考えられる操作の手法について

 
 

例外と原則を使い分けるシステムを介した操作

 ここでは
[例外と原則を使い分けるシステムを介し世界が動かされていること]について詳述する。
[マスメディア及び司法システムの根本的欠陥と操作の関係性]に重点を置きながら、である。

 そう述べたうえで最初に下の図をご覧いただきたい。

 上は[現時、世界各国でテレビジョン視聴セットが人口1000人あたりに何台、存在しているかを示した分布図]だ。色がより濃い赤である程、テレビジョン視聴セットの数が多い地域であるとした上で述べるが、
世界の大半の地域でテレビをほぼ万人が視聴出来るようになっている先進国に至っては一人一台以上の割合でテレビジョン視聴セットが存在している)。

だから何なんだよ。上の鎌を持ったガイコツが描かれている妙な絵を含めて何が言いたいんだよ

 そういった読者の方の内心の問いに対する答えはこうである。
テレビジョン視聴セットの増加は冥途への一里塚である、と言える(:年が改まる毎に冥途への一里塚が立つなどと言うが、その式でテレビジョン視聴セットの増加が破滅的状況へ至る道での現在位置を示している)。何故か。テレビが真実の糊塗・隠蔽に用いられ、我々の多くを救いうる[真実]を死刑台に導いている。そういった現状があるからである。そのことを効果的に訴求するために[救世主が死刑台に連行されていくのを死神が見送っている状況を描いた図]をテレビジョン視聴セット分布図と併せてここに挙げたのである言っておくが、私はキリスト教をはじめ宗教などという下らないものを信じてはいない。信じたことすらない。だが、ここでは、いもしなかっただろう目算が強い容疑者イエス・キリスト、万人のために死刑台に連れていかれたとの設定の男を[葬むられる真実]に仮託した ―イエスに付した容疑者的"目隠し"については本記事上、再度、登場させるが、それはここでのイエスの話とは関係ない― )。

 上を読んだうえでしっくりこない、あるいは「馬鹿げている」といった心証を抱かれた方も多いかもしれない。ために続けて次のようなことも言おう。

「2001年9月11日に執り行われたフリーメーソンによる[儀式]と述べられもしよう挙動、背面思想につき本サイト上の他所詳述のその挙動には"はきと"観察される危険な兆候が伴っている。
[現行の世界を破滅か根本改変する計画]
がフリーメーソン(のような人形らの)操作者によって進行していることを容赦なく指し示す危険な兆候が伴っている。

 にも関わらず、そういった兆候を指し示す情報はテレビの中では決して見出すことができない(だから、大多数の人間は、のような話を知らないとも。裏事情につき"客観的に"指摘した極めて鋭い切り口の英語動画がネット上に極一部、存在している一方で)。
 とした上で言うが、いわば、テレビとは楽器。マス・メディアとは音楽を奏でる演奏者に例えられる存在だ。沈みゆくタイタニック号の船上でしばしの間、状況を忘れさせる妙なる音楽を我々に聞かせるが如きの、であるただし、現実のタイタニック号轟沈局面での甲板上での最後の演奏を聞く者はほとんどいなかったともされる。反面、テレビとマス・メディアが上手いところは万人に演奏を聞くことを促し、ある程度、奏功している、ということである)。
 より具体的には911のあの事件タイタニック沈没
[それを引き起こすことが「事前に」「露骨に」前言されていた(との判断材料が公衆の面前に晒されだしている)出来すぎた事件]
だったのに、マス・メディアは背景を調べ、考えれば、分かるそのことにつき決して公けにしようとしない (残念なことだが、本Webサイト上の他所にて詳述に詳述を重ねているようにタイタニック沈没も911のあの事件もフリーメーソン製の儀式だと述べられるようになっている。ある一定の位階以上のメーソン員は(背景思想について誤解しつつも)知っているらしきものとしてのだ。それにつき、英語圏ネット上情報群の中ですら"完全"実証がなされていなかったがため ―半面で実証している実に鋭い資料は動画に限れば、存在している― 、私は本Webサイトで懇切丁寧に実証・解説をなしておいた:参照先は本Webサイト上の[問題意識の所在]と題したカテゴリ全体、及び、[プログラムに準拠して起こされる大事件]という他記事である) 。
 いや、語弊があった。
 "決して公にしない"ではなく、例外があった。最奥の闇に関わる問題を部分的に報じる、トンデモや陰謀論(あるいは都市伝説)といった下らないものに歪曲化させて見世物的、フリークショーとして報じることで現実を直視出来ぬように仕向けているという側面もマス・メディアという名のゴロツキ的存在にはあった:ゴロツキもマスメディアも[下らないやらせの人形]だということで同一視して然るべき存在だと私は見ている ―戦前は新聞記者がまさにそう見らていたとの話は多数の人間から聞いた。が、今も変わらない― 。マス・メディアの中の高踏な部類に知人がいる人間としてはあまり悪し様に言いたくはないのだが。 

 多少、長くなってしまったが、私が図像を抜粋して訴求したきことはよくお分かりになられたか、と思う。
 では、何故、上にて述べたような[真実の隠蔽]がなされているのか(「そも、"真実"かどうか疑わしい」という向きは私が参照先として指定した本Webサイト上の他記述部をご覧いただきたい)。そして、それが奏功しえているのか。
 それについては、
「主流・反主流を問わず、マス・メディアの中にロッジという名の交流会館でお人形ごっこをやらされているフリーメーソンのトモダチが多数、紛れ込んでいる」
という根本的な理由は論じるまでもないこととして、だ(あるいは日本の最低品質基準のマスコミに限局化させて言って、「価値をつくるなどとほざかれ"させられつつ"、本当の意味での価値あるものを造ることなど出来はしないフリーメーソンの提携カルトの成員が多数、紛れ込んでいる」でもいい)。
 [原則と例外を分かつ絶妙なるメカニズム]が介在している、ということがある。そう、本記事タイトルにしてもいるメカニズムが働いている、ということがある。次に挙げるAからCの話を介してそのことについてよく考えてほしい。

A.現時、世界の中枢、アメリカでは次に挙げるようなことが起こっている。

例年、大量の人間が消えている。いわゆる失踪者の問題であるが、その総計は純粋に当局発表の統計上の話として一年で数十万人という規模に達している。例えば、二〇〇七年の統計では八一万人もの人間が失踪者の扱いを受けている(:うち、未成年者は六十四万人で家出のケースが大半を占めているともとれるが、さにあらず、という可能性も色濃くあることは本Webサイト上の[米国では多くの人間が人知れず消えている]という記事にて詳述している。[魂にまつわる闘い]とといった抽象概念を持ち出さざるをえない我々の世界が置かれている状況と共に

 その点、米国では失踪者のうち、少なからぬ人間が殺されているとも合理的に考えられるが(米国では殺人事件化する死体があがる殺人事件でさえ例年で一万五千件以上発生することを顧慮すれば、自然にそう考えられてしまう:刑事訴訟法に詳しい方は分かろうが、死体あるいは事件と結びく大量の血痕でも出てこないと殺人事件にはならない)、[失踪事件大量発生の事実]そのものをマス・メディアは決して報じない。日々のインパクトある事件を部分的に報じ、犯罪と当局との戦いに部分的にスポットライトを浴びせることはあっても,である。

B.上のAで述べたようなこと、
[報じられないことで重大事が大衆に明らかにならないこと]
は米国のみならず日本にも実によくあてはまる。上の事例そのままに、メディアが決して報じぬ失踪の話も日本に当てはまるのだが(警察は現時点で正確な統計を発表していない。日本の失踪者数は米国などに比べて圧倒的僅少であるようであるも)、 その他に報じられぬ次の如き重要ケースがあったりする。

一説には足入れした人間が千万人を超過するとも言われる大規模宗教団体、創価学会。その創価学会の成員達が組織的に電気通信事業者従業員(一言で言えば、電話会社の従業員)としてジャーナリストその他の通話記録を窃取していたことが2002年、露見した。
 その後、創価学会は同件に関する裁判で幹部を含めた弁護団を結成したのにも関わらず、敗訴し、その事件は確定した"事実"となった。
 であるのにも関わらず、その事実は一切、テレビ画面上で触れられることはなかった。要するに、全く報じなかった。
 だけではない。憲法が保障する通信の秘密を容赦なく踏みにじった、言わば、民主主義国家が拠って立つ根幹を脅かす重大事件であったにも関わらず、社会の公器・社会の木鐸をもって任じる新聞でさえ、そのことを小さな一記事でスポット的に取り扱ったにすぎなかった(裏面の社会欄の端に書いているようなアレだ)

 無論、上は
[一万ある悪事の中の一にも満たない悪事]
である。創価学会の共産党 ―対立を現出しようとトモダチ関係に陥った者達が押さえている組織ととれる― の委員長の自宅盗聴事件と同様に、である (ここで『馬鹿な』と思われるような幸せな方がおられるなら、そう、トモダチ関係の本質が何なのか"まだ"お気づきになられていない幸せな方がおられるなら、日本電信電話株式会社ことNTTとそのNTTの子会社で売上高一兆円超える大企業、NTTデータ社の社章を並べて見てみるとよい、としておく。哀しきおトモダチ達に押しつけられる象徴的シンボル、フリーメーソンの[ピラミッドと目]が浮かび上がるように調整されていることをお分かりいただけるだろう:右は陰謀論でも何でもない。その点、アメリカではつい数年前、「電話会社のAT&Tが国内国家としての盗聴機関に通信トラフィックの監視権限を与えていたことが露見し、日本とは違い大問題になった」が、AT&Tは世界の電話事業を象徴する会社にして、おそらく、重役陣をメーソンで固めた会社だったことも押さえておくべきである ―アメリカ有力企業の役員の過半がメーソンだというのはメーソン自身が認めることであり、それは[おともだち関係閥の外側から生態を観察しての経験則]に基づき事実ととれる― )。
 しかし、[一万ある悪事の中の一にも満たない悪事]であろうとなかろうと、マス・メディアが触れぬことで隠すことを日本でもやっていることに何ら変わりはない。

C.上のABに見るようなやり口、触れぬことで隠すことは
「原則・例外を設ける手法である」
とも言える。
 そう、["原則"として悪事や問題は報じるが、機構問題に関わることは報じないか、歪曲・超矮小化して報じるという"例外"を設ける手法]と言える。そこでは(米国の)大量失踪の態様も組織的通信記録窃取も(あるいは911の真相も、でいいが)例外となる。メディア・スクラムを組んで市井の騒音発生源になっていた ―というより"させられていた"か― 人物の一挙手一投足を大々的に報じることや鬼子母神よろしく他人の子供を殺傷したとされる"個人"レベルの女犯罪者の挙動に最大限、スポットライトを浴びせることが原則となることに対して、だ(メディアは[かすり傷]を報じても[癌の兆候]や[宿痾](しゅくあ.長期に渡って患者を悩ます治癒し難き病にかこつけられよう構造的欠陥)は報じないとも)。

 どうだろう。上のAからCを読まれることで原則例外を設けて、社会を操作する仕組みが何なのか、ご想像いただけたのではないだろうか。

 何?「何が原則・例外だよ。あんたの話を聞いていると99%が例外で、原則は1%しかないような言いようじゃねぇか。それが原則と例外と言えるのかよ」だと?

 確かに上は至極、最もな言い分である。だが、私がここで述べている原則と例外は[建前と本音の問題]と接合し、それがために、原則と例外の"比率"が逆転していても問題とならないような類のものだ
 一体全体、それはどういうことか。については次の話をまずもって押さえておいていただきたい。

かつて、今より人種差別がひどかった70ー80年代のアメリカに関しては[公民権運動を経てなお、南アフリカが建前でやっていることを本音でやっている国]との評価があった。黒人と白人を完全に区別するアパルトヘイトを90年代まで建前でやっていた南アメリカに対し、アメリカはそれを本音でやっていると言われていたのだ。
 そして、実際には70ー80年代から現在に至っても人種差別にこだわらされている役者や騙され人がたくさんおり、それは一面で時事の話ともなる。そこに見るが如きの["通念"としての建て前と本音の問題]が表に現れない内面の問題として、そう、内的な圧力として原則・例外の比率を逆転させる力となる
 その点、アメリカでは19世紀中葉に憲法修正第13条を制定され、一旦、[原則]の世界で差別の問題は撤廃されていた(国家の有り様を決める憲法という原則論の世界でだ)。いや正確には、その[原則]に[分離すれども平等]という法理念上の解釈が加えられ、ジム・クロウ法のような差別立法が制定されていたこともあったのだが、1960年代に人種・宗教に基づく差別を禁止する法律、公民権法が施行され、名実ともにアメリカでは[原則]として差別は撤廃された(:日本での[人権擁護法案]を想起される方もおられるだろうが、私から言えば、日本の人権擁護法案はやらせの阿呆と屑が推進している[差別で統治する ―というより、不完全に夢を見ている人間を"最後に"惑わす― ための法律]だ。アメリカの公民権法と右を履き違わないでもらいたい)。
 であるのに、その原則に表に出ない力、すぐ前に触れた建て前と本音の問題が介在した結果、[原則は差別せず、であるが、本音では差別し、表向きだけ原則と例外が額面通りになっている事態]が現出することとなってしまった。
 米国マス・メディアの世界では憲法やそれに準拠した法と同様、[原則]として差別はないことになっている。しかし、合衆国では差別と逆差別が満ち満ちており、原則に対する例外を嫌というほどに感じられる状況になっているのだ。この表向きの人間の世界では内的な思潮(通念化した建て前と本音)が外的な原則と例外のメカニズムに作用、それが逆転しても不自然と見させないような作用があるのである

「何を大人の常識人らしい話を随筆家めかして、うだうだ言ってやがる。実に下らないな」だと?ふむ。そのような批判は上の如きことを述べただけでは甘受せねばならないだろう。だが、私は「総体的に魂が抜け落ちたようなこの悲しい世界にあって、まだ何も分かっていない騙され人のために書いているのだ」としつつ、続けよう。

原則と例外を逆転させ、かつ、それを当然視させてしまうような本音と建前の問題は[組織などと呼ばれる人形の集まり]とそこに絡みとられている[囚われの魂]達が煽り、形作ら"される"ものである(糞みたいな価値をつくった気にさせられるでもいいが)。
 [あべこべの世界で原則と例外が逆転しようと何ら気にしないという考え方]が定着するよう、ここで問題としているマス・メディアの人間の間にも、そのマス・メディアの押し売りする原則を受容する側にも定着するように、である

 いいだろうか。綺麗事の原則の些細な領域の背後にどんな汚い例外の膨大な領域が広がっていようとだ。建前と本音の共通"基盤"が性質の悪い連中に"造られ"(これ自体が造られているということがポイントである。とした上で言っておくが、右に挙げた"基盤"、英語で言うと[マトリックス]となる)、 機能している限り、問題にならないのだ。そして、そのメカニズムの存在悪は、原則と例外を逆転させるメカニズムの存在悪は
あん?この世界じゃ何でもあるよ。人間の内面が押さえられちまっているとかいう厄介な話をしなくてもな。マスコミが報じねぇ、不条理な富の収奪、宗教絡みの乗っ取り、差別・逆差別どんとこいな世界だぜ。911がテロじゃねぇだって?たくさん、人がいなくなっているだって?それがあったっておかしくはねぇよ。マスコミの奴らが金科玉条にしている綺麗事モードの原則なんてそんなもんだよ
との諦観が万人に行き渡っている限りは問題にならないのだ(極めて話を限局化させれば、だ。貧富の格差も差別・逆差別も"やらせ"だと万人が訴求できるようになったとき、全てが変わりうると私は期待しているわけだが)。
 建て前と本音の問題には人間の醜い心の動き"自体"から何かを得ようという意図も介在している可能性があるのが、そういった話は軽々に出来ない、としつつ、先に進もう(そういった話については多く虚偽情報で満ちているも、デービッド・アイクという名の人物の書を読むことを勧める)。

 以上が、マスメディアを介したこの世界の操作メカニズムだが、同様の操作メカニズムの話、原則と例外を設けての操作メカニズムの話(直近、言及したような[建前と本音の問題]から原則が2割で例外が8割でも成り立つようなメカニズムの話)は我々の生きる世界の正義を守る[司法]の分野にも濃厚にあてはまる ―ちなみに日本には[二割司法]という忌々しい言葉がある― 。については、最初に下の図を見ていただきたい。

 [左上]Lady of Justiceこと[正義の女神]の像で16世紀(1543年)、製作されたものだ。そして、現時点で最古の目隠しをした[正義の女神]像としてスイスのベルンに存在しているものである。
 [右上]は[正義の女神]の原型となったとされるローマの司法神、[テーミス]の像だ(数多くの法曹を輩出してきた日本の中央大学。同大学に据え置かれているという像が著作権フリーのものとして英文Wikipediaに掲載されていたため、それを使用)。
 [左下]は[アメリカ合衆国初期国璽(国璽こと"こくじ"は国章と言い換えてもらってもよい)のデザイン原案]である。
 [右下]はエジプトは『死者の書』からの抜粋となっている。

 一目して形態的類似性があると分かる上掲図像群。の間に存在する不快な相関関係について論じよう。我々の社会を維持する司法が実に胡散臭いものとして発展してきたこと、そして、それゆえ、原則・例外の ―原則への落とし込みが全くもって陳腐なものになっている― 悪しきスクリーニングが許容されるようになっていることを示唆せんがために、である:言っておくが、司法によって多く実効性を伴い発動する法制度は似非科学と違いまともな理念に拠っており、非常に合理的に出来てはいる。法に対する担い手のこじつけのあり方から適用がなされる[原則]が少ないから問題になるのだ)。

 次に挙げるIからVIIの各点をご覧いただきたい。

I.ローマの司法神テーミス(上掲四図中[右上])とそっくりなものが合衆国国璽初期デザイン(上掲四図中[左下])に登場している。とした上で言うが、上掲の合衆国国璽初期デザインはフリーメーソン象徴体系に親和性高きシンボル群を反映させたものとなっている (:合衆国初期デザインは幾点か存在し、その全てがフリーメーソンとの関係でかぐわしいものなのだが、ここでは上掲のものに限定して話を進める)。

 具体的には次に述べるような形でメーソンの象徴(に親和性高きものら)を反映させたものとなっている。

デザイン画の上部に配された[三角形の中の目]がまずもってフリーメーソンとの連結性を示している一部の人間はイルミナティの象徴だなどとのたまうが、200年以上も前のメーソン関係の書籍にすでに[三角形の中の目]がメーソン由来のものとして言及されている)。

秤を持った女と並んで立つ男が棒の上に掲げている[フリギア帽]と呼ばれるものもメーソンのその実の象徴として扱われている、と述べられる。"魂の処置の比喩"に絡む、である魂の処置の比喩とフリーメーソン象徴としてのフリギア帽 ―レッド・キャップ― の関係についてはオンライン上の英文情報でも見ることの出来ぬ解説を本Webサイト上の[赤き帽子に秘められた操作の比喩]との記事で詳説している)。

II.上の点で述べたように"フリーメーソン象徴で満ちた国璽"の原案にも登場していたローマの司法神テーミス。 彼女は上述したように現代の司法の権威の象徴たる[正義の女神]の原型になっているとされる。
 その[テーミス⇒正義の女神への変転]には悪魔的なる隠喩が介在している可能性がある。濃厚にある。
 そのように述べる理由だが、それは

テーミスが正義の女神に変転させられる過程でおっかぶらされた[目隠し]がフリーメーソンなら誰でも知っている象徴となっている

ということにある。目隠しは裁かれる者の外見に正義の目が惑わされてはならないという比喩の現れとして[正義の女神]に被せている、などとシステムの奴隷たちには紹介されるのだが、実はフリーメーソン達が画期としての儀式の際に"かぶらされる"ものとも関係していそうなのである(:欧米ではフリーメーソン映画として有名な『MATRIX』三部作。そのうちの三作目での最終局面で主人公が目隠しをされた状態になった。あれはメーソンの連中にはピンとくる描写である。というのもメーソンには画期として[目隠し]をさせて死と再生を体験させる通過儀式(イニシエーション)があるからである)。

III.上のIIを読まれて多少、奇異に思われた事情通もいるかもしれない。次のような観点からだ。

フリーメーソンの近代的成立は18世紀初頭の英国であるはずだ(少なくとも多くの人間が同意する通史上では、だ)。であるが、ここで問題視されている正義の女神の目隠し適用事例は上の図の解説によると16世紀(1543年)というじゃないか。メーソンの登場年代の方が200年近く、正義の女神より後だ。メーソンの目隠しとの関係で正義の女神の目隠し適用の不審さを論じるのは間違っていないか?

 無論、そのような反論が成り立つことは百も承知だ。
ために、続く内容、
[死者の書にからむ話]
[英米法の発祥地、イギリスの司法制度に伴う結社の臭いの話]
があるとして先を続ける(それら続く話を介して世間一般に常識とされている考えがいかに欠陥をはらんだものなのか訴求。もって、メーソンの流布された18世紀起源論から上の図像間の構造的類似性に対して「適当な例ではない」と批判するのが的外れであることをあぶりだしていく)。

IV.上掲図像をご覧になられれば、"多少"は分かろうかと思われるが、

エジプト出土の『死者の書』のパピルス画(上掲四図中[左下])と[合衆国国章初期デザイン](上掲四図中[右下])の間には視覚的一致性が存在している

 [秤や二対の存在が配置されているあり方]などの側面で、である(さらに言えば、全体像に着目するとその他の意味でもそこはかとなく相似形が見いだせる形となっている)。
 とした上で「真に問題なのは」だ。視覚的一致性に加えて、死者の書と合衆国国璽初期デザイン案の間には意味論的な一致性があることである
 より具体的には
両者共々、魂の処置に関わるものである
という意味論的な一致性があることである。
 『死者の書』では心臓が秤にかけられ、罪人の魂の重さが衡量された結果、罪が重いとされると脇に控えたワニの怪物、アメミットに魂が喰われるとの設定になっている(実にふざけた話だ)。
 対し、アメリカ合衆国国章草案では女神テーミスが描かれ、審判の秤がそこに現れているが、に加えて、魂の処置との兼ね合いでは上のIでも挙げた[フリギア帽]が問題となるテーミスの反対に立つ人物がフリギア棒を引っさげた帽を手に持っている)。フリギア帽は供物としての牛(去勢牛ことOx)、あるいは、人間の魂(Soul)の処置を描いた異教絡みの象徴記号などとして登場しているといった背景上、[魂に処置をなされた者の象徴]と解釈出来るようになっているのである ―― (Iで書いたこともそうだが、右だけ読んだだけでは完全に理解できようはずもない。ために、先にも紹介した本Webサイト上の[赤き帽子に秘められた操作の比喩]との題の記事を読まれることを勧める)。
 そう、『死者の書』も、アメリカ合衆国国章草案も
[魂の処置]と[秤による審判]
をモチーフにしたものといったことで背景思想を共有している
と受け取られるようになっている。

V.上のIVにて述べたような、
「視覚的かつ意味論的なる相似性が死者の書とアメリカ合衆国国章の間に存在している」
ことは実に不可解な話だ。時系列に着目し、言えることとして、である。
 その点、建国の父56人中、53人が明示的フリーメーソンだったなどとされるメーソン製国家、アメリカ合衆国の誕生は1776年。他面、古代エジプトの文書解読を可能ならしめたロゼッタ・ストーンがエジプトで発見されたのは1799年であり、同ロゼッタ・ストーンの解読がシャンポリオンという男、高校の世界史の授業でも学ぶような男によって成し遂げられたのは1822年となっている。
 (そもそもエキセントリックと受け取られかねない話をなしているのだが)時系列上、影響・被影響の関係を考えるのには ―「常識論に則る限り」― 無理があるようにとれる (:余談だが、ロゼッタ・ストーン解読にまつわる登場人物はこの世界のシステムの根幹にかかわる概念・公式の提唱者が含まれていることに操作の片鱗を見る想いでもある。私の著書でも言及したフーリエ変換、世界が我々の視界に"投影"されている仕組みを部分的に論じ得る関数変換方式を編み出した男、ジョセフ・フーリエ。光の波動性を研究したことや今日あるエネルギー概念を導入したことで物理学 ―なかんずく量子力学― を専攻した者にはその名を知らぬ者なきとされるトマス・ヤング。その存在がなければ、今日の科学が絶対になかった右の如き者達とシャンポリオンのようなフリーメーソン員(とされている者)にはロゼッタストーン解読劇を通じての接点がある。これを単なる偶然と思う者は[真実からの逃避者]としか言いようがない。閑話休題)。
 さらに言えば、シャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読によって可能となった神聖文字ことヒエログリフ読解をもって『死者の書』の内容が判明、それが巷間に漏れ伝わることになったのは1842年のドイツ人考古学者カール・レプシウスの出版活動による(とされる)ことも不可解性に拍車をかけもする。
 ために、古文書の内容が解読されるよりはるか前にその古文書の内容が ―ピラミッドやオベリスクが大好きな― メーソン製国家の国璽に反映されていた節がある、上のIVに見るようにアメリカ合衆国国章原案に秤と魂の処置のモチーフが『死者の書』由来のものとして秘教的に持ち込まれていた節があることは「普通では説明がつかない」ものなのだ (今日、諸所で見ることが出来るアメリカ国章最終案。そこに[ピラミッドとその上に輝く目]が描かれているように、合衆国国章制定には古代エジプトの影響が見られ、それがために同じ式で『死者の書』内容が国章"草案"に反映されていたと自然に考えられる一方で、である) 。
 だが、こう考えれば、説明がつく。
フリーメーソンが飼い主に"やらされて"、ふざけた象徴体系を国家の権威の象徴にまぶしたり、妙な古文書を流れに基づいて翻訳したか、ゼロから偽造していた『死者の書』根本偽造説については可能性論にすぎないが、フリーメーソンがやらされて妙な象徴体系を今日にもたらしていることは可能性論ではなく完全なる事実である)。

VI.上のVを踏まえて話を司法の象徴体系に戻して言う。

魂の処置の比喩、フリーメーソンの象徴体系を含む合衆国国章草案に登場した司法神。IIIにて述べたように ―歴史的前後関係を逆転しているものの― [フリーメーソン儀式で使われる目隠し]と意識して結び付けられている節が濃厚にある司法神。彼女は目隠しの問題から離れた上でもフリーメーソンにとって重要な存在である

 何故、そのように言うのか。
 それは
[タロット・カードに込められた比喩]
と関わる話となる。近代になってフリーメーソン関係者 ―アーサー・ウェイトやアレイスター・クローリーといったオカルト系フリーメーソンの役者がそうだ― が改変を加えたものが最大限、流通しているタロット・カード。その"11"番目のカードに司法神が描かれていることが問題となるのだ(かつては正義の女神は8番目のカードと結びついていたのだが、フリーメーソンのアーサー・エドワード・ウェイトが改変を加えて11のカードに結びつくに至った)。
 と、ここまで読んだ上で人は言うかもしれない。
「たかが、タロット・カードだろ。オカルト関係の人間や占い好きにしか興味がないようなローカルな話で何を大きなことを語ろうとしているんだよ」。
 一見、最もな指摘だが、的を射ていない見立てであると述べたい。私もオカルトや占い(あるいは予言か)の類は下らぬものと軽視しているが(であるから、当記事のあり方も含めて当サイトをそのようなものと同様・同列に見られかねない形にて構築してしまったことに後悔もしている)、そういったもの、オカルトや占いといったものの額面上の位置づけと一線を画し、タロット・カードというものには
[フリーメーソンの操作者 ―チェスの打ち手― が象徴言語として用いる小道具]
としての側面が見て取れるからである。
 たとえば、
911のあの事件の「露骨なる」事前予告映画、『ファイト・クラブ』という映画にてタロット・カードの[運命の輪] (10番目のカードでそこに描かれる運命の女神フォルトゥナは500年以上前から目隠しした姿でも時に描かれていた) のモチーフを採用されているらしき側面があったり、実際にハリウッド・スターが儀式的に殺されたと指摘できる映画でタロット・カードのモチーフが用いられていたりしている
といったことがある(:根拠を抜きに右のような話に相対されれば、「何を馬鹿げたことを」と言いたくなるのは無理なからぬこと、というより、当然のことだが、本Webサイト上ではそうした印象論を撤回させしめるだけの具体的根拠を呈示している)。
 さらに言えば、極めて有名な映画の中のタロット・カードを用いた隠喩がこの世界をどう動かしていくかというプログラムの問題に接合していると受け取れる側面があり、その伝でタロット・カードには[フリーメーソンの飼い主が象徴言語として用いる小道具]としての側面がある、とも述べられるようになっている(:に関しては、本Webサイト上の[運命の女神の運命の輪。それは大災厄実現プログラムに関わる事象たりうる]といった記事を参照されるとよいだろう)。
 そうした操作の比喩と結びついた流通タロット・カード(メーソン員エドワード・ウェイトに端を発するウェイト版タロットとその後裔)の"11"番目にメーソンによる改変の上、
[メーソンの儀式用目隠しとも結びつく司法神]
が描かれているとのことがあり、それは決して軽んじるべきことではない。
「司法の女神が描かれる11番目のカードの[11]という数は911の事件 ―実態はタロットカード象徴体系を想起させるような形で事前発生予告されもしていたメーソン製儀式であると受け取れる事件― と複合的に結びつくように調整されている数である」 (アメリカの司法制度の担保のために用いられる警察呼び出し番号は911の事件が起こる前から911だった。・日本のそれは110番であるのに対して、だ。911も110も11と結びつく:9+1+1=11、ゼロをNull(無)と看做した場合の110→11など)
「11番目に続く12番目のタロットカードは死刑囚(吊るされた男)のカードであり、13番目のタロットカードは黙示録の死神の騎士のカードである」

といった観点上。

VII.正義の女神がフリーメーソン及びその象徴体系とつながっている、最奥の操作の隠喩を伴いながらつながっていることは上のIからVの内容で(一面ででも)納得いただけたのではないか、と思う(特に[目隠しと儀式の比喩]が大きい)。
 とした上で、ここでようやっと本記事で問題としている原則・例外論と接合する重要な話をなす
 まずもって、次のことをお含みいただきたい。
「欧米の法曹界はフリーメーソンと共に発展したきた」。
 に関しては、[イギリスの法廷弁護士と裁判官の育成過程]について考える必要がある(:イギリスにはウィッグと呼ばれるカツラを被る法廷弁護士と事務弁護士がいる。しかし、ここではそういった細かいことは問題にしない)。イギリスでは法廷弁護士ないし裁判官になるには法曹院での課程を修了していなければならないことになっているのだが、そこにいう法曹院の沿革がフリーメーソンの沿革と重なるのである。[テンプル騎士団]([神殿騎士団]でもいいが)と呼ばれる十字軍の重要構成集団を共通項としてだ。
 その点、フリーメーソンは自らを[テンプル騎士団の後裔]であるともって任じており、その印章体系を自身達の象徴に多く組み込んでいる(竜退治の聖人、ゲオルギウスの赤十字などもそうだ)。「フリーメーソンの表向きの起源は18世紀に求められる」と先にとしたが、それ以前の十字軍に沿革を求める説があり、メーソン達はその話を極めて重要視しているのである(説の真偽はこの際、問題にならない)。他面、イギリスの四つある法曹院のうち、二つまでがテンプル騎士団由来のものである
 ゆえに、イギリス法曹界とフリーメーソンの今日まで続く蜜月関係を自然に想起できる形となっている(:フリーメーソンが自分たちのルーツと結びつくと主張する場所に多く集まることは自然に想起されることだ。そういった話にスポットライトを浴びせ、イングランド法曹界とフリーメーソンのテンプル騎士団絡みの関係を問題視している人間もいる)。
 そして、それは極めて重要な話となる。イギリスはアメリカと旧英国植民地にて採用されている法制、コモン・ロー(慣習法)の育まれし場であるが、そのイングランドの慣習法を造ってきた連中がフリーメーソン的なる者達であったとされることは、もっと言えば、英米の正義の適用の在り方を決する者達がフリーメーソン的なる者達であったとされることは次に挙げるような"機構問題"と密接につながるものだからだ(機構問題の話は[心魂を抜かれたがごとくのあり様になった者達のトモダチ関係]本質について考えたことがなき幸せな方々のために書くことでもある)。

コモン・ロー、すなわち、慣習法は極めて合理的に形成されてきた。
 が、その慣習法の重大要素を形作る重大判例には[本質的なる悪を問責するもの]が含まれないように慎重に調整されてきた節がある。ミクロの次元の話として[テンプル]出身の裁判官がフリーメーソン員としてメーソンの悪につながる被告に黒を言い渡すことはしないことがあるのだが(フリーメーソンの裁判官は結社のために黒を白にすると言われている。冗談抜きに)、人間の自由や尊厳を侵害するシステムの存在論に関わる判例が決して形作られないということが極めて重要なこととしてマクロの次元で横たわっているのだ。
 一部、英米法系の流れを汲む日本の例を引きつつ、より簡単に言おう。
 日本では創価学会絡みの事件の有名判例が存在し、法律を学ぶ者に論点を提供しはする(:[板まんだら事件]という有名な事件があり、最高裁が「宗教の教義に法は関知せじ」との基準を示したことで有名。創価学会という組織は人間の心魂を抜くが如きの操作に用いられている組織であることはこの際、抜きにした常識論の世界の話として)。
 であるが、日本では決して創価学会が ―組織的に通信の秘密を侵したりもしつつ― 、制度上、政教分離を建前にしている国で宗教政党を持っていることが[判例]にはならない(:余談だが、「光明党、いや、公明党は大した勢力を持っていないから問題にならない」といったことは事情通が言うことではない。公明党とは煙幕と受け取れるからだ。実際には自民党も民主党にも創価学会の係累(あるいはその薬籠中の人間)が大量に入り込み、学会のための諸活動に多くの時間を費やしている。その事実を糊塗するために敢えて、そこに問題が収束しているがごとくの煙幕として公明党を維持しているとの風もあるのだが、そのような煙幕が望ましいものであるはずがないのは言うまでもない:右の話は政治に詳しい知人から聞いたことだ。彼は信用できる男なので敢えて断定調で書いた)。
 決して判例にはならないということはそれが今後の判決の帰趨を決する枠組みにならないということ、[法律上の真空地帯]になるということと表裏をなす
 そういった真空地帯を意図的に造ってきたものが英米で歴史的に形作られてきたシステムである。
 そういったシステムの下では
[企業や他組織体に浸透し身内びいきで望む者以外を排斥していく駒育成集団]
が民主主義ひいては自由主義社会を形骸化させるといった観点上、法的に規制されるべきところを規制されはしない。そういうことが堂々とまかり通るといったことは実のことを言って、我々の[内面の闘い]にも通底する問題だ。が、残念なことに[魂を抜くがごとくのオセロゲーム]を最大限、有利に進ませうる身内びいきを促進する[結社の自由]の方が法治国家では尊重される ―同[結社の自由]はフリーメーソンが規定させた自由の概念として尊重されている― 。 につき、英米法の国ではない話となるが、ドイツはナチスとの観点から[結社の自由]的なるものを見直したはずだ、などと反論をなす輩がいるかもしれない。が、そんなものは表向きの話の受け入れにしかすぎない。旧東ドイツはフリーメーソン国家だったとは私の著作で指し示しているし、現在でもドイツはひどい状況にあるとされているからだ)。

 これにてまとめにあたるVIIの話を終える。

 非常に長く、そして、カッコ内での余談も多くなり、読みづらい内容となってしまった。であるが、とにかくも、上のIからVIIをよく読んでいただければ、だ。次のような主張が成り立つのを納得いただけるものかと思う。

司法の神の似姿にはメーソンの操作者の比喩が介在していると考えられる(当時、解読もされていなかった古文書の内容と結びつくように、[魂の処置と司法神を併用したデザイン]をメーソン設立国家アメリカ合衆国の国璽にまぶそうとしていた意図があったことなどがそうだ)。
 そのことは端的にこの世界の司法が恣意的に運営されていることを指し示すものでもある。コモン・ローの担い手にフリーメーソンの臭いがつきまとい、原則は正しい、だが、表に出ない例外をたくさん無視されてきたという認めがたい話と表裏をなすこととして、だ英国のコモンローの担い手にフリーメーソンの飼い主の操作の臭いが働いていると述べたのは私が初めてではない。デービッド・アイクというポップ歌手にまで名前と著作を引用されるまでになった人物、欧米で大変、物議を醸している人物に至ってはロンドンはシティの法曹コミュニティの一部は爬虫類人に支配されている、などといった話までしている ―私はそのように[超陰謀論者として指弾されがちな話]を[いきなり]かつ[根拠軽視方式]でなしはしないが― 

 上をご覧になられて、
「あまりにも非常識すぎる話だ。そんな話は容れるつもりはない」
とお考えになるのは個人の自由だ。しかし、容れる容れないとを問わず、そのような司法制度の欠陥を反映しているが如きのことが現実に自由主義社会でもまかりとおっている。既述のように日本で創価学会の全くもって憲法違反なる側面が多く無視され、その組織的犯罪行為がマスメディアのやり口と同様、司法でも極小化されて扱われているのもその式で語れることだ重大な犯罪行為がカルトによってなされていても、そのことは「ほとんど」司法の場で問責されていない)。世界の中枢、アメリカ合衆国に至っては
「犯罪発生率が急減している中、法的拘束者の数が急増、合衆国が国家的刑務所と成り下がりつつある」
という馬鹿げたことが観察されさえする(信じがたい話だろう。だが、右は数値に基づいて訴求できる"事実"だ。本Webサイト上の[「アメリカ」は刑務所国家というより国家的刑務所となり下がった]という記事にて詳述している事実なのだ)。


本文に対する補足として正義の女神の残酷な二面性の話をなそう。上の図をご覧いただきたい。双方ともに知己のマルティン・ルターの絵を描いたことでも有名な16世紀活躍の画家、ルーカス・クラナッハの絵だ。
 左側は[剣を持つ正義の女神]を描いたものとなっている。
 右側はユダヤ人を攻撃していたアッシリアの将軍がユディトという信心深い女に色仕掛けされ、結果、隙を突かれて首を斬られた故事をテーマに作製された画だ。
 [正義の女神]と[首切り貴婦人]の絵が非常に似ていることがお分かりになられるだろう?に関しては、両画を描いた画家の脳裏に『法律による裁定というものはユディトの色仕掛けのようなもので、多く問題をはらんでいる』との想いがあった可能性もある(私は宗教対立の根をもたらしたルターのような人間、『奴隷意思論』という著作をものし、その中で「自由意思は有害なだけだ。信仰だけが神に救われる道だ」などと説いていたルターのような狂った人間の知己だったという画家クラナッハにも、その未熟な女性を扱っているようにも見える気色悪い画風にも共感を覚えないが ―ただ、クラナッハ作品は多角的な意味で問題視すべきものばかりである― )。

 そして、上にてなした話は日本の法曹関係者にとり、笑えぬ話だ。何故か。現に日本では高校生の時分に首切り事件を起こした人間が司法試験に受かって弁護士となるようなことが起こっているからだ。属人的な話など、この際、どうでもよいのだが、1969年に神奈川県で起こった高校生首切り殺人事件の犯人がそうだ。「いかなる事情があろうと、だ。人の首を猟奇的に斬る。そのようなことをやるような鬼畜のような奴が人間の尊厳など理解できるはずがない。そんな奴は死刑にしちまった方がよかったんだよ」というのが我々の世界の常識だ(:ただし、常識無視の私は「もう少し」甘い。どんな汚いこともやらかすフリーメーソンのような連中やカルトの連中とてやらせられていることを知っているからだ。が、昔の武士稼業でもないのに人の生首を斬るような輩が目の前にいたら、よくて睨みつけるか、歯牙にもかけない、となるのは言うまでもない。というより、私は他の"尊厳"を冒すような存在は何人たろうと信用しないし、[一人前の人格]とも見ない)。 にも関わらず、そのような人間があの拷問としか思えぬ超難関中の難関たる司法試験 ―最近ではレベルの低い半八百長試験に成り下がったとも聞くが― を突破。弁護士になり、何十年も人様の[尊厳]の問題を扱ってきた。

 何?「法律を真剣にやったことがある人間なら分かるだろうが、司法試験に受かるには憲法の理念をみっちり学び、それを完全に答案上にプロット出来るようになる必要がある。その過程で憲法の崇高な理念に触れ、その元少年犯罪者は(弁護士になれるまでに)改心したんだよ」だと?
 いや、そうではなかろう。私の見立てでは人間の[魂の問題]はそのようなものではない。何でもやる人間、何でもやらされる人間は"多く"その悪循環から抜け出せないのだ。抜け出したくても抜け出せないのだ。それが高校生という一廉の分別もついてきた時分に知人の生首をナイフで斬ってしまうような人間の話となるともう完全に更生不可能とさえとっている(そういうことをする輩は自身の自由意思が完全に毀損されているか、自由意思があっても他人の自由意思を完全に毀損するだけの内面を有していることになる。そう、そういった輩の内面は人間というより ―デービッド・アイクという男の論法を借りれば― 爬虫類に近くなっているようにも見える)。 いくら綺麗事を並べ立てようが、そのような文脈から更生不可能ととれる人間があの司法試験の受験を"選択し"、ほぼ全身全霊を傾けてであろう、それに受かった。人間の冒してはならない"尊厳"の問題を事細かに扱った憲法。その額面通りの理念を答案にきちんとプロットしつつであろう、受かった。そんな馬鹿げたことすらもがありうるこの世の中だからこそ、司法神は二重人格神として君臨できるのではないか、と睨んでいるのである(誤解を避けるために言っておくが、やらせで何でもさせられるような輩は現時、法曹の一部だろう。私の知りうる限り、法曹には立派な人間も多いととらえる。フランス革命を主導した弁護士、ロペスピエールのように人権派から一転、首切り魔になってしまうような人間は極一部だろう)。

 嫌な話となってしまったが、補足はここまでとしておこう。


 そろそろ締め括りに入った方がよいだろう。今まで述べてきたことを踏まえて、[まとめ]兼[訴求したきこと]を述べると、次のようになる。

マス・メディアは[原則]と[例外]を使い分ける手法で巧みに現代社会に生きる我々に幻影を見せる。その幻影の影では[直視しがたいような悪事]がまかりとおっている
 何故、悪事が幻影によって隠し通されているのか。その理由はフリーメーソンの根本思潮とも結びついているグノーシス主義と呼ばれる思潮に則て言えばこうなるだろう。
[この世界を造った造物主が悪の存在だからだ]。
 あるいは、それと両立しうることとして
[人間に酔生夢死を強いる力学が働いているからだ]。
 そういったものの見方が100%の真実か否かについてはここでのテーマを超えるので本記事「では」論じないが(ただし、フリーメーソンの飼い主の大半か全部がいかに邪悪な存在かは本Webサイト上の他所を通じて訴えている)、とにかくも、マス・メディアが見せるものが幻影だと気付いた瞬間、あまりにも巨大な建て前と本音の乖離に気付いた瞬間、多くの人間が"心魂"を奪われるが如きの絶望に囚われ、心折れて、大事なものを失ってきたその喪失観と無力感。そして、それとワンセットとなった服従をもたらすための幻影である可能性もある。とした上で、まだ、そういったことについて考えたことがない向きのために書いておくが、[建て前と本音の乖離に気づいても、心魂を折られないように気をつけてほしい])。
 そして、その因果が極まったところとしての破滅の兆しが透けて見えだしている(本記事の冒頭から冥途への一里塚の話はなした)。
 司法もこの世界のそうした悪しき側面から大事なものを守り通す力にはなっていない。いや、司法そのものがマス・メディアと同じ式の[原則]と[例外]のメカニズムに則り悪しきメカニズムを維持するように、はなから調整されていたシステムであるとの風すらもがある。
 司法はあまりにも多くの悪を見逃し、この世界の歪なる側面を等閑視することで我々の世界が[毒入りのお菓子の家]であることを維持してきた風すらもがあるのである

 そんな中にあって今、我々がやるべきことは何か。
あまりにも領域が狭い原則論の世界を拡大し、あまりにも領域が広い例外論の世界を縮小すること
ではないのか。それを今、やらなければ、この世界はどこに行くか、分からないといった次第なのは多くの方々が分かっているはずだろう」

 これにて本記事を終えよう。

記事一覧へ戻る