典拠となるところの明示[28]――斯界のカリスマと評される物理学者キップ・ソーン
の手になる著作を契機に指摘できもすること(6)

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ブラックホールにまつわる文物らが何故にもって[「奇態なる」先覚的言及]と結びついていると述べられるのか、属人的主観の類が一切問題とならぬとの式で[文献的事実]のみより摘示なせるところ[6] ――(先立って摘示してきた関係性の延長線上にあって問題となることについて)―― 

 直前頁までにあって

[物理学者キップ・ソーンの手になる科学書 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』には先の911の事件の予見文物としての側面が伴っている

とのことについて1.から5.と分けてものことらを典拠たるところとして明示してきた。

 それら今までにあって典拠たるところとして示してきたこと(オンライン上からでも後追い確認容易なる原著原文引用、そして、流通訳書より後追い確認できるとの訳書よりの原文引用に重きを置いて示してきたこと)がいかようなことなのかのまとめての表記を以下、なすこととする。

(以下、こここれに至るまでに1.から5.と振っていかようなことを示してきたかについて振り返りをなすとして)


[思考実験にみとめられる設定として物理学者キップ・ソーンは夫妻で郵便番号91101](二〇「〇一」年「九」月「一一」日の日付略記ともなる数字列)ではじまる地区(カリフォルニア州パサデナにあって[「双子の」パラドックスに依拠したワームホール型タイムマシン生成挙動]を開始した(との設定がソーン著書『ブラックホールと時空の歪み』に現れている)] (表記のことは先に出典(Source)紹介の部28-2と振って指し示していたところおよび出典(Source)紹介の部31]および同31-2と振って指し示したことによって[文献的事実][記録的事実]であることの典拠を示しているところとなる

[ソーン夫妻が[郵便番号91101ではじまる一画]を空間軸上のスタートポイントにしてなしはじめた挙動と結びつく[双子のパラドックス]ではあるが、その提唱年は1「911」年であるとされている。そこにては[「91101」(2001年9月11日を指す数値列)と結びつく始発点1911年提唱の双子のパラドックスが接合性が見てとれる] (表記のことは先に出典(Source)紹介の部32と振って指し示したことによって[記録的事実]であることの典拠を示しているところとなる)

[キップ・ソーンは自著『ブラックホールと時空の歪み』にて[双子のパラドックスに相通ずる「時間の相対性」概念]を説明するための思考実験として ――[91101との郵便番号を振られてのパサデナにはじまるワームホールタイム型タイムマシン生成挙動]のセクションに入る前に―― [パサデナを走行する自動車の上で爆竹が順次爆発させるとの挙動]を引き合いに出している。[パサデナ](郵便番号91101が最も若い番号として割り振られている一画)[双子のパラドックス(1911年提唱)][順次爆発]との観点で[二〇〇一年九月一一日に起こったツインタワー崩落事件](時間差を呈して崩落した双子の塔としてのツインタワー以外に計七棟のビル群がワールド・トレード・センターでは順次、爆発するように瓦解していったとの2001年9月11日の事件)のことが想起される](表記のことは先に出典(Source)紹介の部32-2と振って指し示したことによって[文献的事実][記録的事実]であることの典拠を示しているところとなる)

[パサデナ発の(ソーン自著『ブラックホールと時空の歪み』に認められる)双子のパラドックスを応用したワームホール型タイムマシン生成挙動としての思考実験であるが、その時間軸上の開始ポイントは2000年1月1日午前9時として設定付けされている(1994年原著初出のソーン著作の中にはきとそう明示されている。先の出典(Source)紹介の部28-2を参照のこと)。 そちら時間軸上のスタートポイントを時間の単位として若い順番、時刻→日付→年次との順番 ―― short spanを基準にしての順番―― で配置しなおすとの時刻表記方法としては一般的で「はない」方法で並べると「9」「1」「1」「2000」とのかたちとあいなる出典(Source)紹介の部31)。 それによってかの911の事件の表象数値との差は1桁しかないとのかたちとなる(それだけ述べれば、牽強付会(こじつけがましき論法)と看做されかねないだろうが、ソーン著書の兼ね合いでは[空間軸上にてのスタートポイントたるパサデナの始端郵便番号問題][双子のパラドックスにまつわる意味的問題]が、と同時に、[全く同じところ]で具現化している)](表記のことは先に出典(Source)紹介の部28―2と振って指し示した部の再引用によって[文献的事実]であることの典拠を示しているところとなる)

(※上のことまででも2001年9月11日「前の」1994年刊行の書籍に見るやりようなのであるから、それこそ[タイムマシン]ではないが、[時を遡行するようなやりよう]との観点で問題になる ――※意味合いを問えば、まずもって、[1911年と双子が結びつくこと]が[双子の塔が崩された911の事件]と結びつくように見えるとのことを奇縁で済まされるのか、とのことがある。 加えて、[1911年と双子が結びつくこと]がまさしくも意味をなしてくるとの挙が[2001年9月11日]「そのもの」を指す数値列を[地区の始発点表象数値(郵便番号91101)]とする一区域と[空間軸上の始点]を介して結びついているとのことが奇縁で済まされるのか、とのことがある。 さらに加えて、そこに[時間のずれ]が[順次爆破]との式で関わっており、また、そうもした[時間のずれ]がタイムマシンの材にされていることが奇縁で済まされるのか、との問題がある(911の事件では双子のビルが連続で時間的ずれをきたしながらも爆発倒壊している)。 「さらに」「さらに」加えて、[何々時間・何々日・何々年をショートスパン順に入れ替えて並べれば200「1」年911と200「0」年911との式で[一桁しか違わない数値列]が同じくもの挙にての[時間軸上の始発点]と結びついているとのことが奇縁で済まされるのかとのことが問題にもなる (以上の問題となることらにつき、正気の人間ならば、第一段階の[双子のパラドックスと911が結びつくこと]からして[出来すぎである]との予断をもって見ることかとは思うが、そこを敢えてもの問いをここでは発している)―― )。

[(繰り返すが)ソーン著書『ブラックホールと時空の歪み』にて取り上げられる[双子のパラドックスを応用したワームホール型タイムマシン生成挙動]の時間軸上の開始ポイントは2000年1月1日午前9時であるわけだが、そちらに見る2000年については[2000年紀のはじまり](ニュー・ミレニアムの開始時期)として[2001年]と混同されるとの理解が存するとの年度である。そこより1994年初出著作の中で持ち出されている2000年1月1日午前9時にあって2001年1月1日午前9時との接続性が感じられ、となれば、かの911の日付との数値的連続性をよりもって感じられるとのことがある](表記のことは先に出典(Source)紹介の部33と振って指し示したことによって[文献的事実]であることの典拠を示しているところとなる)

[ソーン著作『ブラックホ-ルと時空の歪み』に遅れて世に出た科学書、 ZERO:The Biography of a Dangerous Idea(邦題)『異端の数ゼロ』(原著2000年刊となり、邦訳版は早川書房より2003年刊)にあっては(上にて表記のところの)[2000年と2001年のニュー・ミレニアム始期としての曖昧さ]にまつわる言及がなされている。そうもした2000年と2001年の曖昧さにまつわる目立っての解説を含む著作『異端の数ゼロ』からして[キップ・ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み』にてのパサデナを始発点とする通過可能なワームホール構築にまつわる思考実験]と同様に[通過可能なワームホール]にまつわる図が巻末付録部に掲載されてもおり、その図はソーン著作『ブラックホールと時空の歪み』にイラストを提供した向きと同一人物(マシュー・ジメットという人物)の手になると思しき[独特なるテイストのもの]となっている。また、同じくもの著作『異端の数ゼロ』にあっては(ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み』が主要テーマと扱っている)[ブラックホール]が[グラウンド・ゼロ]との言葉と結びつけられている。につき、グラウンド・ゼロが元来からして使用局面が限られた相当特殊な言葉であったことに鑑み、ブラックホールのことを主軸にしての科学的説明がなされているソーン著作『ブラックホ-ルと時空の歪み』にあっての問題性、[2000年1月1日午前9時と2001年1月1日午前9時の接続性]との絡みでの911の事件 ――グラウンド・ゼロとの言葉を広くも世に広める契機になったとの事件―― と接合するようにとれるようになっていることの問題性が一層強くも想起されるようなかたちとなっている](表記のことは先に出典(Source)紹介の部33-2と振って指し示したことによって[文献的事実]であることの典拠を示しているところとなる)


 以上の観点よりソーン著作(『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインの残したとんでもない遺産』)をもってして

[後の日の911の事件の発生にまつわる先覚的言及文物]

であると ――どうしてそのような奇異奇怪なものがこの世界に存在・現出しているのか、その[機序]の問題はさておきも置いておき―― 名指しして明言するところだが(ここに至るまでの文章解説部と図を合わせてよくご検討いただきたい)、同じくも[911の先覚的言及文物]の一として挙げられるのが映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』となる。

 同映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』(額面上は荒唐無稽映画にすぎないとの作品)にあっては

[ツインタワーにての片方が倒壊していき、片方の上階に穴が開くとのワンカット描写]

がなされているとの先覚「的」描写にまつわり、

[「ツインタワーが」「次元の融合によって」「恐竜人の首府と同一化する」]

との筋立てが表出しており(出典(Source)紹介の部27YouTubeなど流通の動画を参照されたい)、 そこより、

[(多世界解釈における)他世界との扉たりうるとの話が伴うワームホール]

のことが想起されえ、それがゆえに、「911の先覚的言及と共にある」キップ・ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み』と「911の先覚的描写と共にある」映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』の接続性がワームホール絡みでも観念されるようになっていると申し述べるのである(話柄の奇矯さから『冗談であろう?』と思うかもしれないが、筆者に「この局面で」虚偽としての冗談を言うなぞとのことをする、そのようなことをなす動機は一ミリもなく、現実に事実関係より指し示せるところを淡々と指摘しているにすぎない)。


(ここまでの指し示し事項の中身を図示すれば、下のようなかたちとなる)


 さらに述べれば、A.からF.と振りつつも長々と分割しての話をなしているとの一連の流れ(現行、F.と振っての流れの中にての話をなしている)の中にあって、である。まずもってA.からC.と振っての流れの中で

[「奇怪な先覚性」(キップ・ソーンが80年代後半よりそれを構築しうると述べだしたとの[通過可能なワームホール]の安定化物質たるエキゾチック物質の特性となる負のエネルギーの発見に繋がったとの1948年実施実験のことにまつわる予言「的」言及を含んでの先覚性)とワンセットとなった[加速器]と[爬虫類の異種族の来寇・来訪]の結びつき

について指摘し(カシミール効果測定実験にまつわる先覚的言及と結びつく1930年代の文物が[繋げられた惑星間での爬虫類の種族による人類種族の皆殺し]を描いていたりもすることなどを指摘し)、次いで、D.からE.の流れの中で

[[爬虫類の異種族の次元間侵略]と[911にまつわる先覚的言及との特質]の繋がり合い]
[[双子のパラドックス]と[「亀」を助けた男が「竜」宮に誘(いざな)われるとの浦島伝承]の密接なる記号論的繋がり合い]

に目を投じることだに[行き過ぎではない]と問題提起してきたとのその問題提起の論拠をも多く呈示したことになると判じている。

 すなわち、以下のことにあっての第一の点を強調することだにも[行き過ぎではない]との論拠を呈示したことになると判じている(:補うことになる証示の材はこれより挙げていくつもりなのだが、とにかくも、[行き過ぎではない]とのレベルにての呈示はなしたか、と判じている  ――ちなみに以下、振り返りもする第一および第二の点にあっての第二の点にあってはどうしてそういうことが述べられるのかの論拠を(第一の点に先駆けて)先行する段にて入念に呈示している(そちら委細は出典(Source)紹介の部30から出典(Source)紹介の部30-2(2)の部を包摂する箇所を参照されたい)―― 。

(荒唐無稽映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』に浦島伝承との関連性をみとめることとて行き過ぎにならぬところの理由として)

 第一。

 物理学者キップ・ソーンの[通過可能なワームホール]にまつわる解説のなしようを取り上げる中で内容を問題視したところの書籍が BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』(亀の移動時間にそれを当てはめると浦島伝承にそれが接合するとの[双子のパラドックス]を[ワームホール型タイムマシン]に応用しての論理を展開していること、本稿にてのつい先立っての段で細かくも解説したとの科学書)という書籍となるわけだが、同著はそれ自体からして

[911の発生を明瞭に予見しているが如くもの「露骨な」予言的作品]

となりもしており、その絡みで映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』と不快かつ奇怪に結びついているとの側面が ―認めがたいこととは思うが― 確としてある

 であるとすると、そう、表記のソーン科学書 ――ここ本段ではいまだ解説未了ながらもの911の発生に対する予言的作品としてのソーン科学書―― と映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』の間に不快な関係性が成立しているとすると、

ソーン科学書 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』⇔[双子のパラドックス]⇔[浦島伝承]

との関係性のパス、

ソーン科学書 BLACK HOLES & TIME WARP Einstein's Outrageous Legacy『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』⇔(911の予見作品としての側面)⇔『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』

とのパスが「別個独立に」成立していることになる。

 換言すれば、である。

[浦島伝承]⇔([双子のパラドックス]とワームホールにまつわる思考実験を介しての近接性)⇔『ブラックホールと時空の歪み アインシュタインのとんでもない遺産』⇔(911の事件にまつわる先覚的言及(後述)/ワームホール関連トピック)⇔『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』(「亀」救出ならぬ「亀」軍団退治のゲーム作品を原作とする恐「竜」人の次元接合のための暗躍を描く映画作品)

との関係性のパスが
[別個独立に成立しているところの関係性の合算]
から導出できてしまうことになる(であるから、映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』と浦島伝承の間にてのたかだかもの[「亀」と「竜」(竜宮)との爬虫類がらみのアナロジー(類似性)]にまつわる側面についてすら着目すべきとの話が馬鹿げたものでなくなるとのことがある)。

(荒唐無稽映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』に浦島伝承との関連性をみとめることとて行き過ぎにならぬところの理由として)

第二。

 特殊相対性理論から導き出せる帰結(双子のパラドックス)に関わるところに通ずるとの簡明化して解説した側面を有している以外に、浦島伝承それ自体からして奇怪な側面が付き纏っている。
 伝承などの文化伝播が相互に観念しづらい領域、
[中世期アイルランドにて成立したとされる伝承]

[上代日本(奈良期日本)に成立したとされる浦島伝承]
がピタリとした数値的一致性を呈しながらほぼ同じ内容を有しているとのことがある。
 そのような[奇怪]なること ――(本稿にての先立っての段で炙り出しているように70年代にあって[現行加速器に対往時加速器で200倍近しいものを登場させ、そのCERN加速器を想起させる機関のビーム照射挙動でブラックホール生成がなされるように描いている作品]が存在していることも[異様なる先覚性と結びつき、かつ、情報伝播の枠外に出ている]との意で奇怪なことなのだが、それに類するところと見えもする[奇怪]なるところ)―― にまつわる話であるから、そちら浦島伝承と[予言「的」作品](ツインタワーの崩壊を予見するような描写を含む作品)としての『スーパーマリオ魔界帝国の女神』という現代映画作品との間のアナロジー(類似性)を問題視することは[子供だましの文物より引き出しての子供だましの話]で済まされるようなことではない(とのことがある)。

 以上、指し示し事項の内容を振り返ったうえで申し述べるが、先の段(出典(Source)紹介の部20の段)になした引用を繰り返しなすところとして、米国のメディア露出型カリスマ物理学者の著作にて言及されているところとして次のような科学予測 ――先進文明のありうべきやりようにまつわる科学予測―― が呈示されている。

(直下、 Parallel Worlds; A Journey Through Creation,Higher Dimensions and the Future of the Cosmos邦訳版『パラレルワールド ――11次元の宇宙から超空間へ』384ページから385ページよりの「再度の」原文引用をなすとして)

カー・リングの中心にワームホールがあれば、われわれの宇宙をまったく別の宇宙と、あるいは、同じ宇宙のなかにある別の地点と、結びつけてくれるかもしれない。
・・・(中略)・・・
現在、おおかたの物理学者は、ブラックホールを生きて通り抜けることはできないと考えている。しかし、ブラックホールの物理的解釈はまだ未熟な段階で、この推測は検証されていない。ここでの議論のために、ブラックホールを通り抜けることができ、とくに回転するカー・ブラックホールでそれが可能だと考えてよう。すると、どの先進文明も、ブラックホールの中を探査しようと真剣に考えるだろう。
・・・(中略)・・・
探査機は、事象の地平線の近傍にどれだけ放射が存在するかを正確に決定し、そうした莫大なエネルギーのさなかでワームホールが安定していられるかどうかを明らかにしてくれるだろう

(引用部はここまでとしておく ―※― )

(※以上をもってして日本放送出版協会(現NHK出版)より刊行されている国内流通の訳書よりの引用となしたが、(検索エンジンにての下記長文テキストの入力などを通じ)「オンライン上よりその通りの記載がなされている、すなわち、[文献的事実]であるとのことを確認できるところの」原著 Parallel Worlds; A Journey Through Creation,Higher Dimensions and the Future of the Cosmos原著内該当表記部もここでは引用しておく。(以下、原著 CHAPTER ELEVEN Escaping the Universeの節よりの引用として) The wormhole in the center of the Kerr ring may connect our universe to quite different universes or different points in the same universe.[ . . . ] Currently, most physicists believe that a trip through a black hole would be fatal. However, our understanding of black hole physics is still in its infancy, and this conjecture has never been tested. Assume, for the sake of argument, that a trip through a black hole might be possible, especially a rotating Kerr black hole. Then any advanced civilization would give serious thought to probing the interior of black holes.[ . . . ] The probe would determine precisely how much radiation there is near the event horizon and whether the wormhole could remain stable in spite of all this energy flux.(再度の原著該当セクションよりの引用部はここまでとする))

(さらに続いて直下、邦訳版『パラレルワールド ――11次元の宇宙から超空間へ』403ページよりの「再度の」原文引用をなすとして)

 ワームホールのなかでは潮汐力や放射が猛烈になりそうなので、未来の文明は、向こう側の宇宙で再生するのに必要な燃料やシールドや養分を、最小限にして運ばなければならないだろうそこでナノ・テクノロジーを使えば、それらを詰めた小さな鎖を細胞ほどの大きさの装置に入れて、ワームホールの向こうへ送れる可能性がある
 ワームホールが非常に小さくて原子サイズだとしたら、その向こう側で全人類を再生できるだけの莫大な情報を、原子でできた長いナノチューブに詰めて送ることになるだろう。さらに小さくて、ワームホールが素粒子のサイズだったら、原子核をそこへ送り込み、向こう側で電子をつかまえて原子や分子を再構成するようにするしかない

(引用部はここまでとしておく ―※― )

(※以上をもってして訳書よりの引用となしたが、(検索エンジンにての下記長文テキストの入力などを通じ)「オンライン上よりその通りの記載がなされている、すなわち、[文献的事実]であるとのことを確認できるところの」原著 Parallel Worlds; A Journey Through Creation,Higher Dimensions and the Future of the Cosmos原文内該当表記部を上と同文に引用しておく。(以下、原著 CHAPTER ELEVEN Escaping the Universeの節よりの引用をなすとして) Because the tidal forces and radiation fields would likely be intense, future civilizations would have to carry the absolute minimum of fuel, shielding, and nutrients necessary to re-create our species on the other side of a wormhole. Using nanotechnology, it might be possible to send microscopic chains across the wormhole inside a device no wider than a cell.(再度の原著該当セクションよりの引用部はここまでとする))

 何故、以上のような再度の引用部呈示をなしたかに関わるところとして本稿の先行する段にあって何を述べてきたのかについての「これまたの」振り返り表記をもなしておく。

 現行、F.の段にての話をなしているわけだが、先立つA.からC.と振ってのそれぞれの段の間にても ――[文献的事実]よりのみ導出してのこととして―― 

[[加速器実験を類似させるもの][爬虫類の異種族との遭遇]を双方共に(結びつけるように)登場させているとの文物ら]

が存在していることに言及していた。

 そのうち、 Fessenden's World『フェッセンデンの宇宙』(1937)という同一作品について取り上げたA.およびB.にあっては

ワームホール安定化とつながると指摘されるに至った負のエネルギー(を史上初、捕捉したカシミール効果測定実験)]

の話が科学理論の発展動向から「時期的に不相応なかたちで」、要するに、「予見的な式で」『フェッセンデンの宇宙』という作品に入れ込まれているとの指摘がなせてしまうこと([文献的事実]に基づきそういう指摘がなせて「しまう」こと)につき証示し、その上で同作『フェッセンデンの宇宙』にて描かれる、
[絶滅戦争 ――科学者が薬籠中の宇宙にて二つの惑星を無理矢理につなげたことに起因する爬虫類の種族による人類に似た種族に対する「皆殺し」との帰結を伴った絶滅戦争―― ]
のことを問題視しもした(:「1937年に」初出の『フェッセンデンの宇宙』と「1948年に」実施されたカシミール効果測定実験が双方共々、[際立っての類似性を呈しての行為] ――(「向かい合う二枚の金属プレートをきわめて近接させる」「反重力と相通じる重力の作用が問題になる」とのことでの[際立っての類似性を呈しての行為])―― を具現化させているとのことが[奇怪なこと]としてある中での話として、である)。

 加えて、フィクション『フェッセンデンの宇宙』にての[宇宙を創造する行為]が

[現行現実世界にての加速器実験の「宇宙開闢の状況を再現する」との額面上の言いよう]

を想起させる行為ともなっており、その一方で同じくもの『フェッセンデンの宇宙』の[宇宙開闢のための行為]が

[[加速器実験に生成されると後に考えられるようになったワームホール]、そちらワームホールの安定化に用いられると理論上見られるに至った[負のエネルギー]の存在の見積もりにつながった行為(カシミール効果導出実験)と質的に一致しているものとなっている]

とのこともがあり、関係性はいよいよ「時期的に」「不相応な形で」奇怪なものとなっていると申し述べた(:以上のことにつき本稿の先立っての段では細やかなる解説を加えているので把握していないとの向き、かつ、事理について判断なしたいとの向きはそちら参照願いたい ――そちら出典紹介部としては出典(Source)紹介の部22から出典(Source)紹介の部24の一連の部を参照されたい―― )。

 以上振り返ってのこと(A.およびB.と振っての段の内容を振り返ってのこと ――C.と振っての部にて扱ったこと、『スキズマトリックス』という80年代小説作品が[円形加速器同等物]を[爬虫類の異種族の来訪]と結びつけているとのことは振り返り対象としなかった―― )に加えてD.以降の段にて問題視してきたとのことがある、すなわち、


ワームホール安定化とつながるキップ・ソーンによって80年代より指摘されるに至った[負のエネルギー]、そちら[負のエネルギー]を捕捉したことで知られるカシミール効果測定実験(1948年実施)のことに時期的に不自然なかたちで言及している節すらある作品『フェッセンデンの宇宙』(1937)が[爬虫類の種族による絶滅戦争の完遂 ――神として振る舞う科学者が薬籠中の宇宙で二つの惑星を無理矢理につなげもしたことに起因する爬虫類の種族による人類に似た種族に対する「皆殺し」との帰結を伴った絶滅戦争の完遂―― ]のことを描いているとのことまでもがある」

との一方で、「加えて」、

キップ・ソーン著作『ブラックホールと時空の歪み』(原著1994年初出)および並行世界で独自に進化した恐竜人による侵略挙動を描いての映画作品『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』の両作が[ワームホ―ル関連の繋がり合い]を想起させるものらであるのみならず ――「奇怪極まりないことに」―― [911の事件の発生への先覚的言及作品]として「も」接合していることとなっている(とのことを摘示しもしてきた)」


とのことがあるうえでも

[相互関係の「密」結合性]

がまだ十分に示されていないととらえる向きもあるかもしれない(:[相互関係 ―いくつかのことらがつながりあっているとの関係性― ]と[因果関係 ―あれなければこれなしとの関係性― ]は無論、異なるわけだが、しかし、相互関係があまりにも密結合を呈し、また、かつ、そこに恣意なくして成り立ち得ないとの側面が具現化していれば、それはとどのつまり、「犯罪的やりようの成立にまつわる」因果関係の問題に通底することになる)。

 であるから述べるが、

「ここまでA.からF.と分けもしての段にあっては[ワームホールが構築されうるといった申しようと(理論の登場時期との兼ね合いでは平仄が合わぬも)内容面で不気味かつ異常無比なかたちで平仄が合うとのことらが史的に見て長期にわたって、それにまつわる権威申しよう自体と関係ないところに数多存在していること]についての関係性につき[一例]たるものを取り上げているにすぎない

とのことがある。

 加えて述べれば、

「ここまでA.からF.と分けもして示してきたことからして[大海としての巨視的なる現象の束](個人の主観など問題にならぬところではきとそうしたものが存在していると摘示できるところの現象らの束)に ――純・記号論的なる一致性をもってして述べられるところとして―― [一部]として包摂されているにすぎぬものであり、そして、そうもして包摂・被包摂の関係が生じているところが我々人類を殺す・滅するとの悪質かつ執拗なる意思表示の所在を示すものとなっていることの指し示しをなしていく」

とのことを本稿の趣意たるところとしているとのことがある(そちら言辞に[行き過ぎ]、[属人的な妄念・妄覚の先走り]といった側面が当てはまるか否か是非とも検証なしていただきたい、と申し述べつつも強調したきところとして、である)。

 以上述べたことをもってして、長くもなったが、A.からF.と振っての一連の段 ――うち、F.の段はキップ・ソーン著作にあっての問題となる特質につき1.から5.と分割しての指し示しをなしている―― を終えることとする。

「付記」たる話として

 A.からF.と分けての話に一区切りを付けたとしてここでは続く段に入る前に申し述べておきたいことについて記しておく

 さて、(半ば脇に逸れての)[相互関係の接合性]についての話をなすことから始める。
 下の図をまずもって見ていただきたい。

 図は ――図に付してのキャプション(文字解説部)からも理解なしていただけるであろうが―― [牽強付会;こじつけがましきこと]極まりないとの[情報攪乱者やりよう]にまつわるモデルである(:図に見る[帰納]の意味合いについてご存知ではなく、[導出]程度のところを越えてのその意味合いについて把握したいとの向きは各自、お調べいただきたい)。

 対して、

との関係性が成立していることの摘示 ――きちんとした論拠を明示したうえでの摘示―― はその密結合度合から「一人合点の論理」「手前勝手の論理」で話が済まされるものではない。
 しかも、その関係性の逸脱度合いが通常ありうべき物事の類似性(偶然として成立しているとの類似性)より際立っていればいるほど、そこに[特異な事情](恣意性)が介在しているとの判断をなせることになり、その重みが増してくる。

 本稿これ以降の段ではそういう方向 ――普通一般のことからの逸脱度合いが甚だしい事柄らが、しかし、「確として成立」しており、かつ、それらの事柄らの間に密結合の関係性が見てとれる、それがゆえに(巨視的な意味での)[恣意性]が浮かび上がってくるとのことを示すべくもの方向―― で話を煮詰めていくとのこと、脇に逸れてのこの部にて断っておく(※[恣意性]すなわち[「わざと、」の問題]が何たるかについては下にさらにもっての表記をなしておくこととする)。


※直近、「関係性にあっての逸脱度合いが通常ありうべき域を越えて存在しているほど、恣意性が問題になる」と述べたが、たとえば、

[911の事件にあっての後の爆破テロの爆破「地点」(ワールド・トレード・センターないしツインタワー)と爆破「日時」(911)に関して同時に言及するが如くことをなし、あるいは、(幾分ましだが)何の蓋然性もなく2001年9月11日との日付をそれより前の年次にあって言及するが如くことをなし、それによって前言をなしているととれるとの描写を含むサブ・カルチャー作品「ら」が存在している」

とすれば、どうか。
 そういうサブ・カルチャー作品らについては順次、本稿にて詳述していく所存であるが(殊に本稿後半部はそのための(後追いなしやすきしての)解説にかなりの紙幅を割く所存である)、ここでは「アメリカのサザエさん的看板アニメだ」などと紹介されるテレビ・アニメ・シリーズ、
『ザ・シンプソンズ』
やバーチャル・リアリティ世界を描く極めて有名な映画作品、
『マトリックス』
のことを例として紹介しよう。

 『ザ・シンプソンズ』シリーズの1997年初出の特定エピソード(題名 The City of New York Vs. Homer Simpsonというタイトルのエピソード)にては

[[ニューヨーク]と上の段に掲げられた紙媒体(雑誌か新聞か)の一面広告部が主要登場人物に掲げられ、同広告部の中央に$(ドル)9]との文字列が「極めて目立つように」大きく中央に書かれその右隣にツインタワーが「11」ととれるように配置されているとの描写がなされていた](下に図示もなしておく)

とのことが諸所にて、たとえば、YouTube該当部切り抜き動画などの形態にて現実に問題視されてきたとのことがある(:表向きそういう描写がなされているのはシンプソンファミリーの女児たるリサ・シンプソンが「9ドルのバス会社バス(bus)でニューヨークへ」との勧めをなしていることに起因することとはなっているわけだが、[蓋然性・偶然性での説明のなしがたさとの兼ね合いで当然に疑念視して然るべきような描写]であるために多くの人間が問題視している、そう、そもそも「大文字ドルマークの隣に9の数字を字体大きくも配し、さらにその隣にツインタワーが11と見えるようにして911と見せる」とのやりよう自体が[1997年]のアニメーションとしては特異な先見性を呈してのものと当然に解されるために「その存在「だけ」で着目に値する」と一定数以上の人間に見られ、もってして、動画などで取り上げられることとなっている ――詳しくは[ 911, The City of New York Vs. Homer Simpson ]などと検索して調べれば、労せずして該当描写特定できるであろう―― )。

 次いで、「よく知られた作品である」との映画 The Matrix『マトリックス』(1999)についてであるが、同作品に関して遺漏なくも確認できる(広く市中に流通しているDVDコンテンツにあっての特定シーンの一時停止確認にて遺漏なくも確認できる)とのことを紹介しておく。

 その点、映画『マトリックス』に登場する敵手、機械知性の手下として人間を内部から操ることができるとの【人間に幻影を見せる(そして機械に産み落とされているポット入りの人間らを電池として死ぬまで「消費」し尽くす)システム】の防衛プログラム、エージェント・スミス( Agent Smith )というサングラスをつけた擬人化プログラムが
(以下、引用なすところとして)
As you can see, we've had our eye on you for some time now, Mr. Anderson. It seems that you've been living two lives. In one life, you're Thomas A. Anderson, program writer for a respectable software company. You have a Social Security number, you pay your taxes, and you…help your landlady carry out her garbage. The other life is lived in computers, where you go by the hacker alias "Neo" and are guilty of virtually every computer crime we have a law for. (大要)「君も分かっているように我々は以前から君に目をかけてきた.ミスター・アンダーソン.君は二つの顔をもって生活しているようだ.ひとつはトーマス・アンダーソン、尊敬に値する会社でプログラムを書いており、社会保障番号を持ち、きちんと納税もしている.そして、そうした君は...大家の女性のゴミ出しを手伝う好青年でもある.君のもう一つの生活はコンピューターの中で営まれるもの、ハッカー仲間にネオと呼ばれるところで営まれるもので我々がそのために法規制を及ぼさなければならないとのありとあらゆるコンピューター犯罪で有罪となるようなものだ」 (引用部はここまでとする)
などとまわりくどいことを口にしながら、彼らに目をつけられた主人公を(本質的にはたぶらかすための)脅迫的言辞を弄しながらも尋問しているとのシーン、そちら「映画本編開始後十七分後あたりから映し出される」一連のシーンの中にあって「2秒しか表示されない」(そして細かくも文字のありようを視認可能なのは1秒弱に近いといったかたちともなる)とのところにも「異様なる」予見的言及が具現化している(インターネット上で今まで一部の向きらが指摘してきたところとして、である)。

 その一連の尋問シーンにあってはエージェント・スミス (人間に幻影を見せながらも飼い殺しにしているシステムの代理プログラム) が参考としているように描写される主人公 (【ネオ】というキャラクター) に関連する資料にあって写真付きIDカード (ハリウッド・スター、キアヌ・リーブスを写した写真付きの「パスポートのようにも見える」架空の身分カード) がファイリングされたものとして映し出されており、そのIDカードを画面を一時停止しながら180°回転させて見てみる ―(画面を180°回転しないと適正配置にならぬとの上下反転したものながらも検証してみる)― と、

11 SEP / SEP 01 】 (普通に見れば、【9月11日/(20)01年9月】となろうとの表示(ただし【9月11日/9月1日】あるいは常識的文脈に合うかたちでの【(20)11年9月まで有効、(20)01年9月発行】とも「極めて無理に」解すれば見えもするか、との期間表示としては極めて変わった描写)

などと右下の部に「実際に」書いていることが分かるようになっている(疑わしきにおかれてはDVDコンテンツ ―日本では三バージョン流通しているとのことだが、ここでは映画本編およそ136分を遺漏なくも収録しているとの『マトリックス』(特別版)とのバージョン(2000年よりDVDコンテンツとして日本にて売り出されてレンタルショップで数本単位で据え置かれるなど幅広く流通しているもの)を引き合いに出す― にあっての本編開始後【00時間18分20秒】から【00時間18分21秒】経過時のシーンを「一時停止しながら」確認されたい(の際には画面を180°回転しもすること)。無論、筆者も何度か流通DVDを借りながらも直に確認したことがあるとの描写となる)。

 ここで考える必要があることとして映画『マトリックス』の中では主人公に架空世界の実態を示して見せた反抗勢力の闘士モーフィアス (【ブラックホール】や【事象の地平】といったものが重要な役割を帯びているとのポール・アンダーソンという映画監督の手になる Event Horizon『イヴェント・ホライゾン』との1997年公開映画「でも」ハイテク・シップのキャプテン(船長)との役割を演じているローレンス・フィッシュバーンという俳優が演じての有名なキャラクター) が

「君はこの世界を1999年と思っているかもしれない.が、正確なところは分からないのだが、現在は(機械達に戦争で敗れ、人間が生体電流を目当てにされての電池にされた後の世としての)2199年頃だと考えられている」

と説明するシーンがあり、そのモーフィアスの作中説明は映画『マトリックス』が封切られたのが1999年であるとのことと間尺が合う (:映画『マトリックス』の作中舞台が1999年に設定されているとのことについてはたとえば英語版Wikipedia[ The Matrix ]項目にても(引用なすところとして) When humans blocked the machines' access to solar energy, the machines instead turned to harvesting the humans' bioelectricity as a substitute power source, while keeping them trapped in "the Matrix", a shared simulation of the world as it was in 1999, in which Neo has been living since birth.と記載されているところでもある)

 では、「何故」、1999年に公開され、1999年にありよう設定されての仮想世界を描いているとの映画『マトリックス』で
【9月11日/(20)01年9月】
などと解されるようになっている(作中主人公身分カードに見る)日付表示なのか?

 ここで仮に何の恣意性もないのならば、9月11日との日付が設定されるのは365分の1となると考えられるわけだが(1999年は日数が一日加算されての閏年ではないのでそうもなる)、そこにさらに2001年との年次の一致性のことまで考えると、

【2001年9月11日の現実世界の限界を嘲笑うような事件とも一部にて評されるかの事件の発生年月日】

との「尋常ならざる」確率的一致性が目につくところとなってくる(くどいが、何故、1999年公開の映画にあって2001年9月11日なのか?)。

 それでも偶然の一致として映画『マトリックス』にてそういうことが具現化していると言えるのか。

 筆者はそうは思わない。

 その点もってして ―これもまた容易に確認できるとのところなのだが― 日本にて映画『マトリックス』が公開されたのは1999年9月11日となっているとのことがある(すぐに和文ウィキペディアなぞを通じて確認可能なることである; In Japan , the movie THE MATRIX was released on September 11, 1999.)。
 それが映画にての9月11日のID表記に影響を与えているようにも「相応の」向きら (人間など「結末込みに」家畜程度にしか思っていない飼い主のためにこれ無知かつ無恥にも馬鹿な幻影ばかりを見せることに躍起になっているとの類かもしれない) は強調するかもしれないも(あるいは甚だしくは確認すらせずに[良識を偽装しての種族に対する裏切り行為]として「都市伝説だ」などとキャンキャンとマジックワード(アーバン・レジェンド)を用いつつ吠えるかもしれないも)、 「だが、」後付けで決せられている節がある日本の公開日付(1999年9月11日)それ自体からして厭なにおいを醸し出していると感じられるようなところとして、米国で映画『マトリックス』が公開され出した日付は、そも、1999年3月31日のこととなる (たとえばもってして英語版Wikipedia[ The Matrix ]項目にて Release date(s) March 31, 1999と記載されているとおりである)
 といったこと、(2001年の)9月11日を想起させる日付描写がほんの一瞬出てくる作中小道具にて描かれている蓋然性がないとのことが「ある」、そして、なによりも本稿の後の部で細かくも解説することになるように【より露骨なるその手の予見的言及】がその他の諸種様々な作品らにてなされているとのことが「ある」、であるから、筆者はたかだかもってして映画『マトリックス』の1秒弱程度のシーン再言するが、DVDの本編開始後【00時間18分20秒】から【00時間18分21秒】経過時にてのシーンを字面まで綺麗に映るまで停止してキャプチャリングし、その実態を確認されてみるといいからして偶然ならざるものだと考えている

 さてもってして、仮に予言「染みた」(ここでは「染みた」と取りあえず表記する)作品がそちら一作品だけであるのならば、
「確かにそれは特異な現象なれど・・・・」
とされつつも大多数の世人には「問題とはならぬこと」で済まされることにもなろう(果たしてその通りか否かは置き、である)。

 が、そういうものが「数多」存在し、「なおかつ」、それらに予告「染みた」側面それ自体「以外」の要素での
共通のコンテキスト
となるところが存在していればどうか。

 といったことがあるとのことは[密結合]が問題になるところであり、そして、その際立っての特異性より当然に[「恣意」の介在][執拗さが向かう先の問題]を想定して然るべきところそしてその検証をなして然るべきところになる、そう述べて差し障りなかろう。

(尚、直近、言及なしたところの The City of New York vs. Homer Simpsonとの作中内特定エピソードにて予見描写をなしている『ザ・シンプソンズ』や映画『マトリックス』についてはそうもしたかたちで問題となるコンテキストに「直接的には」関わっていないように「見える」ところの作品ではある(その意で問題となる予見的作品については本稿の後の段で厭となる程に呈示する所存である一方でのこととして、である)。
 だが、『ザ・シンプソンズ』にあっての表記の予見エピソードのタイトル、
[ニューヨーク市対ホーマー・シンプソン]
に見るシンプソン・シリーズの主要登場人物ホーマーの由来について考えるとそうもいかない ―『ザ・シンプソンズ』に見る予見的言及が如き類は本稿にて問題視している共通のコンテキストの埒外に位置しているかとのことについて必ずしもそうとは言えない― とのところがあるにはある。
 ホーマー。
 英語表記ではHomer。その名の由来はギリシャ詩人ホメロスの英語表記Homerにある(同じくものことは現行、英文Wikipedia[ Homer Simpson ]項目にあって Homer was named after Groening's father Homer Groening who himself had been named after ancient Greek poet Homer.「(シンプソン・シリーズの主要登場人物である)ホーマーは原作者グレイニングの父、ホーマー・グレイニング、彼自身は古のギリシャ詩人ホーマー(ホメロス)より命名されていたとのその人物の名から命名されている」と記載されているところでもある)。
 ギリシャ詩人ホーマーことホメロスは西洋文明の基準古典として知られる『オデュッセイア』『イリアス』の両古典、本稿の後にての段で微に入っての後述をなすところとなるが、それら[古のトロイアの崩壊につながった戦争について扱った作品ら]である両古典を今日に遺した[盲目の詩聖]として知られていもする存在である(和文ウィキペディア[ホメロス]項目にて現行より引用なせば、(以下、引用なすとして)ホメーロス(羅:Homerus、英: Homer)は、紀元前8世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされる人物を指す。ホメロスとも。西洋文学最初期の2つの作品、『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者と考えられている。「ホメーロス」という語は「人質」、もしくは「付き従うことを義務付けられた者」を意味する・・・(中略)・・・伝承はホメーロスが盲目であったとしている(引用部はここまでとする)と記載されているとおりである)
 となれば、予見的描写を含む、
The City of New York vs. Homer Simpson
とのエピソード ―(同エピソードはホメロス・シンプソンことホーマー・シンプソンがワールド・トレード・センターに駐輪されている自家用車を取り戻そうと悪戦苦闘するとのものでもある)― は
ニューヨーク市対[トロイア崩壊の叙事詩をものしたことで知られる盲目の詩人ホメロスの名を冠する男]]
と「記号論的には」言い換えることもできる。
 以上、述べたところで書くが、本稿では
「[911の予見事物]らの多くに[トロイア崩壊の寓意]が執拗に入れ込まれている
とのことを[事実の問題]としてひたすらに典拠を挙げ連ねながら摘示していくことになる。その言に偽りなきことか、冷やかしてやるか、程度の心中・心境でもいいので何卒、検討してもらいたいところとして、である。
 であるから、ここにて一例摘示している The City of New York vs. Homer Simpson『ニューヨーク市・バーサス・ホメロス・シンプソン』からして[共通のコンテキスト]と「間接的には」関わりうると述べるのである)

 問題となるような記号論的一致性が凝集しているところに共通のコンテキストがみとめられるとのことがあるのならば、

その関係性の逸脱度合いが通常ありうべき物事の類似性(偶然として成立しているとの類似性)より際立っての差分を呈していればいるほど、そして、多重的な密結合のありようを呈していればいるほど、そこに[自然状況でのありえなさとワンセットになった[恣意性]介在]の判断をなせることになり、その重みが増してくる

と考えるが[理の当然]たろう ――であるのにも関わらず、そういうことが見てとれる[現実]をもってして「偶然である」などとの言葉で済ませようとする人間は、はきと述べれば、正常な人間では「ない」(狂っている、ないしは、許容範囲があらかじめ決められている機械に求められる程度の正確性しか有していない)。 対して、状況につきよく分かっていて、なおかつ、黙っている人間もただの臆病者であり(恣意性を思うままに発露させている存在が恐ろしくてならずなにも出来ぬとのそういった臆病者であり)、知っていてなお、といったことを[下らぬ出鱈目]と一味同仁と看做さしめるような駄法螺を吐いているような手合いは(遠慮会釈無くも口汚く、だが、相応しき言葉用いて述べ)[人間の屑]と述べても構わぬところであろう。 多くの人間が正気ではないのならば、あるいは、臆病者や(怯懦な者にまして唾棄すべき)卑怯者であるのならば、(高等学校の教科書の漢文なぞに見るとのエピソードにて中国では屈原という男が「世の中で自分だけが醒めている」ことを嘆いて泪羅(べきら)の川に身を沈めたなぞと伝わるが)、自殺するように時の大河の流れの中にて果てねばならぬのは我々人類全員ということになりかないのだから[悲劇](あるいは嗜虐的な敵手にとっては酷薄な笑いの対象か)であろうとの話をこれよりなしていくと申し述べつつも、書けば、重みの問題は[理の当然]だろう―― 

 上は The City of New York vs. Homer Simpsonの前言部を大雑把に再現した図となる(特徴を大まかに示すためのものであるので細部は現物と違う)。
 同図にあって何が前言たりうるかは無論、言うまでもなかろう ――あとは「実際にその通りのアニメーションが具現化しているのか、問題とされる一連の場面らを切り抜いての映像として公開されている複数YouTube動画や諸所静止画紹介サイトを参照されたい」と申し述べるまでである(911,simpsonsといったキーワードで検索すれば現行特定できるようになっている描写だ)―― 。
 以上のような予見「的」事物がこの世界には
「数多」
見受けられることであり(それをして意外ととらえるのならば貴殿はメディアなどメインストリートの目立つところで[トリヴィア(些事些末なることら)を取り上げるうえで、そして、重要なことらを悉く無視するうえでの最もらしい芝居をしている役者ら]に騙されていたとのことになる)、 かてて加えて(より悪きことに)、それら予見事物の間に
[嗜虐的な意味での共通のコンテキスト]
が見受けられるとのことである(:そこにいう共通のコンテキストなるものが本当に実在するのか、とにかくも、続く内容を確認いただきたい次第だが、そうしたやりように人間存在が抗うのか、あるいは、(皆殺しにするとのメッセージングが露骨に含まれている中で)殺されるまで見て見ぬ振りをする・させられ続けるのか、[自身の運命を包含する人間という種族の運命]について見極めたくも全余力を割いての訴求をなすことにしたとの筋合いの者が手前である)。

 さて、上のこと、申し述べたうえで、である。以降の段では粒子加速器にまつわる異様なる先覚性問題(本稿冒頭部よりその指し示しに努めてきたとの問題)に直結する[本稿にての最重要訴求事項]にまつわる指摘をなすこととする。

 すなわち


人類に破滅をもたらしうる特異点を生成すると考えられるに至った粒子加速器実験(本稿冒頭部より,にまつわっての異様なる先覚的言及文物が複数存在していることの論拠呈示を原文引用を密になしながらなしてきたとのものである粒子加速器実験)

911の事前言及事物「ら」](さらに問題となる作品「ら」を都度、挙げていくとの類の事前言及事物「ら」)
を濃密に、多重的に結びつけている要素、いわば、
梁(はり)となる要素
が存在している


 とのことをこれ以降、問題視していくこととする。

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直下、本稿冒頭部へのリンクを設けておく

(⇒冒頭頁へは下の部より)

[典拠紹介部第1頁 加速器実験に伴う欺瞞性から証示なせることについて]

 上にて挙げているのはドイツ浪漫主義芸術の巨匠たる18世紀画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Freemasonでもあったとの画家 Caspar David Friedrich)の手になる一品、

Der Wanderer uber dem Nebelmeer雲海の上の旅人』(に多少の[動き]をアレンジとして加えたもの)

となる。

 言われようの問題として一般に、

[人間の崇高なる精神が高みを目指し、ついぞ多くの物事を達観するに至った時、その折の孤独と感慨を描いた画]

などと形容される上掲の『雲海の上の旅人』に関して(本稿でもその言行を順次・段階的に取り上げることになるとの)物理学者リサ・ランドールは[次のような申しよう]をなしている。


(直下、物理学者リサ・ランドールの手になる著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)にての CHAPTER THREE LIVING IN A MATERIAL WORLD[第三章 物質世界に生きる]の章の記述内容 ――オンライン上検索エンジンにあっての原文検索にて該当部特定できるところの記述内容―― よりの原文引用をなすとして)

Our universe is in many respects sublime. It prompts wonder but can be daunting ―even frightening― in its complexity.  Nonetheless, the components fit together in marvelous ways. Art,science, and religion all aim to channel people’s curiosity and enlighten us by pushing the frontiers of our understanding. They promise, in their different ways, to help transcend the narrow confines of individual experience and allow us to enter into―and comprehend―the realm of the sublime. (See Figure 11.)
          [ . . . ]
[ FIGURE 11 ] Caspar David Friedrich’s Wanderer Above the Sea of Fog (1818), an iconic painting of the sublime ― a recurring theme in art and music.

(上の原著引用部に対する[訳文]として国内流通訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版にあっての81ページに記載されているところを引くとして)

多くの点で、私たちの宇宙は崇高だ。その複雑さは好奇心を駆り立てはするが、無力感も抱かせるし、ことによっては恐怖さえも感じさせる。にもかかわらず、宇宙の構成要素は素晴らしくぴたりと絡みあっている。芸術、科学、宗教は、いずれも人々の好奇心を促して、理解の限界を広げさせ、それによって私たちを啓蒙することを目指している。いずれもそれぞれのやり方で、個人の経験の狭い領域を越えさせることを約束している。それがかなえられたとき、私たちは崇高なものの領域に踏み込む――そして理解する――ことができるのだ(図11を参照)。 …(中略)… [図11]ドイツの画家カスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ。崇高さは、美術と音楽に繰り返し登場するテーマである

(以上をもって Knocking on Heaven’s Doorにての原著表記および訳書よりの引用とした)


 さて、何故、ここ脇に逸れての部にあって「目立つように」特定絵画 ― 『雲海の上の旅人』― を挙げ、その絵画に対する物理学者の評しよう ―「雲海の上の旅人」は、崇高なものを象徴的に描いた作品だ....― などを引いたりもしたのか

「それは、」
絵画『雲海の上の旅人』に対して直上引用なしたような評しようをなしているとの物理学者リサ・ランドールが

加速器によるブラックホール生成可能性にまつわるトピックの理論深化に一廉ならぬ貢献をなしているとの著名物理学者

[[崇高なるもの]を目指しての宇宙の探求(およびそのための装置と銘打たれている巨大加速器LHC)の称揚・礼讃をなしているとの向き

であるとのことがあり、また、なおかつ、彼女リサ・ランドールの手による、(絵画『雲海の上の旅人』を科学者が目指しての[崇高さ]とを結びつけている)引用元著作 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)が

人間のありよう(崇高さとはおよそ程遠いところにあるありよう)]
人間の辿る運命

を嘲笑うような[嗜虐的寓意]で満ち満ちていると申し述べられるようになっている著作であるとのことがある、遺憾ながら
[理の当然]
として申し述べられるところとしてある ――個人のせせこましい偏頗(へんぱ)な主観などとは一線を画したところで客観的かつ具体的にこれはこうでこうだと申し述べられるようになっている(出典呈示を第一義にしての本稿では無論、その論拠を事細かに挙げる)とのところとしてある―― からであり、そのことに注意を向けたかったからである(※)。

(※上にて引用元とした著作、 Knocking on Heaven’s Door『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)、同著にあってはその冒頭部より
September 10, 2008, marked the historic first trial run of the Large Hadron Collider (LHC). Although the name―Large Hadron Collider― is literal but uninspired, the same is not true for the science we expect it to achieve, which should prove spectacular. (表記英文引用部に対する訳として)「2008年9月10日、ラージ・ハドロン・コライダー(LHC)が歴史的始動を見た.[ラージ・ハドロン・コライダー]との名称は有り体に言ってインスピレーションを何ら与えぬとの平凡なものだが、私たちがそれ(LHC)に[証明すべきととらえている壮大なる挙]を託しているとの意では[科学(の進歩)]にとり同じくものことは真実とはならない(LHCは際立ってのインスピレーションを与えるものである)」
などとのことが書き記されている。
 そうもした書きようが目立ってもの冒頭部にてみとめられる著作ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアにおける表題、 [天国のドアをノックする]の由来についてリサ・ランドール女史は同じくもの著作の中で次のようなことを述べてもしている。
(以下、 Knocking on Heaven’s Doorにての CHAPTER FOUR LOOKING FOR ANSWERSより引用なすところとして)
I first heard the phrase “knockin”on heaven’s door”when listening to the Bob Dylan song at his 1987 concert with the Grateful Dead in Oakland, California. Needless to say, the title of my book is intended differently than the song’s lyrics, which I still hear Dylan and Jerry Garcia singing in my head. The phrase differs from its biblical origin as well, though my title does toy with this interpretation. In Matthew, the Bible says, “Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; knock, and it shall be opened unto you: For every one that asketh receiveth; and he that seeketh findeth; and to him that knocketh it shall be opened. (以上原著表記に対して訳書『宇宙の扉をノックする』(NHK出版)ハードカヴァー版[第四章]103ページにての表記を引くとして) Knocking on Heaven’s Door(天の扉を叩く)]――これが本書の原題だが、私が最初にこのフレーズを聞いたのは、一九八七年、カリフォルニア州オークランドでのグレイトフル・デッドとのコンサートで、ボブ・ディランが『天国への扉』を歌うのを聞いたときだった。いまでも私の頭の中ではディランとジェリー・ガルシアがこれを歌っているのが聞こえてくるけれど、いうまでもなく、私の本のタイトルは、この曲の歌詞とは意味が違っている。このフレーズは出典である聖書の一節とも違っているが、私のタイトルはこちらの意図を拝借したものだ。聖書の「マタイ伝」には、このように書かれている。「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり
(以上、引用部とした)
 といったところ、新約聖書のマタイ伝にあっての
[求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば聞かれん。すべて求むる者は得、たづねる者は見いだし、門を叩く者には開かれるるなり]
とのフレーズ、それが
[天国の門]・[天国への扉]・[天国への階梯](ステアウェイ・トゥ・ヘブン)
との兼ね合いでいかように嗜虐的なる別側面での意味( Double Meaning )と共にあるのか、そのことからして具体的典拠を挙げ連ねるとの式で遺漏無くも事細かに示そうというのが本稿の本義であるとここ脇に逸れての部にあって訴求しておきたいとの意図が筆者にはある)