プログラム拘束の魂たちが紡ぎ出す結末を変えるために

 
 

問題意識の所在 ―13―

 前頁では
「ハトが[魂と古来、呼ばれてきたもの]の象徴物となっている」
との話 ―我々、人類、全てにかかわりうることであるとし展開した話― にまつわる関連事象に多く触れてきた。そうして頁(ページ)の切り替え部に至った折、「Ψ・"プサイ"・魂と彫像の関係については一笑にふしたがる向きも多かろうから(あるいは、疑いを差し挟む向きも多かろうから)その点については続く頁でも言及する」とし話を一旦切った。

 以上の[ここに至るまでの流れ]を把握いただいたうえで下に挙げる図像群をご覧いただきたい。

 図の解説をなす。まず、最上段左の図
 一見にして「鳥の上に乗った存在が描かれている」と分かろう同図は「旅行体験を受けて描かれた、インド現地の神格を描いた18世紀の銅版画」(欧州人の作)である。もっと言えば、「インド天文学の九曜(9つの惑星)のうちの一、土星を神格化させたシャニと呼ばれる存在」である。個人的には同シャニが欧州のローマ時代からの同じく「土星の神格化存在、Saturnusサトゥルヌス/サターン」と同様、二匹の爬虫類と結び付けられていること ―二匹の爬虫類と結びつく土星神格化存在サターンの似姿は後の頁で呈示することとする― を興味深くとっているのだが、ここで問題とすべきこととの絡みでは次のようなことがある。

「インド固有の天文学に由来する神でさえ、蛇と"鳥"(一般にカラスことCrowとされる。しかし、図上ではハトことPigeonに見えるし、事実、ご当地インドにもそのような彫像があるようだ)が結び付けられている。そして、そのことは既述の話、ハトと二匹の蛇がまとわりつく蛇の杖の並列描写が魂の操作の比喩となる、との話と接合する。 何故か。 上掲の銅版画上のシャーニー、そして、シャーニーの彫像一般が多くギリシャアルファベットのΨプサイ、魂を意味するとされる文字を体現したような武具(銅版画上では、まさしく前頁にて言及した日本の沖縄に伝わる武器、サイこと釵といった出で立ちだ)を手に持つからだ」。

 さて、上の点、シャニ像がプサイ(psi・Ψ)を体現したような武具を手に持つという話をしたところで、だ。続いて、
[最上段右側の絵画]
をご覧いただきたい。同画はギリシャ神話の海神ポセイドン(ローマ神話でいうところのネプチューン)を描いたものである。ポセイドンがフォーク上の「三叉の矛」を持っていることがお分かりになるだろう。それは神話上、「一つ目巨人サイクロプスから譲り受けたとされる神具」であるわけだが、ここまでの文脈上、Ψ、すなわち、魂の比喩となっているものとして持ち出したのは言うまでもない(首をかしげたくなる向きは前頁にてなしたギリシャ神話の「ポセイドン」や「ゼウス」の話を再読いただきたい)。
 と、ここで、識者達ならばこう言うかもしれない。前頁でも述べたことの繰り返しになるが、こう言うかもしれない。
「インドの彫像が三叉の矛を手に持つのはギリシャ文化の影響ととれる」。
 そういった大人の常識人好みの常識論への再反論は"包括的に"後述するとしつつ、次の図像群に関する解説をなそう。

 上掲の四角枠で囲った「4体の仏像」群についてだ。それら仏像群は全て日本にあるものであると述べた上で言っておく。
「数多ある仏像群の中で上の4体は"特別なもの"である」と。
 それらは全て日本の「国宝(彫刻の部。126作品)から選別し」たものなのだ。要するに、日本に存在する仏像の「代表的なるもの」(それがために最もその形態的特長が ―真実の探求者にとり― 重要視されるべきもの"とも"考えられる存在)と言える仏像達である。
 以上、抜粋仏像群が日本における「仏像の代表選手」であると述べた上で、そのプロフィールについて、である。
 枠内図左上から順に時計回りに「虚空菩薩像」(神護寺安置。平安期の作。アカシック・レコードなどのニューエイジャー思想とも通じる仏像)/「多聞天像」(唐招提寺安置。奈良期の作。越後の"龍"と呼ばれた上杉謙信が己に仮託したことでも有名な毘沙門天でも知られる四天王の一柱をかたどった像)/「不空羂索観音」(広隆寺安置。平安期の作。不空羂索観音は三叉の矛を持つシヴァと共通要素を持った仏ともされ、また、日本では"雷"神でもある建雷命タケミカヅチと習合している仏をかたどったもの)/「千手観音像」(唐招提寺安置。奈良から平安期。同千手観音像が手に持つものには興味深いものが幾点か含まれると私などは見ている)となっている。
 一目してお分かりになろうことかと思われるが、それら四体の仏像達は全て「三叉の矛」を持っている。そのように仏像の代表選手たちが三叉の矛を持っていることに「Ψ=プサイ=魂の操作の比喩」が「宗教という大嘘体系を介して含まれている」と考えることは「行き過ぎ」だろうか?いや、そうではあるまい。次のような事情があるために「行き過ぎ」ではあるまい。

すでにハトと蛇の杖の話を介して魂の操作の比喩の問題が悪辣かつ隠喩的に含まれているケースに言及している。それを含んだ上で述べるが、
『宗教という大嘘体系にどんな隠喩的なメッセージがこめられていてもおかしくはない』
 加えて、本頁冒頭に挙げ解説をなしたシャニのような神格が"鳥(稀にハト)"と[魂の具現化物たるプサイ]と[蛇]を結びつけるように存在しているのだから(前頁にて西洋の歴史的遺物に見る[ハトと蛇の関係]は論じた)、そして、ギリシャの[三主神のうちの一柱]たるポセイドンが三叉の矛を持っているのと同様にヒンドゥーの[三主神の一柱]たるシヴァが三叉の矛を持っているといったことがあったりするのだから(頻繁に蛇とも結び付けられるシヴァは一見して操作の本質が垣間見れるインドの三神一体像の構成単位だ)、それらと同じ式で多くの仏像が手に持つ三叉の矛にどんな["人"の思惑の外にある悪質なメッセージ]がこめられていてもおかしくはない

 しかし、上に述べたような考え方、私が拠って立つ考え方に対しては常識人たちが喜んで耳を傾けそうな反論(一言、既に述べたような反論)も容易になしうる。すなわち、
「仏像が[三叉の矛]を手に持つのはその発祥地インドにてヒンドゥー教のみならずギリシャ文化の影響をも受けた結果と"とれる"といった具合に[人間レベルの文化伝播]で多くが説明可能。インド云々して持ち出した前提からして間違っているだろう」
という反論を実なきファウスト博士達でもなしうる(右は俗にいう「ガンダーラ美術」との兼ね合い"など"で成立する話となる。いまだ偶像崇拝様式を生み出す前の存在だったインド仏教。それを押しのけたヒンドゥー教の彫像体系がギリシャの彫刻体系とどう接合しているかについては不分明なるところもあるのだが、ギリシャ由来のヘラクレス像デザインが仏像に転用されるに至った ―ギリシャ由来のヘラクレス彫像化様式が執金剛神という仏のデザインに転用されている― といったことは一部で有名な話となっている)。

 であるが、[何かとてつもない変容の時 ―(変容の力学が死の方向に収縮するのか、生の途につながるのかは我々の意志の総力に依りき、であって欲しいと私は考えている)― ]を迎えつつあるこの時代にあっては上のような"常識人"好みの見解に再反論を講じるのは容易となってきているし、また、そうすべきだ。とした上で「文化伝播」理論によって多く、あるいは、すべてを説明出来るとの見解には以下のような再反論をなしうる、と示しておく(ここでの本筋、「ハトが魂の比喩となっている」ことを証すること、我々全ての行く末に関わるプログラムの危険性を述べる前提の話から、これ以上、脇にそれたくはないとも考えているのだが、多少、長くなる脇道上での指摘をなす。〔1〕→〔4〕と"段階的に")。

〔1〕今日の仏教の偶像作製様式は確かに「ギリシャからの文化的影響を強く受けている」。そう述べられる理由の解説にあたっては遊牧民族、大月氏が打ち建てたとされる「インド史」上の王朝、クシャーナ朝(別名クシャン帝国)から述べはじめる必要がある。
 ガンダーラ地方(現在のパキスタンとアフガニスタンの一部)を制したクシャン帝国。その影響下で今日の仏教の"視覚的"体系が形作られた、そう、「仏像の今日まで続く様式が定まり、それらが広範囲に輸出された」(仏教"自体"の中国への最古来の伝播を大月氏がクシャン帝国の基礎を磐石にする前に「浮屠教」として輸出したことに求める説もあるが、その真偽はこの際、問題にならない)とされるわけだが、仏教「様式」の確立者、大月氏の同クシャン朝は、だ。言ってみれば、「ギリシャ文明の影響を非常に強く受けた王朝」だった。仏教自体を広範囲に伝播させるのに史上、最大限、寄与したとされる二世紀のクシャン王、カニシカ。その父親の代にクシャンがギリシャ文字を刻印していた硬貨(贋造物でないとは保証しない)を発行するなどしていた、といったことに端的に見受けられるように、である。
 そういった仏教流布の媒介者となった統治体の性質上、仏教美術体系もまたギリシャ文化の影響を強く受けているとされるわけだが(「ガンダーラ美術の仏像は彫りが深い」などと表されたりする。結果、上述したような形で「三叉の矛」が頻出する"とも"とれる)、「しかし」、である。次に述べる〔2〕のようなことも考えておく必要がある。

〔2〕そも、仏教の由来は実に胡散臭い。何も〔1〕のように美術様式云々などせぬとも「人間の精神の操作のために構築された体系と言える」といった具合にである。例えば、だ。私の著作では大乗仏教の立"役者"とされる男、龍樹こと「ナーガルジュナ」が「竜王」から仏典を授かったとされる経緯や仏陀本人の潅仏会(かんぶつえ。誕生祭)が龍と結びつくと紹介しているが、そこにいう「龍」はデービッド・アイクのような論客を持ち出さずとも「ご同類の蛇(古代ギリシャでは竜と蛇の怪物は似通ったものだった)と共に[人間業とは思えぬ隠喩的手法] ―ここがポイント― で世界中で多用されてきた象徴である」と明言できる存在である。
 としつつ、「仏教」にはこういう話があるとも触れておく。
「仏教美術揺籃の地、既述のガンダーラ地方で遊牧民王朝クシャン帝国以前にも仏教にかぶれた者達がいた(仏像が造られるようになった"以前"の時代に、である。従って、ここでの[美術様式の伝播]の話には直接的には関わらない)。彼らはギリシャ人で、いわゆるインド・グリーク王朝の担い手だったのだが、同王朝の王が仏教に帰依したとの過程を描いた仏典に『ミリンダ王問答』というものがある。その中で王を仏教徒にした者の名が[ナーガセーナ]とされる。されるも、ナーガセーナとはサンスクリット語で[蛇人・龍の軍隊]の意である。直近表記のナーガルジュナこと龍樹、同ナーガセーナより後の時代の大乗仏教の立役者の名がナーガ(蛇人)とつながるのと同様の臭いを感じることとして、である」。
 いいだろうか。そのような由来を有する仏教の"視覚的"体系成立過程にそも、「常識論」を持ち込む自体がナンセンスであるともとれなくないだろうか(くどくも直近表記の内容を繰り返すが、仏教自体もまた、全て人間を馬鹿にするように構築されている「心魂を抜くための体系」とも"とれる"からだ。とした上で言っておくが、そういった話は今日の日本の社会的な癌(少なくとも法の適正手続きを重んじる職種、カルトに由来する不条理をよく知っている職種に属している人間の一部には人権侵害の実情把握と共にそういった認識があることを私は聞いた。大人の常識人は決して明示的に"連中"に歯向かわないようだが)たる創価学会の大元になった日蓮宗などの法華経信徒団体にも受け継がれていると言える。法華経は「蛇の鱗のマーク」を抱える氏族、北条氏の者が蛇に変身する女から、その布教を称えられたものだ、と日本の軍記物『太平記』に記述されていたりするためにである)。

〔3〕敢えて〔2〕のような事情があることを無視したとしても、だ。常識の守り手、学究(ファウスト博士としての学者)達が固執し流布する「文化伝播」概念というやつには突っ込みどころが満載である。端的な例を挙げよう。まずは伝播現象の体現物ともされる諸種の言語。そこに通説と異なる信じがたいような背景が垣間見れることに触れてみる。従前、同様のことを気にしていたのは量子力学者達ぐらいのものだろうと見るが、私がたまたま調べていて気づいたこととして、こういったことがあったりするのだ。

「インドのサンスクリット語ではアニマン(animan)とは
[物事を不可視なる程に微小なるものとすること]
を意味する語となる。 他面、ラテン語の極めて似たような響きの語、アニマ(anima)とは [] を指し、それはサンスクリットの右animanとは意味的にも文化的にも接合しない(animaの語源はインド・ヨーロッパ祖語のanә、「息をする」にあるとされる)」  

「そのようなことを述べた上で続けるが、学者達が流布するような常識に則て普通に考えれば、だ。サンスクリット(インド)のaniman [物事を不可視なる程に微小なるものとすること] の"古代ギリシャの同義語"となるのは [原子](atomo) だ。
 その [原子] の語源はギリシャ語のアトモン [これ以上、分けられぬもの](atomon) となり、サンスクリットの同義語animanがそうであるように上述のラテン語、[](anima) とは意味的に接合しない」 
⇒ 
「にも関わらず、である。ラテン語の世界で アニマ[] とされるものに発音が近しいサンスクリット語のアニマンが [不可視なる程に微小なるもの] とされること、それは波動関数にΨ(魂をあらわす語)を用いるような学問領域、量子力学(及び、同分野を突き詰めていった際に導き出せる話)と魂の問題のレベルで接合していると受け取れもする。量子力学の分野では極々一部の人間 ―例えば、デービッド・ボームといった一流の物理学者― が人の根源存在、すなわち、"魂"、アニマの語で表されるようなものの領域が"量子"の領域(サンスクリットのアニマンと同義だろう領域)、 [万物が一なる最小の世界] につながっている、と20世紀になって述べだしたからだ(既述のCERNこと欧州原子核研究機構があつかう原子核の世界、フェムト単位の世界にも関わる話としてだ)」。

 どうだろうか。現代量子力学勃興以前の太古から現代量子力学より導き出される考え、微小なるものの世界に魂の本質があると示すような"文脈"が成立していたわけだ。文化的につながりがたい世界、そして、本来の意味論的にはつながらない世界を横断しながらである(繰り返すも、サンスクリット語の[animan]とギリシャ語[atomos]とラテン語[anima]は直線的につながらない。常識ではつながらない。ただし、原子の世界が魂の世界と"接合"するという発想法自体は多少、異なる形で原子論の開拓者、古代ギリシャのデモクリトス、後述する哲人の脳裏にもあったように"とれる"形となっている。デモクリトスなる人間が本当に「実態としての歴史」上、実在していたかは分からないが、伝わる歴史上、デモクリトスを輩出したとされる古代ギリシャとインド北西部には文化的つながりがあったようだから、非常識的に無理な理論を展開しようと思えば出来ることには出来る:しかし、そのような理論を展開するより人外の介入を考慮した方が遥かにすっきりする。前述の沖縄の武器、サイの話と同様に)。 
 上に述べたことから、アニマンというサンスクリット語の言葉に[物事を不可視なる程に微小なるものとすること]という意味を与える領域、インドにて、だ。崇められる偶像が手にもつのが「三叉の矛(Ψ)」であることに関し、「魂」の意味を見出すこととて馬鹿げたことではなかろうと述べたい。とした上で次の〔4〕の話に入る。

〔4〕上記〔3〕で否定的に論じた「伝播」では説明がつかぬような人間業ならぬ一致性は他にも多々、客観的な形で散見される(私の無償公開著作はそのような人間業なからぬ一致性の解説に多くの頁を割いている。また、本Webサイトの他カテゴリの記事でもそういった一致性の問題について詳述している)。としつつ、「伝播」では説明がつかぬ一致性について、「本件と接合するような話」だけここ(〔4〕)で挙げておこう。それは上にて模写銅版画を抜粋したインド占星術上の[土星]神格化神シャニに関する話となる。シャニには次の「」内に述べるような信じがたい一致性の問題がつきまとったりするのだ。

インド信仰体系上、シャニの望ましからぬ影響、すなわち、"土星"の不幸を招来する影響を抑える行為として、インドの神猿、ハヌマーン崇拝がある。ハヌマーンがシャニに恩義を売ったためと叙事詩(一般に"人形"の世界では3世紀成立が通説視される『ラーマーヤナ』)上にあったりすることがその理由とされるからだが、それは悪魔的に接合する。["子殺し"(正確には雌が群れより追放された雄との間にもうけた子に対する際立った非血縁の子殺し)をなす猿]として20世紀中盤、初めて認識されるようになったハヌマンラングールがインドにて特異な形で生息していることとだ。
 何故か。その悪魔的接合問題について理解するにはまずもって上ハヌマンラングールの子殺しが ―繰り返すも― 20世紀になって発見されたことであるのを把握しておく必要がある。
 また、現実の猿、ハヌマンラングールがシャニ崇拝と結びつく神格、直近既述の神猿ハヌマーンとの神話的外見一致性から何世紀もインドで尊崇視されてきた存在であるとも把握しておく必要がある(そう、京都の鹿のように手厚く保護されながら、だ)。
 あとはハヌマーン崇拝がその悪しき影響力を抑止するとされる土星の神格化存在シャニのギリシャ版の神クロノスやローマ版のサトゥルナスが"子殺しの神"のモチーフとして"あまりにも有名"であること(同テーマを扱った非常に不気味な画家ゴヤの絵 ―子を食らうサトゥルナスをモチーフとした絵― があったりもする)を理解してもらえればよい

 当然、上「」内で述べたようなことを知っていれば、思うはずだ。
『何故、"つい最近"、子殺しすると判明したインドのローカルな猿につながる[土星のインド信仰体系]の他所版(ギリシャやローマ版)が子殺しの象徴として有名である土星の神格化存在 ―クロノスやサトゥルナス― と何世紀も結び付いてきたのか』と(私が旅した"諦めの国"、インドではそういったことを口にするような人間はほとんどいないだろうが)。
 それを、そう、土星神格化存在と子殺し属性の共有を"ただの偶然"だと思うだろうか?残念でならないが、ただの偶然ではなかろう。何度も述べてきたこととして、ハトや蛇の杖に絡むふざけた比喩が人間の歴史には散見されたりするのと「同様に」である。そういった人間レベルの伝播では説明がつかないような一致性の話が"ざら"にあるからだ。ここでした話はほんの一例にすぎないと言えるほどに"ざら"にあるからだ(興味がある向きは私の無償公開著作や本Webサイトの[歴史。伝承。神話。人類の歩んできた足跡上に存在するエニグマ]と題したカテゴリの記事群を読まれるとよいだろう。の中では土星の神格化存在が『黙示録』と結びつくとの不快極まりない話も扱っている)。

 上記〔1〕-〔4〕にて順を追って述べたようなことから
[三叉の矛が魂の隠喩になっているとの見立て]
に対し
「伝播の問題で済むとの常識的見地から反論を講じる」ことがいかにナンセンスか、お分かりになられたのではないかと思う。

 そのように述べた上で、次の話にようやっと移る。前頁の
[八幡のハトが魂の比喩につらなるとの話の延長線上として長々となしていた、ここまでの話]
からようやっと次の話に、具体的には
[ハトが魂の比喩となっていること(三叉の矛のように魂の比喩を含む、宗教という戯言体系上にての人間の内面的本質の比喩となっていること)がどうして危険なのか、との話の前段階の話]
に移る。

 まずもって、下の図をご覧いただきたい。

 

 上掲の図の解説をなす。上段の方の図からだ。同図はキリスト教化を見た後のギリシャはアトス山のヴァドペディ修道院に存在する象徴画、「三位一体」を描いているとされる象徴画である。その点、同象徴画で表されているというキリスト教の「三位一体(トリニティ)」についてだが、"一般"には「(神。私の著書ではその元となった神、ユダヤ教唯一神ヤハウェが蛇の神由来の存在だったという神話学者ジョセフ・キャンベルの説を紹介)」と「(イエス・キリスト。去勢シンボルにまつわる神、ミトラと好対照をなす存在だとは既述)」と「聖霊(プネウマとも呼称される。常識的見解上、聖霊は人と神をつなぐ"ケーブル"ということになる)」の三要素の一体を説く宗教思想であるとは既述のことだ。そのような三位一体が上掲二図の上の図で「聖霊がハトで表され、父なる神(右上老人)と子なるキリスト(左上)と並列描写されている」という形で描写されていると述べつつ、先にすすもう。
 さて、上の画が拠って立つ「三位一体」思想だが、「額面どおりのそれ(神の愛と一体化して救われるという結論に行き着く考え)」が多く虚偽であるとは「神の聖霊=ハトとする見解」の虚偽性に焦点をしぼって、すでに何度か述べてきた(直前の頁と[問題意識の所在―7―]と題して始めた頁にて)。現実には「ハト=聖霊=神と人を結びつけるケーブル(通説)」などではなく、「ハト=囚われの人の本質(魂)/操作される人間の象徴」だろうとの観点上。
 以上のようなことを把握(再確認)していただいたうえで私が「ハトがスフィア(オーブ)と結びつく」と([問題意識の所在―7―]と題した頁にて)書いていたのを思い出していただきたい。そして、上掲上段図はまさにその典型、ハトとオーブが結びつく典型と言えるものだ。図上の人面鳥の似姿をとるシュールな天使達(実際には"それ"が何なのかは多くの方に想像がつくことだろう)。彼らが上下に描かれ、逆さ「Tの字」を含むTO図体現世界図(既述)状の球体がそこに言うところのオーブである、というわけである(図拡大部のオーブには月と太陽が並列に描かれている。それはギリシャの隔絶された修道院の宗教画たる上の図とつながらない存在であるはずのフリーメーソンが彼らの象徴画にて多用する表現形式であり、既述のふざけたミトラ教がレリーフに反映させている表現形式でもある)。
 ここに至るまでの内容を全てまじめに読まれてきた向きには大体にして私が何を言いたいのか、この時点でお分かりになられた方もいることだろう。おおよそ、次のようなことを思いつつ。

 『要するに、上の三位一体を体現した画に描かれているオーブの構造が2001年の911で焼かれたWTC中枢配置のオブジェ、スフィアと対応している(より正確には人形のフリーメーソン達が作ら"されていた"既述の映画、911の露骨な前言作品『ファイト・クラブ』登場のWTCオブジェとそっくりなイミテーションと対応している)と言いたいわけだ。だから、人間の本質的なる側面に"何か"がなされうる可能性がある。三位一体の真実というものを加味して。そんなところだろう?』

 上のような考え、私が[問題意識の所在―7―]と題した頁にて述べたことの繰り返しになっているような考えを抱かれた方には「まさしくその通りだ」と言いたい。だが、まだ根拠が薄弱にすぎる。事象予測の根拠が薄弱すぎる。だからこそ、続く内容があるとしつつ、話を進める。

 さて、次いで、上掲の下段の図をご覧いただきたい。14世紀に書かれた書からの抜粋で「天動説」に基づく「天球」観を体現した図だ。同図に関し問題としたきことには「天球がCelestial Sphereと呼称されることを考慮し、911で焼かれたものの通名と化している[スフィア]の名称使用とTO図体現球体(視認容易化のため、色を変えた拡大部参照のこと。一般に球体は球体でも"スフィア"というより"オーブ"とされる存在)が結びついている」こともあるのだが(似たような話は天球の模式化物 Armillary Sphere天球儀にもあてまると従前述べた)、「神がそこでのTO図を体現した球体(オーブ)をきっちりと脇に抱えている」ことを重くとらえている。
 何故か。TO図体現球体は何度かそれとなく述べてきたように一般には「王権の権威象徴物(Regalia)のオーブ」とされ、それゆえに、である。ニューヨークにて9月11日に起こった出来事、ドイツ人、フリッツ・ケーニッヒ(ケーニッヒとはドイツ語で「王」を指す語だと述べた)製作のスフィアが焼かれた出来事がフリーメーソンの「王冠つぶしの儀」よろしくのものと"矮小化"され「かねない」ということがあるからだ(そういった人間レベルの話への矮小化がなされうることにも[問題意識の所在―6―]、[問題意識の所在―7―]と題した頁にて言及したが、それが矮小化たる所以については十二分に解説しきれていなかった)。対し、上掲下段図にて「(王ではなく)神がTO図体現のオーブを持っていること」は「スフィア(オーブ)が911で焼かれたのは伝統的に反王権の世界秩序構築を目指してきた、と"される"メーソン思想の体現といった人間レベルのものではないこと」をよく示している、と述べたいわけだ。むしろ、「TO図体現オーブ(スフィア)が王権の象徴物だったのは操り人形たる王族に世の縮図を体現"させしめた"にすぎない」と述べつつの話として、である(その点、人間の不幸の真因を[爬虫類人]に求めたことで欧米にて最も物議を醸すに至った男、デービッド・アイクは現代まで続く"王侯貴族"や大資本家が爬虫類人の血族だ、などと首をかしげたくなるようなことを言っているのだが、私は彼らとて筋金入りの操り人形にすぎないと見ている。そういった者達の[裏に控えている存在]については ―この世界は「はきと示せる(当サイトでも実際にそうしている)」相応の特性で満ち満ちているので― アイクと私の見立てには大して差異はないとしつつも)。

 この辺で頁を改めたほうがよいだろう。続く次頁では、だ。(ここまでの内容をお読みいただいて)、今更、911の事件をフリーメーソンの人間的なる陰謀に"すぎない"ととらえる人間も少ないだろうが(問題はメーソンの飼い主にある)、「魂の象徴・ハトとも結びつくスフィア絡みの事象込みで」多くが全くもって人間レベルのものではないことを"より"深く理解してもらうための話からはじめる(直近表記の内容を受けつつも、多少、ここでの本題から脇にそれることになるが)。人外が人間の内面、魂と呼ばれる内面との絡みでこれから何をやるか、やりうるかの詰めの話の前段階として、"まだ"十分にものを言える力を有している方々に考えて欲しいために、である。

前のページへ〔PREVIOUS PAGE〕   次のページへ〔NEXT PAGE〕