明示的なる同時言及者がいなかった」
との言の撤回をなす必要があるかもしれない(:[英語を解し常識の枠外の世界に付き合うだけの雅量を有した興味ある向き]にはご自身で同じ式での海外の言及者の物言い ―原文資料― を研究してみることを勧める。彼らは ―実証はなしてくれはしないのだが― 他の911絡の告発者の言を容れているような形で「部分的には」実に興味深いことを口にしているから、のように勧める)。
 以上のことを踏まえ、
[条件付き訂正]
ということで本追記を付しておくこととした。※文字色を変えてのここまでを ―ひと続きの補足部の中にあって読みづらくも重畳的に付した― 追記部とする)

 一からきちんとした明言・立証を試みる人間が海外でもいないのに対し、
[判断力を残したフリーメーソン員のある一定以上の立ち位置にいる者]
に至っては、大勢がその可能性があること、「時空間を一にせぬ世界間の接合のようなこととアトラス及びヘラクレスの話が結びついている」可能性があることにまで"完全に"気づいている節があるように見受けられるのであるも、そうした手合いはしゃべらない。サブ・カルチャーの中で隠喩的に言及したり、"させられている"といったようなことは見受けられるが、彼らは人類の将来のためにそれを ―世界を変えうるようなやり方で― 敢えてしゃべるようなことはしないのだ(そもそも、フリーメーソンであれば、ツインタワーがメーソンにとって極めて重大なシンボルとされるヤキンとボアズに仮託されていた節があること、また、そのヤキンとボアズ、悪魔と契約して悪魔を使役したと伝わるソロモン王の神殿の柱らが視覚的・質的同質物が何たるか気づけるところか、と思えるとのこともがある)。何故か。飼い主にとってはっきりと触れることがフリー(自由)と名にのみ冠する[精神の奴隷]には都合の悪いことであるから、と私は見ている。メーソン員に期待することは筋金入りの創価学会員、同文に尋常ならざる組織的な動きを見せ、また、命令されれば自身も他人も殺しかねないとの精神構造を有しているような者達に期待する並みにナンセンスなことである ―そもそもの[彼らの存在意味]を考えなければならない― 」とは言うまでもないこととして書くのだが

 長くなった括弧内補足部、[世界規模での言論動向]につき ―本筋から外れている中― 触れもした括弧内補足部を挟んだうえで述べるが、ここまでの多分におさらいを含む話で言いたいことは分かったろう。CERN"アトラス"を持ち出したのは
「ワームホールのようなものをこじ開け、時空をよろしくない意味で接合する意図の発露ととったほうがあまりにも不快かつ膨大な他事情の山 ―[アトラス・プログラム]関連事象、ここに至るまで相当の字数を割いてきて論じてきたこと― から妥当である」
と述べたいわけである。

 巨人アトラス自体の話はここまでとし、本頁冒頭にて挙げた三図中にあっての[右側に位置する図像](直下にも再掲)の話をする。

 そこには
[犬のような生き物が矢を射られてもんどりうっている様]
が描かれている。その犬のような存在、「オルトロスOrthros」というギリシャ神話に登場する怪物となる(同オルトロスが描かれている上図像はギリシャ時代のものとされる美術作品からの抜粋である)。
 と、ここで、何故、いきなりオルトロスOrthrosなのか?
 「段階説明方式で」いこう(言ってみれば、「当サイト全コンテンツが段階説明方式を採用している」わけだが、中でもその特質が際立ったやり方でいこう)。

 第一に、である。
 神話上、オルトロスはヘラクレスの第10番目の冒険で登場した犬の怪物でありゲーリュオーンのパートナーである(ゲーリュオーンはフリーメーソンに仮託出来る存在だとはくどい程に述べてきた)。第10番目の冒険でゲーリュオーンと共にヘラクレスに誅された存在である。その第10番目の冒険で打ち立てられた
[二本の柱]
が現実の世界では(神話とは逆に)「11」にこだわるように崩された ―先の段では[メデューサの孫たるゲーリュオーンとも結びつくフリーメーソン]に崩されたといった形でも述べた― と従前の内容を繰り返しつつ先に進める。

 第二に、である。
オルトロスの兄は「ケルベロス」である。そのケルベロス、冥界から脱出しようとする死者の"魂"を食らうともいう有名な三本頭の犬である(:私としてはエジプト愛好癖があるメーソンが重視しているともとれる古代エジプト『死者の書』登場の"魂"を喰らうという二足歩行のワニ顔の怪物、Ammitアメミットに対応するようこさえられた存在と見ている。いいだろうか。この話はより後の[魂(などと呼ばれるもの)]の話にも関わることだ)。オルトロスの兄はケルベロスであるとしつつ、言うが、尻尾が蛇である同ケルベロス、既述のようにヘラクレス第12の冒険で[冥界]から引きづり出され、涎を垂らして[毒薬の元](トリカブト)をもたらしたという怪物である。

 第三に、である。
 既述のアトラス・プログラムは[逆・ヘラクレスの冒険プログラム]ともいうべきものとしたが、その絡みで
「ケルベロスが冥界から引きづりだされて、屈服させられる、といったことと逆のことが生じうる」
と繰り返しつつ、述べる。
(前提として述べてきたことを押さえておらぬ向きには狂人の話柄と映るだろうが)「"冥界"的なる世界との次元の接合がなされて、人間の多くが"毒"のようなもので殺傷されて人の歴史は忘却の中に葬り去られ"うる"といったことになりかねないのが今の我々の置かれている状況だと見えることがある」(リセットされ"うる" ―ワームホールやブラックホール(あるいは、LHC実験に係わる研究者一般にすぐに蒸発すると「される」ところのマイクロブラックホール)が発生した時点で即・破滅かどうかは分からぬがワームホールからナノマシンなどを別世界に送り込むという発想法はWeb上の前頁で既述の正統派科学読本『パラレルワールド』を精査した限り「成り立つ」ことだ― 。同点に絡むこととして、[冥界の忘れ椅子に座らされていた男]の話も先の段でなしている)。

 第四に、である。
 もう第三の点で言わんとしていることは大体にして伝わったかと思うが、詰めをなしておく。
ヘラクレスが第10の冒険で打ち倒した上掲のオルトロスの尾が蛇ならケルベロスの尾も蛇。そして、オルトロスもケルベロスもヘラクレスが初期の冒険で倒した多頭の蛇の怪物「ヒドラ」と親を同じくする兄弟であり(ヒドラの頭は九頭。日本の九頭竜信仰を想起させるように、である)、同ヘラクレスが第11番目の冒険で倒した100の頭を持つという蛇の怪物、ラドンの兄弟でもある右ラドンについて。私は多頭の蛇の怪物Ladon、黄金のリンゴを守るその存在が放射性物質Radonの命名理由と結びつくとまでは、「L→R」とした上で結びつくとまでは強弁しない。一般に、蛇の伝令使の杖を持つマーキュリーを想起させるマリ・キュリー、1"911"年にノーベル賞を受賞した同女史が発見したRadiumから生じるもの、ラテン語radiusに由来するとされるRadonLadonなどとするのは暴論 unreasonable argumentを展開する気はない。が、この嘘ばかりの世界は何でもありだから脇に逸れつつ、そういうことが"あってもおかしくはない"とだけは言及しておく)。
 ヘラクレスは幼少のみぎりより二匹の蛇を打ち倒していた"蛇の眷属"退治の英雄であるとしたが、図で挙げたオルトロス退治もまさしく、その体現であると述べられるのである。とした上で言うが、神話にて"オルトロス"とタッグを組む「ゲーリュオーン=フリーメーソン=蛇にこだわる結社」がヘラクレスの二本の柱を ―伝わる冒険内容とは逆に― 崩したと解釈できる(既述)という中にあってオルトロスがもんどりうっている上抜粋図の意味していることはLHCの粒子加速施設アトラスとの絡みでも実に意味深いのだ。
【"オルトロス"Orthrosが登場する第10番目のヘラクレスの冒険】(その舞台はギリシャ世界から見た西の果てにして大海の中に孤立した場。そして、[問題意識の所在―2―]と題した頁で挙げたような諸種理由からアメリカ=アトランティスと仮託可能な場) → 【右の10番目の冒険の舞台にして11番目の冒険で登場する[アトラスの娘たちが管掌する黄金のリンゴの園]とも複合的につながる場、アメリカのニューヨークで11という数にこだわって崩された"WTC"の二つの塔】(二つの塔は10番目の冒険登場の柱に仮託可能。同様の文脈でニューヨークはギリシャ世界から見た大海の先にある10番目の冒険登場のゲーリュオーンとオルトロスの島にも「後付けで」仮託されているととれる) → 【11番目の冒険にて登場のアトラス(の娘達)と100の頭を持つ、"オルトロス"の兄弟のラドン】 → 【LHCのアトラス】(CERNがニューヨークの"WTC"設営を促したロックフェラー一門が造成したロックフェラーセンターの「極めて独特な」アトラス像と酷似したシンボルを採用) ← 【ワームホール生成の危険性】 ← 【"オルトロス"の兄 ―ケルベロスことサーベラスCerberusCERNberusたりうる― が住まう冥界の門開閉の危険性】(12番目の冒険の話

という観点上。

 以上、四段階を経ての段階説明方式で ―まじめにお読みなられている方にとってはいささか食傷気味のことかもしれぬことを― 繰り返してきたが、一言で表せば、こうである。

オルトロスのもんどりうっている図像ひとつとっても、である。"次元接合"のきな臭い話(きな臭い話といえば、一部の欧米人は私とは全く異なる文脈 ―追記:上にての補足部内にて付した条件付き訂正文に見るように[全く異なった文脈]とは言えなくなった)― で Stargate Conspiracy Theoryと"される"ものを展開。この期に及んでも、なお、 Conspiracy Theoryこと[陰謀論]などという不適切な言葉を使う輩とは話したくもないのだが)を想起させるように、そう、LHCATLASでさえも想起させるようにこの世界は出来ている

 と延々、述べてきたが、以上のワームホール生成の"可能性の話"に関し、
[大人の常識人が口にしそうな想定反論]
を挙げつつ、それに対する再反論を簡潔に記してもおこう。嫌になるのだが、何度となくやってきた一人キャッチボール方式で、だ。

【大人の常識人の想定反論】 粒子加速器はLHCのそれだけではない。多数存在する。中にはLHCを規模・出力の面で上回るものも、もう数十年も前に登場しかけていた。80年代、アメリカはテキサス ―大統領を二人輩出したブッシュ一門の御膝元― で開発が進められていたSSC Superconducting-Super-Colliderこと超伝道超大型加速器)がそれだ。
 同SSCに至ってはLHCの数倍規模(数十兆電子ボルト)のエネルギー出力を有したものになるところだった。LHCの話から次元の接合云々、言うあんたは法螺吹きだ。

【回答】 結局、SSCの開発は"頓挫"した。建造費大幅増加と資金調達失敗によるとされる形で、だ(日本語Wikipediaでは本文章執筆時でSSC建造費見積もりが80億ドル以上に達したとされているが、米国物理学者カク・ミチオは自著『パラレル・ワールド』で"11"0億ドルと気になる具体的数値を出している:言っておくが、カク・ミチオは私のような"非"常識人として次元の扉と粒子加速器を直接的に結びつけるようなことは"しない"人間だ。彼はSSCについても次元の扉やパラレル・ワールドとはまた別の文脈で著書に持ち出していたといった人間である)。 
 が、「この手のことに関しては建造資金は"本質"ではなかろう。人の結集と技術の問題の方が大きい」としつつ、言っておく。
 「SSCが完成しなかったのは"頓挫"によるところではなく、まだその時期に達していないとみなされていたため、すなわち、プログラムの前段階にすぎなかった可能性もある」と。
 これは今まで述べてきたアトラス・プログラムの有り様から考えれば自然な発想である。

【大人の常識人の想定反論】 物理学者は人類のベスト&ブライテスト(最も賢明な者達)とも言える存在だ。そういった者達が自殺行為に手を貸すだろうか。馬鹿げたことだろう。

【回答】 本質抜きに実に退屈な仕様で作られている高校の「物理」の教科書に見るように極めて紋切り型ながらも同時に極めて"アカデミカル"で、かつ高度な数学と接合する物理学。その担い手が最も複雑な領域に携わっている最も賢こき部類の人間であることに異論はないが、それは彼らの内面が豊かで自由な精神を有していることとイコールではない。もっと言えば、―くどくなるも― [女王蟻に命令されるワーカー蟻のように自主性を持たぬ者]が物理学者という人種に少なからず含まれており、劇の人形のように動かされている可能性もある(そういうことが実際にあると私は何度も何度も示唆したはずだ。デービッド・アイクの不完全な異説、が、欧米では大変、物議を醸している異説さえも持ち出したりしつつ)。
 事実、極めて不自由で、偏狭で、かつ、何でもやる輩がベスト&ブライテストとしての[最高品質の物理学者]として数えられてきたのが人類史だ。ナチスのために原爆を造ろうとし、「もうすぐにナチス世界が来るからそうしている」と述べたともされるハイゼンベルクやマンハッタン計画主導者ロバート・オッペンハイマー( Robert Oppenheimer )などがその典型例ともいえる(※)。
本括弧内で付言しておく。「オッペンハイマーは事後、水爆反対派にまわり政府監視下におかれたとされるが、問題の本質はそんなところにはないと見える」と。むしろ、オッペンハイマーが後述する[三位一体Trinity]を名称にした"トリニティ"実験での最終成果現出時、「われは死なり。世の破壊者なり」とのインド一大叙事詩の一節、BhagavadGita『バガヴァッド・ギーター』 の中の一節を思い浮かべたと述べており、それが"やらせ"の高踏的比喩ととれることの方が重要である:右は愚かな人形のような輩がオッペンハイマーの繊細な内面の問題にすり替える有名な話だ。対し、もう少しマトモな部類はバガヴァッド・ギーターを含む一大叙事詩Mahabharata『マハーバーラタ』が核戦争を想起させるような描写を含んでいることに目を向けるかもしれない。 20世紀初頭、英国人科学者フレデリック・ソディが自著 In the Interpretation of Radium 『ラジウム講義にて』の中で「忘れ去られた古代文明は核技術に通じていたのかもしれない」といったことを同『マハーバーラタ』を引き合いに述べていたという観点上。 すなわち、ソディの研究領域が[化学]にも通じたオッペンハイマーが重んじていた[化学と核物理学の接合分野]だったこともあり、『ソディ著作をオッペン・ハイマーが読んでいたのでは?だから、オッペンハイマーは核兵器完成後にマハーバーラタの中のバガヴァッド・ギーターの一節なぞを口にしたのではないか?』 とマトモな部類の常識人なら推論するかもしれない。が、真の答えは自身を死や破壊そのものに仮託するオッペンハイマーの["傲慢"でなければ、"異常"としか見えぬ神経。後、水爆反対サイドにまわった人間とは思えぬ神経]に"やらせ"の本質が垣間見れると考えられることである、と私は強調しておきたい)。
 CERNに集結した者達の大半がフリーメーソンのような者達だとまでは揚言はしないが、その主導部はメーソンかメーソン的な者達であると合理的に考えられることとつながる話として、である。

 大人の常識人が言いそうなことを想定、反論を講じたところで、だ。最後に次のようなことを述べて次元の接合に関する話を終えることとしよう。

 多少というよりかなりこじつけがましいことであるも、取りあげておくべき可能性論だと判断したので、取りあげておく。
 さて、LHCは同じくCERNが運営していたLEP、2000年に[運用が終了した加速器のLEP]の設置場所を受け継ぐ形で建造されることとなった。そこにいう運用終了加速器LEPとはLarge-Electron-Positron-Colliderの略称だが、その名、素粒子物理学の探求対象、軽粒子ことLepton(レプトン)に対応させたと解釈できる。
 とした上で、同"Lep"ton、うちLeptoの部分がギリシャ語のleptosレプトス、"軽い")に由来するとされるその言葉の[LHC前座にあたる運用終了加速器名称への転用]の時点でデービッド・アイクが広めた異説、「人類の亜空間からの支配者は爬虫類人ことレプティリアンである」という異説につながって"しまいかねない"。
 レプティリアンのスペルはReptilian(デービッド・アイクが特別な意味を付加するまでは"爬虫類の"という形容詞、あるいは、"爬虫類(的卑劣漢)"という一般名詞として時折、使用されていた語)であるが、仮に、である。LをRに左を右に変換するとどうなるか?(あるいはleptosことLight"軽い"をRight"正しい"への方が妥当な表現"かもしれない"が。私の意中には物理学にいう対称性の問題のこともあるとしつつ述べることとして)。
 LEPRep ―爬虫類とつながる接頭語― になり、LEP正式名称に含まれるCo"ll"ider(衝突器)はCo"rr"ider→Corridor(回廊。ワームホールも回廊だ)になってしまうのだ。当然のこととして、この"複合解釈"の推論は[とってつけたようなもの]、[実に馬鹿げているもの]( ridiculous speculation )の類に見えるだろう。しかしながら、かならずしも「さにあらず」だ。
 まずもって、私がある洋書で欧州の歴史について分析していた折、「欧州では歴史的にLとRが混同されることもままあった」と目にしたこともある(正統派 ―という名の馬鹿者共やファウスト博士達― が似非科学の書だと指弾するロシアで物議を醸している書、 History:Fiction or Science?『歴史。それはフィクションか、科学的なるものか』。その中に「客観的なる図像つきで」次のような記述がある。‘The sounds "R" and "L"were often confused in the Middle Ages.’。同著の中世Middle Agesには何故か、17世紀までもが含まれている、と付言しつつだ)。
 また、こういうこともある。
「CERNがその発展史上で登場してきた量子力学。そこには多くの[あまりにも奇怪な寓意]が込められているようで、同学問分野の最重要要素、波動関数"でさえも"極めて意味深い形で[複合解釈]できるものになっている」
 波動関数がΨ(ギリシャ文字のプサイ)で表されることについては
[人間の魂と呼ばれるものの操作]
の問題に直結するからだ、と"裏"解釈できるようになってもいるのだ(言っておくが、私は魂などという言葉を用いるが、神秘主義などというものはおよそ好まない。いや、というより心底、忌んでいる)。それについてはプサイpsiがそれ単体で"魂"を指す字句とされることもある。歴史上、Ψプサイが特殊なアイコン(識別子)として用いられており、そのことを突き詰めていくと量子力学の領分とつながるようになっている、ととれることもある(:『ますますもって門外漢には訳の分からない話をしているな』と思われる向きが過半であろうも、["量子力学"と"プサイ"と"魂と呼ばれるもの"の問題]は本頁より後の頁にても扱うので疑義を差し挟むのはその内容をお読み頂いてからにしていただきたい、と述べておく)。
 とにかくも、量子力学の分野にはどんな隠喩あるいは悪魔のジョークが含まれているか、わからないのである。やたらに凝った二重解釈可能なシンボルに満ちた人類史の中でとびきり際立った一要素として、だ。
 以上のような側面もあって、同量子力学分野の探求装置であると同時に、次元間の扉を開きかねないとも一部で指摘される粒子加速器にその名称レベルで深い意味を求めても ―それが正鵠を射ているかどうかは読者の判断に委ねねばならないが― 考えすぎとの野次にはあたらない、と見ているわけである。
尚、操作者が"Rep"tiliansであると無批判に断言はしないが、1000年単位でものを見るそういった連中が歴史的に爬虫類のシンボルにあまりにも顕著に固執してきたというのは自著でも言及している事実である: Whether puppeteers are "Reptilians"(like David Icke asserts so) or not, it is the fact that demonic entities have persisted in making soul-deprived people use serpent/dragon symbolism esoterically.)

 以上をもって「次元の接合」懸念の話を(取りあえずも)述べ終えたところで次に述べるべきことと定置するは「アトラス・プログラム」の帰結としてありうべきこととして先立っての頁らで注意喚起をなしてきたとの三つの懸念、
I.「現行人類は大量間引きされる」
II.「次元の接合がなされるなどして操作者達の直接統治が始まるか卵の殻が割られ孵卵器フランキとしての我々、人類の時代の終焉がもたらされる」
III.「人間の"魂"と呼ばれる精神性が完全に圧殺されてしまう」

のうちのIII、「人間の"魂"と呼ばれる精神性が「完全に」滅殺させられてしまう」である(:[魂]との言いようをなしてはいるが、そちらについては便宜的に用いているとの言の葉、長くも表せば、[想いや意志、のみならず、ありとあらゆる人間性を生じさせしめるとのものである内面の実体の部、ないし、内面の機序の部]を指し示すものと受け取っていただいても構わない)。

 とした上で、まず最初に下の図を見ていただきたい。

 上は
「錬金術師の空気ポンプを用いた実験を描いた絵画のアレンジ」

となる(ライト・オブ・ダービーことジョセフ・ライトの18世紀中頃の作より)。
 問題は、である。
上の絵画でガラスの中に閉じ込められているハトが人間の"魂"の比喩になっていることであり、それが我々、全ての行く末に関わる
という解釈が ―根拠伴って― 成り立つ、ということである。
 何?馬鹿げた話(あるいは意味不明な話か)はよせ?
 これから書くことを精読してから、そのようなことは言って欲しいものではある。としつつ、先にすすむ。
 さて、金の生成や不老不死の実現だけではなく「魂の改変」をも目的としていたとされる"人形"を用いつつの皮肉に満ちたお遊びとしての錬金術(上掲画のモチーフにもなっている)。その錬金術をはじめ諸種様々な領域にてハトが魂と呼ばれるものの比喩になっているのを証することからはじめることとする。については、もうすでに
「鳩がキリスト教のTrinity三位一体思想上に絡む"通説"にあるように"神の一部たる聖霊"の比喩ではなく、あまねく人間の魂の比喩であると"解釈できる"」
と述べはしている(お忘れの向きは本Webサイトの[問題意識の所在―7―]と題して始めた頁を参照されるとよい。そこでは、これからなす話が向かう帰結も込みで ―不十分ながらも― 「布石としての前言」をなしている)。
 であるが、続く話はそのような曖昧な解釈論ではなく、[ハトが魂の比喩となっていること]をより広く、しかも、より合理的に(根拠主導型で)指し示すというものになる。
 手始めに下に挙げる図像群を見て欲しい。

 まずは最上段の図像からである。便宜的に第A段の図像としよう。その説明だが、一言で言えば、「欧州は16世紀の鉱物学に関する著書のタイトル(とその一部拡大部)を挙げたもの」となっている。より具体的には、だ。アグリコラという名で知られるドイツ人医師が往時の鉱物学に関する知識を集めた解説書、メタリカ、こと、『金属に関して』の表紙となる。
 さて、すぐにお気づきになられたことかと思うが、同「第A段の図」には二匹の蛇が巻きつく杖にハトがとまっている図像が描かれている。鉱物学の著書としてはあまりにも不自然に描かれている。そこに見る蛇の巻きつく杖はヘルメスの杖、前にも言及した「商業と盗人の神の杖」だが、何故、上のような構図がとられているのか?
 と、ここまできて、臆面もなく言ってしまおう。
ハトは人間の魂の象徴。蛇の杖は人間の内面に対する支配の比喩である」。
合理的な解釈をなした上でそう言える。何故か。
 まず第一に、である。神のヘルメスは錬金術師界の伝説上の存在、ヘルメス・トリスメギトス(しばし、既述のゲーリュオーンのような三つの顔を持った姿で描かれる)と接合する。ために、金属の変成をあつかっていた錬金術にも接合するアグリコラ著書『金属に関して』が錬金術へのオマージュとしてヘルメスの杖を表紙に持ち出すことに無理はない(ただし、アグリコラという人物が錬金術を否定する立ち位置にあったとの見解があることも留意しておくべきところか、と思われる)。
 第二に、である。錬金術は魂の改変を究極の目的に据えていた。そして、魂はハトと絡むものといえる(この段階では実証は"まだ"済んでいないことだが、導き出せることを先に言ってしまう:右はまさに詭弁に見えようが、そうならないことはすぐに指し示す)。
 先にあげたジョセフ・ライトの錬金術絡みの
[空気ポンプの中のハトの絵]
が周囲の人間が絶望・悲嘆しているように描かれつつも存在しているのが錬金術とハトと魂の関わりを示すと述べられもしようこととして、である。
 上の第一・第二の理由から魂をハトと表する世界、錬金術の世界で用いられる蛇の杖にハトが乗っかっている上図は魂に対する操作の比喩と言える。ハト(魂)が蛇に囲まれ喰われる存在となっているという寓意が含まれつつの、だ。

 以上の内容を読んで、『何かが、おかしい』と思われた方もいるだろう。当たり前だ。上図像群はハトが魂の"普遍的なる"象徴であることを示すべく挙げたものとしたのに、すでに「ハト=魂の比喩」と ―根拠を羅列したわけでもなく― 想定した上で話を進めてしまっているのだから。そう、上の論法は「結論が立証過程に登場する最も拙い詭弁」の様相を呈しているため、おかしく見えて当然のものなのだ。が、無論、「循環論法」などで話を終わらすつもりはない。そのために以降の話があるのだ

 次いで、A段(最上段)下の段の図像だが、便宜的にB段の図像としよう。そこにて挙げたのは
[ミトラ教絡みの図像]
である。その点、ミトラ教というのは「古代ローマ帝国時代に信奉されていた最大宗教(と"される"もの)」だが、上図はその体系上での神格の像を描いたものであるとされる(図像の出典は同分野の研究者としては有名な人物、フランツ・キュモンの著書 Mysteries of Mithra『ミトラ密儀』原著だ:死者に鞭打つようで何だが、私は右のキュモンがフリーメーソンの歴史贋造屋だった"可能性もある"と見ている)。
 オスティア(現ローマ市)から出土したという像を描いた上B段の図の拡大部を見れば、即座に分かろうと思うが、
[ヘルメスの杖][ハト類似の鳥]「似姿からは不分明なるハト類似の鳥と言うべきだろう」という向きにも最終的に他の象徴物から意味論上の問題として納得がいくように話を進めていく)と[松かさ(松ぼっくり)状のもの]が描かれて」いる。
 それにつき、ここでは、だ。上図における[松かさ]状のものが[松果体(pineal-gland)]の比喩であるらしきことをまずもって把握しておいてもらいたい(:ここでは視覚的根拠は挙げないが、後のページで[ヘルメスの杖]と[松かさ]が歴史的に結び付けられているとの視覚的根拠を挙げる)。
 が、「まずもって把握しておいてもらいたい」とはしつつも、ご存知なかろう方が大半と思われるため解説するが、[松果体]とは脳の一器官で「魂の宿る場所」としての位置づけを ―名に負う松かさ・松ぼくり(pineal)に類似する格好のものとして― 古くから与えられていた部位である。例えば、思想史上の大家、ルネ・デカルト ―彼、デカルトは専業の者には"質"的詐欺師も多い"哲学者"などといった分類で語りきれる人間ではなく優秀な科学者でもあった― は松果体を魂の落ち着く場所、「物質世界と魂が結びつく場」と定置してもいた(デカルトはこの物質世界とは別に非物質的なる世界が存在していると見、その場を魂の故郷とした上で、松果体を[結節点]と見ていた。「松果体は"今日の科学的見解では"ホルモン分泌器官以上に見られてはいない」といったことや、「量子力学を突き詰めていった際、"万物は一"の世界に行き着き、我々が考える物質世界の枠組みが意味を有さなくなる」といったことはこの際、脇においておくこととして、だ)。松果体を「魂の再生機」と見る、そういった風潮は大昔に遡るとの説もあるが(Herophilosヘロフィロス、通説に従えば2000年以上前のギリシャの医師に遡るとも)、とにかくも、である。私の著書でも言及している松果体、その"伝統的な魂の象徴物"とされる「松かさ」が上のミトラ教の神格とされるものの脇に「蛇の杖」と「ハト」(くどいが、この段階ではまだ、ハトと言わなくてもかまわない)と一緒に描かれているのは実に意味深いこととなる(一連の流れの中で重視しているハトの意味を考える上で、だ)。
 としたうえで(上中下段と分けて見ている図に関して)さらに下の段の図の話に移る。

 三段目の図像について解説しよう。便宜的にC段の図像としつつである。
 C段では2つの図像を挙げている。うち、左側の絵画の方はメディチ家お抱えの画家だったフィリッポ・リッピの15世紀の作品である。キリストと聖母マリアを描いた「神の子降誕」Nativityがらみの絵画だ。対して、右側の方はローマ帝国期のものとされるミトラ教のレリーフ、「魂の処分」を描いているとも述べられるレリーフである。いいだろうか。B段で挙げたものと同様、「ミトラ教関連」のレリーフである(:上掲の右はワンセットになった「牛の殺害を描いたミトラ教のレリーフ」、同様に「魂の処分」を示しているともされるレリーフと共に私の無償公開著作でも挙げているレリーフでもある。それらは「アメリカ合衆国設立」と「フランス革命」、近代文明の幕開けとなった出来事の最大の欺瞞性を示すもの"でも"あるのだが、その点についてはだ。現実を直視する勇気がある方のみ私の無償公開著作の該当記述部をご覧になられることをお勧めする。"客観的に"、最悪の「去勢の比喩」を伴ったフリーメーソン絡みのメッセージが「合衆国独立」にも「フランス革命」にも付きまとっていることが分かるはずだ)。
 一目して分かろうかと思うが、両者、C段掲載の「フィリッポ・リッピの絵画」「ミトラ教のレリーフ」の間には際立った類似点がある。青色の記号群(楕円・四角形・部分的三角形・台形の部分が対応)で示したように"際立った"類似点がある。
 では、何故、そのような事態が現出しえた(際立った類似性が生じえた)というのか?「偶然だよ」というような類は放っておくこととして、「ミトラ教が中世キリスト教美術作品に影響を与えていたに"すぎない"」という見解の是非について触れよう。
 はっきり言ってしまうが、そういった見解「ミトラ教が中世キリスト教美術作品 ―画家リッピの作品は欧州の中世的枠組みが崩れつつあったルネサンス期のものだが― に影響を与えていたに"すぎない"」との線は全くもって妥当なものではないと見える。何故か。第一に、である。ミトラ教の遺物(不快なだけの"異物"と呼んでもいいもの)はフランツ・キュモン、上に一言だけ、その名を挙げたフランツ・キュモンを始めたとした学者たち ―考古学を形作ってきた彼らの多くが厚顔無恥な大嘘つきである可能性についても私の著作で"客観的に"指し示しているのだが― が近代になってミトラ教遺構(とされるもの)を調査、"再発見"していったものとされる。されるも、そんな近代に至るまで着目さえされていなかった異教と、同時期遺構発掘による異教再発見よりも数百年前に描かれたルネサンス期絵画が酷似しているなどおかしいではないか、ということがある。それについては「[常識としての歴史]否定派」のロシア人学者として欧米圏で物議を醸すアナトリー・フォメンコと彼のシンパ達は ―[信用の置けぬ出典]( unreliable source )との批判も常識人から持ち出されもしよう著作、だが、検討すれば分かろうところとして見るべき内容「をも」有している彼らの著作 History:Fiction or Science?『歴史。それはフィクションか、科学的なるものか』を読む限り― 「ミトラ教とは古代宗教などではなく中世キリスト教の異端である」とのより説得力の「ありそうな」見解を述べているが(彼らフォメンコ達は私とは全く異なる文脈で「ロシアの聖画像 Russian Icon」に「牛を殺すミトラ、 Mithras killing a bull」が登場していると紹介、"Trinity三位一体"に絡む聖画像で牛殺しのミトラ像が登場していると図像つきで紹介しているが ―"学者"である彼らは明言はせぬものの― そこに「魂の圧殺」の比喩があると臭わせているようにも見える)、そういった異説さえも「甘いのでは」としつつ、続ける。
 キリスト教美術作品が「ミトラ教レリーフを真似て作成されたものに"すぎない"」との見解が妥当ではないと見る理由として第二に、である。"ミトラ教的なるモチーフ"がフリーメーソンが近代以降、暗躍した足跡に「不自然に」かつ「人間を馬鹿にするような形で」垣間見れる、といったことがある「魂の操作」の問題"にも"かかわることとして後、その中の一例を図示する)。『メーソン員であった可能性もあるミトラ教"再発見者"フランツ・キュモンなどがメーソンのシンボルをまぶしつつ、お得意の歴史贋造を不合理無比な理由で"させられた"のではないか』(キュモンも彼の活躍年代より100年近く前に人類の歴史学を飛躍的に"進展"させたロゼッタ・ストーン解読者、シャンポリオンが「"そうである"とされる」のと同様、メーソン員だったと見ている)、あるいは、『ミトラ教のレリーフはメーソンの飼い主の人類操作の問題に直結するもののようだ』(こちらが重要となる)。そういったこととワンセットで考えられる話としてである。とにかくも、真贋問わず、ミトラ教レリーフは実に性質悪きものであり、それと似た形になっているキリスト教美術作品もまた、同じ式で"単なる"純模倣物で片づけてはならないものととれる(先後関係不明瞭ながら模倣・被模倣の関係が成立しているとしても、である。その背後には人間業ではない操作の臭いを感じる)。
 脇に逸れすぎたとの感もあるが、とにかくも、15世紀ルネサンス期絵画とローマ帝国期のものとされるレリーフの不可解極まりない一致性、
キリスト教徒の画家が往古、潰えたとされる異教の風習を取り入れたということでは説明がつきにくい一致性
があるとご納得いただいた上で、だ。絵画とレリーフの間で一つだけ、"形通りの対応関係にないもの"があることに触れる。それが上記キリスト教芸術作品に見る"ハト"と"蛇の杖"だ(C段の下の拡大部参照のこと。キリスト教"三位一体"思想に関してはハトは「神の聖霊」とされると同時に実は「魂の比喩となりうる」とは既述。が、「ハト=魂の比喩」と普遍的に言えるとは"表向き"にはなっていないため、ここでの話を展開しているとも既述)。
 それら、上掲第C段で青い円にて囲った"ハト"と"蛇の杖"が「多くの一致性が存在する図像間にあって形態的に近しくない例外」同士であったとしても、だ。両者の間には関係が成立している、それも「魂の比喩を伴って深い関係が成立している」と言えるだけの根拠がある。下の〔1〕〔3〕がそうだ。

〔1〕際立った相似性が"あまりにも不自然に"成立している両図像間にあってだ。そこだけ異なっているということはかえって両者の間に意味が成立していることを示唆していると解釈できる。

〔2〕ハトはキリスト教三位一体思想史上、一般的に「聖霊」の象徴とされるが、上のようにキリストに入っていく形で図像化される(キリストがマリアの中の胎児のときも、赤子のときも、そして、洗礼のときの成人後のときも、だ)。そう、まさしくハト=「霊的なるものの体現物」といった風情で、である(もっと言えば、ハトは「神の聖霊」などではなく「囚われの人間の魂の集合体」と解釈できるものなのだが、それについてはここでは"まだ"触れず一般論の話として)。他面、ミトラ教のC段のレリーフに見る典型的構図では、だ。「ミトラそっくりの格好をした神格」(トーチを持った双子の神格とされる)が「供物にされた"牛"の血で染まった祭壇」(悪趣味かつコミカルな描写を伴って処理される"牛"は同時に去勢されるようにも描かれるのが一般である。私としては「去勢する」の現代英文表記がalterで「祭壇」の英文表記がaltarなのはそういったことに由来するのでは、とも睨んでいるのだがそれは余談だ)に向けて"ヘルメスの杖"を向ける様が描かれており、それは「人ないし供物としての牛の魂の処分をなす行為」であるともとらえられている。"ヘルメス"には冥界への魂の運び手としての役割があることも一因して、である(ただし、言っておくが、問題とするレリーフとワンセットになった未掲載のレリーフ上では牛は ―馬鹿にするように睾丸をサソリにはさまれて― 殺されているのだ。そこから魂は冥界に運ばれているというより、「圧殺されている」とした方が良かろう)。
 さて、言いようによってはミトラ教の蛇の杖も「霊的なものとつながるもの」と解釈できる。とすれば、だ。双方、霊的なものに関わるものとして、「ハト」も「蛇の杖」も共通の意味を持つことになる。

〔3〕相互に似通った特性を持つキリスト教芸術作品とミトラ教のふざけたレリーフ。似ているのはそういった見かけ上の側面だけではない。実のことを言うとミトラ教の「冬至の祭り」とキリストの誕生祭(クリスマス)は近接している(というより、ほぼイコールである)といったこともある。それに対しては「キリスト教がミトラ教風習を往古、吸収したからそうなった」というのが正統派の垂れ流す見解だが、この期にあってそのような戯言を信じたい方を対象にさらに深い話をなす。
 常識的見解(と言ってもその内の左派だが)の中にも
「イエス・キリストは古代地中海世界の神格、死と再生を体現した神々から復活神話を付加された存在である」
との見解が近世以降、出てきた。問題は、である。その中の例えば、民俗学者ジェームズ・フレイザーなどが
「イエスはアドニス(中近東由来の神でギリシャ神話体系にも習合された穀物神)と近しい」
と述べていたことである(私はジェームズ・フレイザーがそうであるような "世間一般で言うところの碩学という存在"に何の信も置いていない。碩学の中にも映し鏡の陰謀論者達、そう、「時にミトラとキリストが"全く同一の神"であると誤った考えを流布しつつ真っ当な説を毀損しているような者達」同様、法螺吹きが多いと見ているからだ。しかし、ここでは客観的にフレーザーの主張が説得力をもって成り立つということだけを問題としたい)。
 フレイザーは
[キリストの故地、ベツレヘムがアドニス崇拝の地と重なること]
[キリストの復活祭(イースター)が死と再生の神、アドニスの復活祭と時期的に近しくも執り行われていたこと]
などを典拠にアドニスとキリストが近しいと自著 The Golden Bough『金枝篇』で述べているのだ。しかし、そこに寓意されることとしての「キリスト復活が捏造話かどうか」はこの際、どうでもいい(死んだ人間が生き返るはずがない。そんなものは捏造に決まっている。キリストに似ているとされるアドニスが"死と再生の神という側面"を「アッティス」、"鍵"となる別の神格と"他の類似事例よりも多くのことを"共有しているのが問題なのだ(アドニスAdonisアッティスAttisも英文綴りが近しいがそれはこの際、ただの偶然としてもだ)。両者、アドニスアッティス
[季節折々の移り変わりに死と再生の儀式が行われる中近東由来の神であること]
[共に死後の植物化が認められる存在]

であるとの目立った共通点を有しているのだが(細かきことを述べれば[母親の女神の嫉視が原因で殺されたこと]も出来すぎた共通点を有しているのだが)、そのようにアドニスと結びつくその「アッティス」、はっきり言えば、[ミトラそっくりの格好]をしている
 だけではない。ミトラ教に見る牛が供物として去勢され殺されるとの格好をレリーフに彫られているのと同様、アッティスも去勢されつつ殺され(そして復活した)神でもある。
 ために、こう言うことが出来る。
【イエス】⇔【ミトラ・アッティス】⇔【アッティス・アドニス】⇔【イエス】との関係が双方向的に成立する」。
 いいだろうか。この際、正統派が当然視するような形で
「アドニスやアッティスなる神に対する信仰が古代地中海世界周辺に今日、漏れ伝わっている形そのままに実在していたかどうか」
は問題ではないのだ。今日的に見て、上のような関係が成立すると解釈できるように人間の歴史が"調整"されていることが問題なのだ。
 以上、書いてきたことをお読みになられれば、もう言いたいことは分かっていただけたろう。結局のところ、キリスト教とミトラ教(とされるもの)は外面だけではなく、内面も同値をとるように"設計"されている(哀しいかな、人間の歴史はプログラムのようになっているからこのように表記する)。後世捏造を顧慮しても、以上のようなことがあることより、両者、「ミトラ教」と「キリスト教」の間に関係性を見出すことはむしろ、合理的ということになり、「ハト」と「蛇の杖」の関係もその例外ではないと推論できることになる。
上記〔1〕〔2〕のような事情があるから、この〔3〕の論法はより強化される。
 さて、ここまで書けば、だ。「実に不快な比喩」にお気づになられた方もいるだろう ―長くもなるが、それについて、本括弧内で述べておこう― 。そう、私の著書では存在してもいなかった贋造物だとの見解を擁護している「ジーザス・キリスト」とは要するに「玩弄物にされ、ミトラ(=アッティス)教の牛のように"魂の"去勢 ―物理面ではなく"内面の"処理だ― をなされた上で殺されていく」人間"一般"の比喩であるとお気づきになられた方もいるだろう。
 そのように述べた上で言っておくが、仮に自身がそのように人間を"運用"する「ジーザス・プログラム」などのようなものを走らされていたとしても、だ。私は人から心魂を奪うような存在が望む[恐怖]や[絶望]に負けずに笑い飛ばしてやるつもりだ:デービッド・アイクは言う。人は[恐怖]や[絶望]に身を任した時、人外の虜囚になる、と。その点に関しては私も彼アイクと同意見だ。そのようなプログラムなど「実に下らない」と。「明日、人形のような者に刺されて死ぬ」と予告された、としても笑い飛ばしやるだろう:これは"まだ"戦う勇気と力をもった方に言うことだ。また、同じ理由から何でもやらされるキリスト教徒達が十字架上で殉教させられていたのも、宗教戦争で大量に殺され殺していたのも悪魔的存在のお遊びだと解せられるが、無論、それも実に下らないことで人類は悪魔的存在の生贄にされるのに抵抗するときが来ている、とも思っている 。メーソンの飼い主にあたるそういった存在のプログラムのこのフェーズでの最終工程は冗談抜きに「地球上に光の十字架を大量に建てること」だととれるからだ
)。

 以上、余事記載も多く、長くなってしまったが、〔1〕〔3〕の理由から二つの全く異なるモチーフを描いているもの、だが、全体的に相似しているもの(「フィリッポ・リッピの絵画」と「ミトラ教レリーフ」)を通して、だ。「ハト」と「蛇の杖」が結びついていることがお分かりいただけたか、と思う。霊的なるものとの比喩を伴いつつだ。もっと言えば、「霊的なるものの操作」の比喩を伴いつつだ(蛇の杖は、魂の冥界送りをなすヘルメスの杖として霊的なものの操作に直結する)。

 A段B段C段と三段 ―内、C段〔1〕から〔3〕といった形でさらに細分化した箇所を内包― に分けての図像群解説はここまでとし、そこから導き出せることの帰結説明をなす。

 直近表記の第C段抜粋図像群解説から導き出せることを基点に以下の関係が導き出せることは自明だ。

【第C段】「蛇の杖」と「ハト」。その組み合わせが巧妙に暗号のようにまぶされている、霊的なる要素を伴ってまぶされていることが判断可能 ⇔ 【第A段】"魂"の変成を扱う錬金術を意識した著書に「蛇の杖」と「ハトと思しき鳥」 ―錬金術関連の絵画ではハトそのものを併せて描くものも存在― が登場(もうこの段階に至ってはA段の説明で述べたことも詭弁の類になりえないのがお分かりいただけるかと思う

【第C段】同上 ⇔ 【第B段】C段で扱ったものと同じ題材(ミトラ教関連作品)に関し「"魂"の在り処と定置されてきた松果体の比喩とされる松かさ」、「ハトのような鳥」、「蛇の杖」が同時に登場

 上記からも言うまでもないこととして
【第C段】【第A段】【第B段】(⇔【第C段】
といった形で端的に表される双方向・円環状の関係が完全に客観的に成立する。「ハトが霊的なるもの、すなわち、"魂"の比喩であること」がより普遍的に当てはまると"見える"ということを帰結として、だ(本当は長ったらしく説明しなくとも多くの方に図のみからでも直感的に分かっていただけることと思うのだが)。

 が、「まだ十分ではないだろう」としつつ、本頁はここまでとしてWeb上の次頁に入ることとしよう。

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